そして私たちはキスをする。

@andynori

そして私たちはキスをする。

 ――これ、前に一回読んだやつじゃん。


 文庫サイズの小説をニ十ページほど読み進めたところで不意に忘れ去られていた記憶が蘇った。


 なんだよ。


 せっかく面白くなってきたところだったのに台無しだ。人間の記憶というものは実にいい加減だと思う。肝心なときに肝心なことを思い出せなかったりするくせに、こうやって今じゃないのにというタイミングで余計なことを思い出したりする。


「犯人はストーカーの母親……と見せかけて主人公の親友だっけ」


 私は思い出してしまったオチを口にする。

 初めて読んだ際にはまさかの大どんでん返しに唖然とさせられたが、個人的にネタの割れたミステリーやサスペンスほどつまらないものはないと思う。


 ……まあ、内容を忘れていればその限りではないのだろうけれど。


 とはいえこうして思い出してしまった以上、いまさら続きを読む気にはなれない。


「はあ」


 私はため息と同時にカバーの無い文庫本を閉じて枕元に置く。寝転びながら本を読むときの癖で右側に向けていた体を動かし仰向けになると、いつの間にか自分の部屋のそれよりも見慣れたような気がする天井が目に入った。


「どうしたの? それ、つまらなかった?」


 すぐ横から声が聞こえてくる。ベッドを背もたれにして単行本の漫画を読んでいた片寄かたよせさんが顔を上げてこちらを見ていた。私も顔を動かして彼女のほうを見た。


「つまんないっていうか前に読んだやつだった。カバーないからわかんなかったじゃん」


 私は不満を込めて言った。

 片寄さんが所有する文庫本には元々のカバーが付いているものが一つもない。汚れたり破けたりしてしまったから仕方なく取ったというわけではなく、彼女は新しい文庫本を買ったらさっさとカバーを捨ててしまうのだ。本人は「そのほうが文庫本らしいから」などと言っているが意味が分からない。


「カバーがなくてもタイトルと作者の名前見ればわかるでしょ」


 片寄さんがさも当然のように言う。

 それはたしかにそうだけど――、違う。私が言いたいのはそういうことじゃない。


「カバーなかったらピンとこないじゃん」


 カバーを剥がされた文庫本はあまりにもそっけないと思う。無個性ここに極まれりという見た目をしていて中身がちっとも想像できない。


「文庫本てそういうものでしょ」


 片寄さんがカラフルなカバーのコミックを持ったままそれが常識と言わんばかりに言い切る。どういうわけか彼女がカバーを捨てるのは文庫本限定で、漫画の単行本やハードカバーの小説なんかはカバーが付けられたまま綺麗に本棚に並べられている。本当に変な人だと思う。


「前にも言ったけど、意味わかんないから。片寄さんて学校じゃ常識人だし優等生っぽい雰囲気醸し出してるけど実は結構変人だよね」

「変人は酷くない? ……まあ、私が少数派だってのは認めるけど。でも、私のものを私がどうしようと勝手でしょ。好きにさせてよ」

「別に止めたりはしないけど。でも、片寄さんのせいで暇になったからなんとかしてよ」


 ほとんど言いがかりのようなものだけれど、私が一度読んだ小説を手に取ってしまったのは片寄さんが文庫本に対しおかしなこだわりを持っているせいだ。私はいわば片寄さんの趣味嗜好の被害者であり加害者である彼女にはその被害を弁償する責任があるといっても過言ではないだろう。


 ――まあ、実際には完全なる過言でしかないのだけれど私は「さあさあ早く責任を取れ」と強弁した。


「……小森こもりも学校じゃ大人しくしてるくせに実は結構わがままだし、ちょっと変わってるよね」


 片寄さんが呆れたように私を見て言った。

 私はむっとして言い返す。


「変わってるのは片寄さん。私は普通。あと、わがままでもないから」

「小森、世の中に普遍的な普通なんてものはないんだよ」

「なにそれ。急に哲学ぶらないでよ」


 片寄さんは時々、私に対して諭すようなことを言う。同い年のくせにちょっと偉そうだと思う。


「別にぶってるわけじゃなくて単なる事実なんだけどね。たとえば――」


 片寄さんはそう言うと、単行本を床に置き、這うようにベッドへとよじ登ってくる。彼女が動くたびにマットレスのスプリングがギシギシと軋む。その様子を黙って眺めていると、最終的に仰向けの私に四つん這いの片寄さんが覆いかぶさった。


「たとえば、なに?」


 私は“普通”よりも整っている片寄さんの顔を見上げて言った。


「たとえば……」


 片寄さんの右手が緩やかに動き、私の左のほっぺたにぴたりと添えられる。

 片寄さんの手のひらは少しひんやりとしていて触れられていると気持ちが良い。

 けど、片寄さんはいつまで経っても「たとえば」の続きを口にしない。代わりに彼女はほっぺたに添えた右手の親指だけを動かし、私の唇にゆっくりと触れてくる。撫でたり、軽く押してみたり、その触れ方はとても優しいけれど、どうにもじれったい。


 私は内心でため息をつく。

 自分から始めたくせに。めんどくさい。

 片寄さんは相変わらず意気地がないと思う。

 だから私がこんなことを言う羽目になる――。


「すれば」

「っ……」


 片寄さんの瞳が揺れる。


「良いの……?」

「もう何回もしてるじゃん。駄目なら最初のときに断ってる」

「それは……、そうかもしれないけど」


 煮え切らない彼女のために、せっかく私から水を向けてあげたというのに。

 一体、何が不満なのか片寄さんは拗ねたような顔をする。


「するの? しないの?」

「……する」


 片寄さんが顔の脇に垂れていた長い黒髪を耳に掛け、ゆっくりと顔を寄せてくる。彼女が目を閉じるのに合わせて私も目を瞑ると、直後に唇に柔らかいものが触れた。それは確かめるまでもなく片寄さんの唇で、つまり私たちは今キスをしている。


 たぶん、五秒くらい。長くても十秒には届かないくらい。触れるだけ――軽く押しつけるだけのキスをして、片寄さんの唇がすっと離れていく。


 静かに目を開けると頬を上気させた片寄さんと目が合った。


「っ」


 彼女は慌てたように目をそらす。


「片寄さんてさ、初心なのか大胆なのかよくわかんないよね」


 私たちは恋人じゃない。けど、時々キスをする。最初に誘ってきたのは片寄さんで、私はそれを受け入れただけだ。


 恋人でもないただのクラスメイトにキスをしようと提案できるくらい大胆なくせに、数えきれないほどキスを交わした今でもこんなふうにファーストキスの時のような躊躇いを見せる片寄さんは結構めんどくさい人だ。でも、そこが可愛いとも思う。私はもう慣れてしまったけれど、彼女にはいつまでも慣れないでいてほしい。


「むしろ、なんで小森は平気なわけ? “普通”、少しくらい緊張とか照れたりとかするでしょ」

「慣れた」

「……やっぱり、小森は変だよ」


 片寄さんが言わなかった「たとえば」の続き。それは要するに恋人でもない彼女からのキスを平然と受け入れている私は“普通”ではないということなのだろうけれど。でもそれはお互いさまだ。片寄さんの言葉を借りるなら、私が“普遍的な普通”ではないお陰で彼女は私とキスができるのだからいっそ感謝してほしいくらいだ。

 まあ、キスをしない日はなんだか物足りないと感じる程度には、私自身、片寄さんとキスをしたいと思っているのだけれど。


「片寄さん」


 私は彼女の名前を呼び軽くネクタイを引っ張る。


「……なに?」


 片寄さんは分かっているくせに目をそらしたままポツリと問いかけてくる。こういうところ、やっぱり可愛いと思う。学校で見るどちらかといえばクールな片寄玲かたよせあきらとはまるで別人のようだ。

 今のところ彼女のこういう姿を見れるのは私だけのはずで、本人には絶対に言わないがこの先もずっと私だけに見せてほしいと思う私がいる。

 その望みは口に出せば叶いそうな気もするけれど、たぶん一生口にはできないだろう。結局のところ私も意気地なしなのだ。


 だから代わりにネクタイを引く。


「ちょっ、んっ」


 そして、私は片寄さんの唇に噛みつくようにキスをした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そして私たちはキスをする。 @andynori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ