第7章:夜を歩く男

 夜が深かった。

 風が止み、街が息を潜めている。

 まるで何かが始まるのを、誰もが待っているような静けさだった。


 俺は歩いていた。

 どこへ向かっているのか、自分でもよくわからなかった。

 ただ、脚が動いていた。

 まるでそれが最初から決められていたように。


 ポケットの中には、封筒がひとつ。

 今朝、部屋のドアの下に滑り込んでいたものだ。

 中には、またしても血まみれの写真。

 その下には短い言葉が添えられていた。


 ——「今夜、浄化は完了する」


 そしてその裏には、手書きの地図。

 見覚えのある路地。倉庫。

 数年前、俺が摘発に関わった人身売買の拠点。

 潰したはずのその場所が、また動いている。


 ナイトの声がした。


 「チャンスだ、ジョナサン。お前の正義を取り戻す夜だ」


 心臓が高鳴っていた。

 だがそれは恐怖でも興奮でもなかった。

 むしろ、“懐かしさ”に近い感覚だった。


 今夜、俺は誰になる?

 元刑事か?

 獣か?

 それとも——夜そのものか。


 廃倉庫の前に立ったとき、空は月に割れていた。

 高く、青く、完全な円。

 まるで、神の瞳がすべてを見下ろしているような光。


 扉は鍵が壊されていた。

 すでに誰かが中にいる。

 踏み込んだ瞬間、空気が変わった。

 冷たく、鋭く、そして——甘い。


 血の匂いがした。

 俺の中の何かが蠢いた。


 奥の部屋で、複数の男たちが金を数えていた。

 テーブルの上には薬と銃。

 その横には、目隠しをされた子どもがひとり、椅子に縛られていた。


 瞬間、世界が赤くなった。


 目の奥で、何かがはじけた。


 骨の軋み。

 皮膚の裂け目。

 喉の奥から唸り声が漏れ、

 指先が膨張し、鋭く伸びていく。


 けれど、俺は自分を見ていた。

 まただ。

 また、俺は“俺の外”にいた。


 獣のような何かが動く。

 それが男たちに跳びかかり、喉を裂く。

 銃声。悲鳴。倒れる音。

 すべてが、遠くで再生されるビデオのようだった。


 俺はそれを止めようともしなかった。

 ただ、見ていた。

 静かに。黙って。


 やがて静寂が訪れた。

 部屋は血に染まり、風が吹き抜けていた。


 鏡のように黒い床に映った影が、こちらを見た。

 それは俺だった。

 だが、その顔には、人間の輪郭がもう残っていなかった。


 ナイトが、俺に微笑んだ。


 「お前はもう、夜の一部だ」


 俺は、ゆっくりと目を閉じた。

 そして、初めて自分の声で呟いた。


 「……わかってる」

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