第6章:共犯者

 夜の匂いが、服に染みついていた。

 金属と血と、濡れたアスファルトの匂い。

 そんなもの、いつから感じ取れるようになったのか。

 人間は空腹でもないのに、何かを“渇望”できるのか?

 今の俺はそれを、毎晩、身体の奥から感じている。


 夜になると、誰かが目を覚ます。

 そして、俺の皮膚の下で蠢きはじめる。


 今夜もそれは変わらなかった。

 月は低く、青く、冷たかった。

 部屋の中には誰もいない。

 けれど、どこかで足音がした気がした。


 鏡の前に立つと、また“やつ”がいた。

 ナイト。

 俺のもう一人の顔。

 それは今や、幻でも夢でもなかった。


 「座れよ、ジョナサン」

 ナイトは俺と同じ声で、まったく違う口調で言った。

 飄々としていて、笑いを含んでいて、だが目だけは冴えていた。


 「……お前は俺をどうしたいんだ」

 俺が問うと、ナイトは肩をすくめた。

 「どうもしないさ。俺はお前を助けてるつもりだ」


 「助けてる?」

 「そうだ。お前が見て見ぬふりをしてきたクズどもを、俺が片付けてやってる」


 ナイトは鏡の中で座り込み、足を組んだ。

 その動きが、異様に自然で滑らかだった。

 あたかもそこに**“実在する”**かのように。


 「マーチン。政治屋のウィルソン。倉庫で死んだ密売人」

 ナイトは指折り数えながら言った。

 「みんな、お前がかつて追い詰めきれなかった奴らだ。腐った街の毒。

  そして、警察も法律も、何もしなかった。だから俺が動いた。お前の代わりに」


 俺の心臓が跳ねた。

 その言葉は、どこかで自分が思っていたことでもあった。

 正義では救えなかった現実。

 法では届かなかった闇。

 そのすべてに、牙を突き立てる存在。


 「お前は……俺の代行者だと?」

 「違う。俺は“お前がなれなかったもの”だよ」


 ナイトは笑わなかった。

 その言葉には、痛みすらにじんでいた。


 「お前が壊れたあの夜。誰も助けてくれなかった。

  お前が泣いた夜も、酒に溺れた朝も、誰も見ていなかった。

  だから俺が生まれた。お前を守るために。

  お前が、もう人間でいられなかったときのために」


 沈黙が落ちた。

 俺は、立っていられなかった。

 床に膝をつき、頭を抱えた。

 混乱ではない。絶望でもない。


 それは——理解だった。


 俺はこの街の闇を知っている。

 この街の正義の“薄っぺらさ”を知っている。

 ナイトの言っていることは、間違っていない。

 ただひとつ違うのは、俺はそこに踏み込めなかった。


 ナイトは言った。


 「お前が恐れているのは、俺じゃない。

  本当は、“俺になりたがっている自分”だろ?」


 そのとき、どこか遠くでサイレンが鳴った。

 月はさらに低くなり、光が窓のガラスを青く染めていた。

 ナイトは立ち上がった。

 ゆっくりと手を伸ばし、鏡の向こうから俺に触れようとする。


 「さあ、ジョナサン。今夜は、お前が選ぶ番だ」


 「共犯者でいるのか。

  それとも——狩る側に戻るのか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る