第11話:ミカエルの過去

翌朝、玲奈とルカは昨夜の決意通り、困っている人々を助けるために神殿を出発する準備をしていた。しかし、出発前にミカエルが二人を自分の書斎に呼んだ。


「お二人とも、少しお時間をいただけますか?」


ミカエルの書斎は神殿の中でも特別に静寂な場所だった。壁一面に古い書物が並び、机の上には羊皮紙や古い地図が広げられている。窓からは朝の光が差し込んでいるが、部屋全体は落ち着いた雰囲気に包まれていた。


「どうぞ、お座りください」


ミカエルが椅子を勧めると、玲奈とルカは向かい合って座った。ミカエル自身も椅子に座り、しばらく沈黙が続いた。


「実は、お話ししたいことがあります」


ミカエルの声には、いつもとは違う重さがあった。


「昨日の報告を受けて、改めて考えました。お二人には、この世界の真実をもっと知っていただく必要があると」


「真実?」


玲奈が首をかしげた。


「はい。そして、それをお話しするためには、まず私自身のことを話さなければなりません」


ミカエルは窓の外を見つめながら続けた。


「私も昔、愛する人がいました」


玲奈とルカは驚いた。厳格で神に仕える身であるミカエルが、恋愛をしていたなんて想像もしていなかった。


「お名前は、エリザベートといいました」


ミカエルの声に、深い愛情と悲しみが込められている。


「美しく、優しく、そして何より純粋な心を持った人でした。まるで天使のような人だった」


「それは...いつ頃のお話ですか?」


ルカが恐る恐る聞いた。


「今から二十年ほど前のことです」


ミカエルは机の引き出しから、古い肖像画を取り出した。そこには、確かに美しい女性が描かれている。金色の髪に緑の瞳、優しい微笑みを浮かべた女性だった。


「美しい方ですね」


玲奈が感嘆の声を上げた。


「はい。彼女と出会った時、私はまだ若い神官でした。神殿での修行に明け暮れる毎日でしたが、彼女と出会ってから、世界が変わりました」


ミカエルの表情が柔らかくなった。


「愛することの素晴らしさ、誰かのために生きることの喜び。すべてを彼女が教えてくれました」


「素敵なお話ですね」


玲奈が微笑むと、ミカエルは少し悲しそうな表情を見せた。


「しかし、その愛は長くは続きませんでした」


「何があったのですか?」


ルカが心配そうに聞いた。


「戦争です」


ミカエルの声が重くなった。


「この世界にも、かつて大きな戦争がありました。隣国との領土争いが発端でしたが、やがて大規模な戦争に発展したのです」


玲奈は息を呑んだ。平和で美しいエテルナ世界に戦争があったなんて、想像もしていなかった。


「エリザベートは、戦争で傷ついた人々を看護する仕事をしていました。彼女の優しさは、多くの兵士たちを救いました」


「それは素晴らしいことですね」


「はい。私も彼女を誇りに思っていました。しかし...」


ミカエルは言葉を詰まらせた。


「ある日、敵の奇襲攻撃がありました。看護施設も標的になり、エリザベートは...」


ミカエルはそれ以上言葉を続けることができなかった。玲奈とルカは、何が起こったのか理解した。


「そんな...」


玲奈の目に涙が浮かんだ。


「私は彼女を守ることができませんでした」


ミカエルの声は震えていた。


「神に仕える身でありながら、最も大切な人を失ってしまったのです」


「ミカエル様...」


ルカが慰めようとしたが、ミカエルは手を振った。


「その後、私は深い絶望に陥りました。愛する人を失った悲しみ、自分の無力さへの怒り。すべてが私を苦しめました」


ミカエルは立ち上がって、窓際に向かった。


「そんな時、アリエル様が私の前に現れたのです」


「神様が?」


「はい。そして、こう言われました。『悲しみは愛の証である。その悲しみを乗り越えた時、真の強さを得ることができる』と」


ミカエルの声に、深い敬意が込められている。


「神様の言葉によって、私は立ち直ることができました。そして、二度と同じような悲劇を繰り返さないために、この神殿で神に仕える道を選んだのです」


玲奈とルカは、ミカエルの過去の重さを感じていた。


「でも、なぜ今、そのお話を?」


玲奈が聞くと、ミカエルは振り返った。


「お二人に理解していただきたかったからです。愛することの素晴らしさと、同時にその重さを」


「重さ?」


「愛は時として、大きな犠牲を要求します。そして、愛する人を失う可能性も常にあります」


ミカエルの言葉は、二人の心に重く響いた。


「お二人の愛は美しく、純粋です。しかし、その愛が試される時が必ず来ます」


「試される?」


ルカが不安そうに聞いた。


「はい。愛を貫くために、何かを犠牲にしなければならない時が」


ミカエルは再び椅子に座った。


「私がエリザベートの話をしたのは、お二人に心の準備をしていただきたかったからです」


「心の準備...」


玲奈の声は小さかった。


「どんな困難が待っていても、愛を信じ続ける準備です」


ミカエルの表情には、深い慈愛があった。


「私はエリザベートを失いましたが、彼女への愛は今も心の中に生きています。その愛が、私を支え続けているのです」


玲奈とルカは、ミカエルの言葉の意味を理解しようとしていた。


「ミカエル様」


玲奈が口を開いた。


「私たちの愛も、試練に耐えることができるでしょうか?」


「それは、お二人次第です」


ミカエルは優しく微笑んだ。


「しかし、お二人の愛を見ていると、きっと大丈夫だと信じています」


「ありがとうございます」


ルカが深々と頭を下げた。


「貴重なお話をしていただき、ありがとうございました」


「いえ、話すべき時だったのです」


ミカエルは立ち上がった。


「さあ、お二人は村の人々を助けに行かれるのでしたね」


「はい」


「気をつけて行ってください。そして、何があっても互いを信じることを忘れずに」


玲奈とルカは書斎を出た後、神殿の中庭で少し話をした。


「重いお話でしたね」


玲奈がつぶやくと、ルカは頷いた。


「でも、大切なお話でもありました」


「ミカエル様のお気持ちを考えると、胸が痛みます」


「僕もです。愛する人を失うということが、どれほど辛いことか...」


ルカの表情に不安が浮かんだ。


「でも、だからこそ、今この瞬間を大切にしなければならないのですね」


玲奈がルカの手を握った。


「はい。そして、どんな試練が来ても、一緒に乗り越えましょう」


「約束します」


二人は神殿を出発した。最初に向かうのは、昨日使者が来た村だった。馬車に乗りながら、玲奈とルカはミカエルの話について考えていた。


「ルカさん」


「はい」


「私たちにも、ミカエル様のような試練が来るのでしょうか?」


「分からない。でも、来るかもしれません」


ルカの正直な答えに、玲奈は少し不安になった。


「でも、怖がっていても仕方ありませんね」


玲奈は気持ちを切り替えた。


「今は、困っている人たちを助けることに集中しましょう」


「そうですね」


馬車は美しいエテルナの風景の中を進んでいく。しかし、よく見ると、確かに異変が起こっているのが分かった。道端の花々の色が薄くなり、川の水量も少なくなっている。


「やはり、世界の異変は本当のようですね」


ルカが窓の外を見ながら言った。


「はい。一刻も早く、何とかしなければなりません」


村に到着すると、確かに深刻な状況だった。井戸は完全に枯れ、畑の作物は枯れかけている。村人たちの表情も暗く、不安に満ちていた。


「神殿からお越しいただき、ありがとうございます」


村長が二人を迎えた。


「状況を詳しく教えてください」


ルカが聞くと、村長は困った表情を見せた。


「三日前から、井戸の水が出なくなりました。そして、畑の作物も急に枯れ始めたのです」


「他に変わったことはありませんか?」


玲奈が聞くと、村長は頷いた。


「森の動物たちが姿を消しました。いつも聞こえていた鳥の鳴き声も聞こえません」


確かに、村の周りは異常に静かだった。自然の音がほとんど聞こえない。


「分かりました。まず、井戸を調べさせてください」


ルカが提案すると、村長は案内してくれた。


井戸を覗いてみると、確かに水は全く見えない。しかし、不思議なことに、井戸の底からかすかな光が見えた。


「あの光は何でしょう?」


玲奈が不思議そうに言うと、ルカも首をかしげた。


「分からない。でも、普通の井戸にあるものではありませんね」


「降りて調べてみませんか?」


玲奈の提案に、ルカは少し心配そうな表情を見せた。


「危険かもしれません」


「でも、原因を調べなければ、解決方法も分かりません」


玲奈の決意を見て、ルカは頷いた。


「分かりました。一緒に降りましょう」


村人たちに頼んで、ロープを用意してもらった。二人は慎重に井戸の中に降りていく。


井戸の底に着くと、そこには信じられない光景が広がっていた。井戸の底に、小さな魔法陣のようなものが描かれていて、そこから光が放たれている。


「これは...」


ルカが驚いた。


「魔法陣みたいですね」


玲奈も魔法陣を見つめた。


「でも、なぜこんなところに?」


その時、魔法陣の光が強くなった。そして、二人の前に人影が現れた。


「あなたたちが来ることを待っていました」


現れたのは、見知らぬ老人だった。白いローブを着て、長い白髭を生やしている。


「あなたは?」


ルカが警戒しながら聞いた。


「私は、この世界の記録を守る者です」


老人は穏やかに答えた。


「そして、あなたたちに伝えなければならないことがあります」


「伝えること?」


玲奈が聞くと、老人は頷いた。


「この世界に起こっている異変の真の原因を」


老人の言葉に、二人は身を乗り出した。


「真の原因とは?」


「それは...愛の力が強すぎることです」


老人の答えは、予想外のものだった。


「愛の力が強すぎる?」


「はい。あなたたちの愛は、当初予想されていたよりもはるかに強力です。そのため、世界のバランスが崩れ始めているのです」


玲奈とルカは顔を見合わせた。


「では、私たちの愛が悪いということですか?」


「悪いのではありません。ただ、強すぎるのです」


老人は説明を続けた。


「愛の力をコントロールする方法を学ばなければ、世界はさらに大きな混乱に陥るでしょう」


「コントロールする方法?」


「はい。そのためには、さらなる試練を乗り越える必要があります」


老人の言葉に、二人は覚悟を決めた。


「どのような試練ですか?」


ルカが聞くと、老人は微笑んだ。


「それは、あなたたち自身が見つけなければならないものです」


そう言うと、老人の姿は光と共に消えていった。残されたのは、静寂と、新たな謎だけだった。


二人は井戸から上がると、村人たちに報告した。魔法陣を清めることで、水は再び湧き出すようになった。村人たちは大喜びだったが、玲奈とルカの心は複雑だった。


帰りの馬車の中で、二人は沈黙していた。


「ルカさん」


「はい」


「私たちの愛は、本当に強すぎるのでしょうか?」


「分からない。でも、愛に強すぎるということがあるのでしょうか」


ルカの疑問に、玲奈は答えることができなかった。


神殿に戻ると、ミカエルが待っていた。


「お疲れ様でした。村の様子はいかがでしたか?」


「井戸の水は戻りました。でも...」


玲奈は井戸で起こったことを報告した。ミカエルは深刻な表情で聞いていた。


「そうですか。ついに、その時が来たのですね」


「その時?」


「愛の力をコントロールしなければならない時です」


ミカエルの言葉に、二人は驚いた。


「ご存知だったのですか?」


「予想はしていました。しかし、こんなに早く来るとは思いませんでした」


ミカエルは深いため息をついた。


「明日から、特別な修行を始めましょう。愛の力をコントロールするための修行を」


玲奈とルカは頷いた。新たな挑戦が、二人を待っていた。

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