第6話:星空の下での距離

翌日、玲奈は約束通り図書館でルカと会った。神殿の図書館は昨日見学した時よりもさらに壮大に感じられ、天井まで届く本棚には数え切れないほどの書物が収められている。古い羊皮紙の匂いと、長い年月を経た知識の重みが空気に満ちていた。


「おはようございます」


玲奈が入り口で挨拶すると、奥の机で本を読んでいたルカが顔を上げた。今日の彼は昨日よりもリラックスしているように見える。


「おはようございます。よく眠れましたか?」


「はい、ぐっすり眠れました」


玲奈はルカの隣の椅子に座った。机の上には古い書物が開かれていて、美しい挿絵が描かれている。


「何を読まれているんですか?」


「この世界の歴史について書かれた本です」


ルカが本を玲奈の方に向けた。


「あなたも興味があるかもしれません。エルシアについても書かれています」


玲奈の心臓が早鐘を打った。エルシアについて書かれた記録があるなんて思わなかった。


「読んでもいいですか?」


「もちろんです」


ルカが本を玲奈の前に置いた。古い文字で書かれているが、不思議とすらすらと読める。エルシアの記憶のおかげかもしれない。


そこには、エルシアがこの世界でどのような存在だったかが詳しく書かれていた。彼女は神様に愛されただけでなく、この世界の人々からも深く愛されていた。困っている人を助け、病気の人を癒し、悲しんでいる人を慰める。まさに愛の化身のような人だった。


「すごい人だったんですね」


玲奈は感動で声を震わせた。


「はい。僕も彼女の話は子供の頃から聞いて育ちました」


「子供の頃から?」


玲奈は驚いた。


「ルカさんは、ずっとこの世界にいらっしゃるんですか?」


ルカは少し困ったような表情を見せた。


「それは...複雑な話です」


「すみません、聞いてはいけないことでしたね」


「いえ、いずれお話しします。ただ、今はまだ...」


ルカの表情に影が差した。玲奈は深く追求するのをやめた。きっと、何か言えない事情があるのだろう。


「では、他の本も見てみませんか?」


ルカが話題を変えた。


「この図書館には、愛について書かれた本がたくさんあります」


二人は図書館の中を歩いて回った。ルカが様々な本を紹介してくれる中で、玲奈は彼の博識さに驚いた。古代の詩から哲学書まで、幅広い知識を持っている。


「この詩集は特に美しいんです」


ルカが一冊の本を手に取った。


「愛の詩が収められています。読んでみませんか?」


「はい、ぜひ」


二人は窓際の読書コーナーに座った。ルカが詩を読み上げる声は美しく、まるで音楽のように響く。


「愛とは風のようなもの

見ることはできないけれど

その存在は確かに感じられる

心の奥深くで響く調べのように」


玲奈は詩の美しさに感動していたが、それ以上にルカの声に魅了されていた。低くて落ち着いた声は、聞いているだけで心が安らぐ。


「素敵な詩ですね」


「エルシアも好きな詩でした」


ルカが微笑んだ。


「あなたも気に入ってくれて嬉しいです」


午後は庭園を一緒に散歩した。ルカが庭園の手入れをしていることもあって、花々について詳しく教えてくれる。


「このアクアローズは、愛の象徴とされています」


ルカが青い薔薇に水をやりながら説明する。


「青は永遠を表し、薔薇は愛を表します。つまり、永遠の愛という意味です」


「美しい意味ですね」


玲奈はその薔薇を見つめた。エルシアの記憶の中にも、この花への特別な愛情がある。


「エルシアさんは、どのような方でしたか?」


玲奈は恐る恐る聞いた。


「あなたから見て、どんな人だったんでしょう」


ルカは手を止めて、遠くを見つめた。


「とても優しい人でした。誰に対しても分け隔てなく愛情を注いで、困っている人を放っておけない人でした」


「今の私と似ているところがあるんでしょうか?」


「はい。とても似ています」


ルカが玲奈を見つめた。


「でも、あなたにはあなたの魅力があります。エルシアとは違う、玲奈さんならではの輝きがあります」


玲奈は頬を赤らめた。そんな風に言われると、心が温かくなる。


「ありがとうございます」


夕方になると、二人は東屋で休憩した。昨日初めて会った場所だが、今日はもう特別な緊張感はない。自然に会話ができる関係になっている。


「今日は楽しかったです」


玲奈が素直に感想を述べた。


「僕もです」


ルカが微笑んだ。


「あなたと過ごしていると、忘れていた感情を思い出すような気がします」


「どんな感情ですか?」


「温かい気持ちです。誰かと一緒にいることの喜び、といったような」


ルカの表情は穏やかで、昨日の少し硬い印象とは全く違っていた。


「ルカさんは、普段一人でいることが多いんですか?」


「はい。僕は...人と距離を置くことに慣れています」


「どうしてですか?」


ルカは少し考えてから答えた。


「自分の正体について、話せないことがあるからです」


「正体?」


「いつかお話しします。でも、今はまだ...」


ルカは申し訳なさそうな表情を見せた。


「あなたには隠し事をしたくないのですが」


「大丈夫です」


玲奈は優しく微笑んだ。


「誰にでも、話せないことはありますから。いつか話してくださる時を待っています」


ルカは驚いたような表情を見せた。


「あなたは本当に優しい人ですね」


「そんなことありません。でも、信頼し合える関係になりたいと思っています」


「僕もです」


二人は夕日を見ながら静かに座っていた。オレンジ色の光が庭園を美しく照らし、花々が金色に輝いている。


「美しい夕日ですね」


「はい。エテルナの夕日は特別に美しいです」


「地球とは違うんですね」


「地球の夕日も見たことがあるんですか?」


玲奈は慌てた。うっかり自分の出身を口にしてしまった。


「あ、いえ...エルシアさんの記憶に、他の世界の夕日の話があったんです」


「そうですか」


ルカは特に疑う様子もなく受け入れた。


夜が更けて、二人は神殿に戻ろうとした。でも、庭園の美しい夜景に魅了されて、もう少し外にいることにした。


「星がきれいですね」


玲奈が空を見上げた。エテルナの星空は地球では見ることのできない美しさで、一つ一つの星が宝石のように輝いている。


「この世界の星座には、愛にまつわる物語があります」


ルカが指差しながら説明してくれる。


「あの星座は『永遠の恋人』と呼ばれています。引き離された恋人たちが、星になって永遠に見つめ合っているという話です」


「ロマンチックですね」


「エルシアもこの星座が好きでした」


ルカの声に、微かな感情が込められている。


「ルカさんは、エルシアさんのことをよくご存知なんですね」


「はい...僕にとっても大切な人でした」


玲奈の心に小さな痛みが走った。それは嫉妬だろうか。エルシアに対する嫉妬ではなく、ルカがエルシアを大切に思っていることへの複雑な気持ち。


でも同時に、エルシアの記憶が反応している。この人を知っている、という強い確信。


「私...」


玲奈が何かを言いかけた時、突然強い風が吹いた。


「危ない」


ルカが玲奈を支えた。彼の腕に支えられた瞬間、玲奈の心臓が激しく鼓動した。


「大丈夫ですか?」


「はい...ありがとうございます」


二人の顔が近づいている。玲奈は相手の深い青い瞳を見つめた。その瞳の奥に、深い優しさと、同時に深い悲しみを感じる。


「ルカさん...」


「はい」


「あなたなら大丈夫だと思います」


「何がですか?」


「どんな困難なことでも、きっと乗り越えられると思います。あなたはとても強い人ですから」


ルカの表情が変わった。驚きと、そして深い感動が混じった表情。


「そんな風に言ってくれるのは、あなたが初めてです」


「そんなことありません。きっと、みんな思っていますよ」


「いえ、僕は...」


ルカは言いかけて止めた。


「ありがとうございます。あなたの言葉が、僕の心を温かくしてくれます」


風が収まって、二人は離れた。でも、心の距離は確実に縮まっていた。


「今日は本当に楽しかったです」


玲奈が心から言った。


「また明日も一緒に過ごしていただけますか?」


「もちろんです。僕の方こそ、お願いします」


ルカが微笑んだ。その笑顔は昨日よりもずっと自然で、心からの温かさがあった。


「それでは、また明日」


「はい、また明日」


二人はそれぞれの部屋に戻った。玲奈は心臓がまだドキドキしているのを感じながら、今日一日を振り返った。


ルカと過ごした時間は、想像以上に楽しいものだった。彼の博識さ、優しさ、そして時折見せる人間らしい表情。すべてが魅力的だった。


でも、それ以上に気になるのは、心の奥で感じる不思議な感覚だった。エルシアの記憶が、何かを思い出そうとしている。ルカに対する特別な感情が、記憶の奥底から湧き上がってくる。


「この感情は何だろう...」


玲奈は胸に手を当てた。これはエルシアの記憶から来る感情なのか、それとも玲奈自身の感情なのか、分からなくなってきた。


でも、一つだけ確かなことがある。ルカと一緒にいると、心が温かくなるということ。それだけは間違いない。


その夜、玲奈は日記を書いた。


『今日はルカさんと一日中一緒に過ごしました。図書館で詩を読んでもらったり、庭園を散歩したり、星空を見たり。とても楽しい一日でした。


ルカさんは本当に素敵な人です。優しくて、博識で、そして何より心が美しい人だと思います。でも、何か隠していることがあるみたいです。いつか話してくれる日が来るのを待とうと思います。


不思議なのは、彼と一緒にいると心が落ち着くことです。まるで、ずっと昔から知っている人みたい。これはエルシアさんの記憶のせいなのかもしれません。


明日も一緒に過ごすことになりました。どんな一日になるか楽しみです。』


日記を閉じて、玲奈は窓の外を見た。今夜の星空はいつにも増して美しく、まるで今日の出来事を祝福してくれているかのようだった。


心の奥で、エルシアの記憶が静かに輝いている。そして、玲奈自身の感情も、確実に変化し始めていた。


これは代役としての恋愛なのか、それとも本物の感情の芽生えなのか。玲奈にはまだ分からない。でも、確実に言えることは、ルカとの時間がかけがえのないものになり始めているということだった。


明日への期待を胸に、玲奈は眠りについた。夢の中で、彼女は星空の下でルカと手を繋いで歩いていた。それがエルシアの記憶なのか、自分の願望なのか、もはや区別がつかなかった。

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