第5話:運命の初対面

翌朝、玲奈は昨日よりもさらに早く目を覚ました。心の中にエルシアの記憶があることで、この世界での生活がより身近に感じられる。窓の外の庭園を見ると、エルシアが愛したアクアローズが朝露に濡れて、宝石のように輝いている。


「今日、あの人に会うんだ...」


玲奈は胸に手を当てた。心臓の鼓動が普段よりも早い。緊張と期待が入り交じった、複雑な気持ちだった。


エルシアの記憶の中には、神様への深い愛情が刻まれている。でも玲奈は、自分自身として新しい恋を始めなければならない。その相手となる人は、いったいどのような人なのだろう。


朝食を終えると、ミカエルが部屋を訪れた。今日の彼は穏やかな表情をしていて、昨日までの厳粛さとは違った温かさがある。


「おはようございます、玲奈さん。今日の気分はいかがですか?」


「少し緊張していますが、楽しみです」


「それは良いことです。緊張は真剣さの証拠ですから」


ミカエルは優しく微笑んだ。


「今日は神殿の庭園でお相手の方と初めてお会いいただきます。まずは自然な形でお話しください」


「分かりました。でも、その方は私のことを...」


「ご存知です。あなたがエルシアの記憶を継承したことも、代役としてここにいることも」


玲奈は少し安心した。最初から秘密があるのは辛いが、すべてを理解した上で会ってくれるなら、気持ちが楽になる。


「ただし」


ミカエルが続ける。


「その方も複雑な事情を抱えていらっしゃいます。最初は距離を置かれるかもしれません」


「複雑な事情?」


「それはご本人から聞いてください。私が言うべきことではありませんから」


ミカエルは玲奈を庭園へと案内した。朝の庭園は露に濡れた花々が美しく、空気は水晶のように透明だった。小鳥たちの歌声が響き、まるで天国のような美しさだった。


「あちらの東屋でお待ちください。間もなくいらっしゃいます」


東屋は庭園の奥にある美しい建物で、白い石でできている。周りには薔薇が植えられていて、甘い香りが漂っている。エルシアの記憶によると、ここは特別な場所だった。神様と初めて言葉を交わした場所。


玲奈は東屋のベンチに座って待った。手のひらに汗をかいているのが分かる。こんなに緊張したのは久しぶりだった。


「どんな人なんだろう...」


エルシアの記憶の中にある神様の姿を思い出す。光に包まれた美しい存在で、深い愛情と優しさを持った人だった。でも、今日会う人は神様ではない。代役の相手。


その時、庭園の向こうから人影が現れた。


最初に目に入ったのは、美しい銀髪だった。朝の光を受けて、まるで絹糸のように光っている。そして、その髪の持ち主が近づいてくるにつれて、玲奈は息を呑んだ。


背は高く、180センチほどはあるだろう。整った顔立ちで、特に青い瞳が印象的だった。その瞳は深い海のような美しい青色で、見つめられると心の奥まで見透かされそうな深さがある。


服装は白を基調とした上品なもので、神殿の住人らしい清楚さがある。歩き方は優雅で、まるで空気を切り裂くような洗練された動きだった。


でも、それよりも玲奈を驚かせたのは、その人から感じる不思議な懐かしさだった。


「あ...」


玲奈の口から小さな声が漏れた。エルシアの記憶が反応している。この人を知っている。でも、それは神様ではない。もっと身近で、もっと親しみやすい存在。


「初めまして」


その人が東屋の前で立ち止まって、丁寧に頭を下げた。声は低くて落ち着いていて、聞いているだけで心が安らぐような響きがある。


「僕はルカです」


「ルカ...」


玲奈はその名前を口にした。なぜか、とても自然に感じられる名前だった。


「あの、私は谷口玲奈です。よろしくお願いします」


玲奈も立ち上がって挨拶をした。ルカは少し驚いたような表情を見せた。


「玲奈...美しい名前ですね」


「ありがとうございます」


ルカは東屋の中に入って、玲奈の向かいに座った。距離は適度に保たれていて、相手を警戒しているような印象を受ける。


「ミカエル様から事情は伺っています」


ルカが口を開いた。


「あなたが代役として来てくださったこと、エルシアの記憶を継承されたこと」


「はい」


「僕も...代役です」


玲奈は驚いた。


「代役?」


「僕も、本来の自分ではない立場でここにいます」


ルカの表情に影が差した。


「詳しいことは、まだ話せません。でも、お互い複雑な立場にいることは理解しています」


玲奈は頷いた。確かに、二人とも何かの代役として、この恋愛を演じることになっている。でも、それが何の代役なのか、ルカについては分からない。


「あの...」


玲奈は恥ずかしそうに聞いた。


「どんな風に、お話すればいいんでしょうか?」


ルカは少し微笑んだ。それは今まで見せていた冷静な表情とは違う、温かい笑顔だった。


「自然にお話しすればいいと思います。僕たちは恋人の役を演じることになっていますが、まずはお互いを知ることから始めましょう」


「そうですね」


玲奈は安心した。ルカは思っていたよりも優しく、話しやすい人のようだった。


「エルシアの記憶はいかがですか?混乱されていませんか?」


「最初は戸惑いましたが、今は慣れました。エルシアさんの記憶があることで、この世界のことがよく分かります」


「それは良かった」


ルカは庭園の花々を見回した。


「エルシアはこの庭園を愛していました。特にあのアクアローズが好きでした」


「ご存知なんですね」


「はい。僕も...彼女のことはよく知っています」


ルカの声に、微かな悲しみが混じった。玲奈は気になったが、深く聞くのは遠慮した。


「あなたは普段、何をされているんですか?」


「主に神殿の管理をしています。古い書物の整理や、庭園の手入れなど」


「庭園の手入れをされているんですか?」


玲奈の目が輝いた。エルシアの記憶の中にも、庭園を愛する気持ちがある。


「はい。植物は正直で、愛情をかければかけるほど美しく育ちます」


ルカが花々を見つめる眼差しは優しく、その瞬間の彼はとても人間らしく見えた。


「素敵ですね。私も花は好きです」


「それはエルシアの記憶ですか?それとも玲奈さん自身の気持ちですか?」


鋭い質問だった。玲奈は少し考えてから答えた。


「両方だと思います。エルシアさんの記憶もありますが、私自身も昔から花が好きでした」


「そうですか」


ルカは興味深そうに玲奈を見つめた。


「あなたは不思議な人ですね」


「どうしてですか?」


「二つの人格を持ちながら、とても自然に振る舞っている。普通なら混乱してしまうはずなのに」


玲奈は笑った。


「私、意外と適応力があるんです。それに、エルシアさんの記憶は私を否定するものじゃありません。むしろ、私を成長させてくれるような気がします」


ルカの表情が少し和らいだ。


「それは素晴らしいことです」


二人はしばらく静かに座っていた。庭園には小鳥たちの歌声と、風が葉を揺らす音だけが響いている。不思議と気まずさはなく、むしろ心地よい沈黙だった。


「あの...」


玲奈が口を開いた。


「これからどのように過ごしていけばいいんでしょうか?」


「ミカエル様からは、自然に恋愛関係を築いていくようにと言われています」


ルカは少し困ったような表情を見せた。


「でも、正直に言うと、僕は恋愛というものがよく分かりません」


「そうなんですか?」


「はい。僕は...そういう感情を持ったことがないんです」


玲奈は驚いた。このような美しい人が、恋愛経験がないなんて信じられない。


「でも、あなたなら大丈夫だと思います」


ルカが続けた。


「あなたには人を愛する力があります。それは最初に会った時から分かりました」


「私に?」


「はい。あなたの瞳を見ていると、深い愛情を感じます。きっと、素晴らしい恋愛ができる人だと思います」


玲奈は頬を赤らめた。そんな風に言われたのは初めてだった。


「ありがとうございます。でも、私もまだよく分からないんです」


「それでいいと思います。一緒に学んでいきましょう」


ルカが微笑んだ。その笑顔は本物で、心からの温かさがあった。


その時、エルシアの記憶の中で何かが動いた。


(この人...どこかで...)


玲奈の心の中で、エルシアの声がささやいた。でも、それが何を意味するのかは分からない。ただ、この人に対して特別な感情があることは確かだった。


「あの、ルカさん」


「はい」


「私たち、きっとうまくやっていけると思います」


玲奈は心からそう思った。この人となら、きっと素敵な関係を築いていける。


「僕もそう思います」


ルカの表情が明るくなった。


「では、明日から一緒に過ごしてみましょう。まずは友人として」


「はい、お願いします」


二人は立ち上がった。初対面の緊張は和らいで、お互いに好感を持ったようだった。


「今日はありがとうございました」


玲奈が頭を下げると、ルカも丁寧に頭を下げた。


「こちらこそ。明日、図書館でお会いしましょう」


ルカが立ち去っていく後ろ姿を見つめながら、玲奈は胸に手を当てた。心臓がまだドキドキしている。


「素敵な人...」


でも同時に、心の奥で不思議な感覚があった。エルシアの記憶が何かを伝えようとしているような気がする。


(この人を知ってる...でも、どこで?)


エルシアの記憶を探ってみるが、明確な答えは見つからない。ただ、深い親しみと愛情のような感情があることは確かだった。


「まあ、きっとこれから分かることよね」


玲奈は庭園を散歩しながら、今日の出会いを振り返った。ルカは予想していたよりもずっと人間らしく、親しみやすい人だった。代役としての恋愛でも、きっと楽しく過ごせるだろう。


でも、心の奥では別の感情も芽生えていた。これは単なる代役の恋愛では終わらないかもしれない、という予感。


夕方、玲奈は自分の部屋で日記を書いた。


『今日、初めてルカさんにお会いしました。とても素敵な方で、思っていたよりもずっと話しやすい人でした。


銀髪に青い瞳がとても美しくて、声も落ち着いていて素敵です。でも、何より人柄が良さそうで安心しました。


不思議なのは、初めて会ったのに懐かしい感じがしたことです。エルシアさんの記憶が関係しているのかもしれません。


明日から一緒に過ごすことになりました。最初は友人としてということですが、きっと楽しい時間を過ごせそうです。


代役の恋愛...うまくできるかな。でも、何だか本当の恋愛みたいになりそうな予感がします。』


日記を閉じて、玲奈は窓の外を見た。今日と同じ美しい星空が広がっている。


「明日が楽しみ」


玲奈は笑顔でつぶやいた。新しい恋の始まりを予感させる、特別な一日だった。


心の奥では、エルシアの記憶が静かに輝いていた。まるで、大切な何かを思い出そうとしているかのように。

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