あの日果たせなかった約束を(伊勢美順子)
昔から、感情表現をしない子だった。
彼女が幼い頃は、本当に心配になったものだ。年頃の女の子が興味を示しそうなことに興味を示さず、友達もいない。部屋の片隅でただ絵本を読んでいるような子だった。あまり泣くことも駄々を捏ねることも無かったから、養育するうえでは楽だったけれど。
うちの子は他の子と違うのではないか、と思い、色々調べたり、人から話を聞いたり、奔走したことが懐かしい。……結局、うちの子はなんというか、ただ周囲に感心が無く、究極的にマイペースなだけだ、ということが分かったけれど。
感情が無い子、というわけではない。ただ、感情表現が苦手なだけなのだと分かった。見ていれば分かる。実際、私がケーキを作ると嬉しそうに(ほんの少しだけ表情を綻ばせて)食べるし、気に入っていた本を失くしたときは落ち込んで(ほんの少しだけ眉をひそめて)いた。
そして彼女は、心優しい子だった。いつも私の家事を手伝ってくれるし、私や夫の肩や腰を揉んでくれたり、記念日にはプレゼントをくれる。いつも日常的な話もしてくれるし(大体、読んだ本の感想とかだけだけれど)、私たち両親を好いてくれていることも分かっていた。
でもあの子は、やっぱりと言うべきか、誤解を招きやすい子だった。物静かで、内気で、と思われがちだが、実際は違う。言うべき時はちゃんと言うし、しかも語彙力が豊富なためか毒舌。……友達が出来ているところを見たことがなかった。それなりに良い距離を保てている人もいたようだけれど。
クラスで孤立したりしていないか。心配は尽きなかった。でも、本人は心の底から何も気にしていないようだったので……見守ることにして。
そんなあの子が変わったのは、彼女が中学生の時だった。
学校に楽しそうに行くようになった。それだけじゃない。友達が出来たらしかった。……その子は、学校に通っていない子らしかったけれど。
入院をしていて、学校に通えない子と友達になったらしい。だからあの子は暇さえあれば、その子に会いに行っていた。いつも勉強するか本を読んでばかりだった時間が、人と会う時間に変わった。学校以外は家に引きこもっていた時間が、外に出る時間に変わった。……アクティブになったと言うべきか、もちろん今までが悪かった、というわけではないけれど、その変化は喜ばしいことだった。
だけど、あの子はある日突然、病院に行くことをやめてしまって……それとなく聞くと、受験生だから、と返って来た。それだけが理由ではないと思うけれど……でも、言いたくなさそうだったから、私も詳しくは聞かなかった。
思えば、あの時ちゃんと、聞いてあげれば良かったのかもしれない。
見事志望校に合格し、入学式を終えたあの子は、行きたいところがある、と言い、私と別れた。私は入学祝にケーキを焼く、と約束し、それを見送った。
それが、私とあの子が会った最後の日だった。
あの子は家に帰ってこなかった。突然、異能力者を管理するだとかいう機関から連絡があり、あの子が異能力で人を殺したと、危険な異能力のため、こちらで管理をする必要がある。悪いようにはしない。……そう言われた。
もちろん抗議した。あの子は……人を殺すなんて、そんなことをする子ではない。そんな冗談、笑えない。……しかし、どうやらそれは本当らしかった。
詳しいことは、何も教えてもらえなかった。私が知れたのは、もうあの子に……灯子に、二度と会えないということ。それだけだった。
私はあの子が今何をしているのか、今どこにいるのか、全く知れることはなかった。……しかし、記念日になると、匿名でプレゼントが届くようになった。
それがあの子からの物だと、すぐに気づいて。
でもこちらからは何も送れない。どこにいるのか分からないから。だから、受け取るしか出来ない。
それだけが、私たち両親とあの子の繋がりになった。
私がそのニュースを見たのは、家事の途中のことだった。床に落ちていたリモコンを、誤って踏んでしまって。その痛さに悶えていると、ニュースの音声が耳に飛び込んできた。
『──速報です。明け星学園で立てこもっていた小鳥遊言葉容疑者ですが、同じ明け星学園の生徒からの説得により、容疑者は投降したとのことです。繰り返します。明け星学園で──』
その声に、思わず顔を上げる。……そして、目を見開いた。
忘れられない、忘れたことがない顔が、そこに写っていた。彼女は、私が見たことがない顔で……幸せそうに、笑っていて。
とうこ、と呟く。約1年ぶりに、娘の動向を知ることが出来た。
その後ネットで調べると、どうやらあの子は明け星学園……というところに入学し、日々を過ごしていたらしい。そして明け星学園で起こった立てこもり事件に立ち向かい、犯人を説得したと。私の娘はすっかり、英雄となっていた。
もちろんすぐに娘に会いに行く……としたかったが、きっと彼女は忙しくしているだろう、と判断し、すぐに動くのは憚られた。あの事件以降、明け星学園は封鎖されているらしいし……あの事件で活躍したのなら、警察からの事情聴取などもあるだろう。明け星学園が封鎖された今、学生たちはどうするのか……と、てんやわんやしているだろうし。
とりあえず今は、大事な一人娘が元気そうにしている。幸せそうに笑っている。……それが分かっただけ、本当に良かった。
世間から明け星学園の話題が消えてきた頃、すぐにでも娘に会いに行こう。そう思うと、約1年灰色に染まっていた日常に色が付き、精力的に活動できるようになった。あの日以降作れなくなってしまったケーキも、作ろうと思えるようになった。
というわけで今日は、あの日以来初めて、ケーキを焼いてみることにした。久しぶりだから、腕がなまっているかもしれない。でもあの子に美味しいケーキを食べてほしいから。……今度こそ。だから、練習をしておかないと。
そう思いながら、オーブンからスポンジを取り出す。……うん、上手く焼けた。久しぶりだけど、勘は鈍っていなかったみたい。トッピングはどうしようか、と考え始めたところで……。
ぴんぽーん、とインターホンが鳴り響いた。
来客の予定なんてなかったはずだけど、と首を傾げ、モニターを覗く。……するとそこに写っていたのは、青髪の青年だった。その顔には笑みがあり、自然と人のことを安心させるような、柔らかな雰囲気がある。
「どちら様ですか?」
『あ……初めまして。突然来てしまって、申し訳ありません。……伊勢美さんのお宅で、間違いないでしょうか?』
「ええ、そうですけれど……」
『良かったです。……すみません、申し遅れました。私、対異能力者特別警察、特別部隊隊長の、青柳泉と申します』
「警察……? 警察が、何の御用でしょうか」
『お話があります。……娘さんのことについて』
その言葉に、私は息を呑む。……そしてゆっくり深呼吸をすると、声を絞り出した。
「……分かりました。今、出ます」
そう言って通話を切ると、私はもう一度深呼吸をする。……顔を上げ、私は玄関に向かった。
扉を開く。すると家の敷地の外には、当たり前だけれど、青髪の青年──青柳さんがいた。
彼、若いようだけれど……娘と同年代か、少し年上くらいかしら。
「突然の訪問、申し訳ありません」
彼は微笑みながら、申し訳なさそうにそう告げる。礼儀がしっかりしている人だった。
「それで……娘の話とは、一体……?」
小さく頷いてから、私はそう尋ねる。あの子の話。私がどれだけ切望しても、得られなかったこと。
……彼は一体、何をくれるのかしら。
「はい。連日のニュースもあり、もしかしたら知っているかもしれませんが……伊勢美灯子さんは、明け星学園で起こった事件で、犯人の説得に助力していただきました」
「……はい、知っています」
「そうですか。……伊勢美灯子さんと犯人は、学校生活の中で、とても親交を深めていました。ですから、伊勢美灯子さんは犯人と……今後も共に生きていくと、簡潔にはなりますが、そういうことに決まりました。本人の希望でもあります」
「……」
そう、なのか。それが、私の感想だった。
あの子は、心優しい子だ。だから、その犯人という子のことを……放ってはおけなかったのだろう。親交を深めていたのなら、なおさら。
でも、それは……あの子が家に帰っては来ないこと。それを意味しているのだと、悟った。
青髪の青年は、こちらを気遣うような表情を私に向けている。彼もあの子と一緒で……優しい人なのだな、と、そう分かった。
「……娘のことを教えてくださって、ありがとうございます。……あの子がこれからどうするのか、知れて良かったです」
「……ええ。……」
青年は小さく返事をした後、何かを迷うように視線を彷徨わせて……そして何か意を決したのか、こちらを見つめた。
「……伊勢美灯子さんは、貴方を始めとした家族より、貴方からしたら見ず知らずの人を選んだ。……そのことについて、何か……思われることは、ないんですか?」
「……」
その問いかけに、私は黙る。
思うところが、無いわけではない。それはもちろん、彼女は大事な私の子供だから。本当に大事に、大事に、育ててきたから。……ある日突然、引き離されて。そして娘自身も、ここに戻らないことを選んだ。
それはすごく、寂しいけれど。
「……子供はいずれ、自立して、自ら道を選んでいくものですから」
「……」
「それが少し、予想より早かったというだけのことです。親として寂しいですが……どんな決断であれ、彼女がそうすると決めたのなら、私はそれを応援します。……きっとそれが、あの子のためになりますから」
まあ、たまに帰って来てくれたら、それはもちろん嬉しいですけどね。と笑いながら付け足して。
彼も小さく笑い返した後。
「……だ、そうだよ」
私ではない、誰かに向けて。彼は告げる。
そして彼は一歩身を引く。──その先にいたのは……。
「……お、お母さん」
どこか気まずそうに、恥ずかしそうに……嬉しそうに、私のことをそう呼ぶ少女。
灯子だった。
「っ……灯子!!」
私は思わず駆け出す。そして自分の娘を……約1年ぶりに、抱きしめた。
その後は灯子がお世話になっているという警察の彼も一緒に、作りかけだったケーキを一緒に食べて。
あの日、果たせなかった約束を、ようやく果たせた。
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