第10章『開かれた扉』
ウィロークリークは、静かになりすぎていた。
夏の午後、蝉の声さえ聞こえない。
通学路にあるはずのランドセルの列もない。
人の気配が、まるで夢の霧に覆われたように、薄れていた。
リアムは家の窓から町を見下ろして、確かめた。
人が歩いている。けれど、その人は同じ道を何度も繰り返している。
まるで、記憶が上書きされたキャラクターのように。
「町が……眠りかけてる」
リアムはつぶやいた。
* * *
放課後、エミリーと再び地図を広げた。
ノアが現れていた。夢の中で会ったあの姿のまま、現実の町の裏道に立っていた。
「来るのはここが最後になるかもしれない」
ノアは言った。
「‘ラスト・ネーム・レーン’に、名前のすべてが始まった場所がある。
でも扉を開くには……ひとつ、選ばなきゃならない」
「なにを?」
ノアは地図の端を指差した。
そこに、薄く焼け焦げた紙の裂け目がある。
《THE FIRST NAME》
「その扉を通るには、自分の名前を“ひとつ”に決めなきゃいけない」
「……?」
「影の中にある“もうひとりの自分”——本当の名前を、選ぶんだよ」
* * *
“ラスト・ネーム・レーン”は町の裏側の、どこにもつながらない場所にあった。
地図上では曲がり角が3回続いているように見える。
でも、実際に進むと、永遠にまっすぐな道にしか感じられない。
地面は、歩くたびに名前を飲み込んでいくようだった。
リアムは、エミリーの手を強く握っていた。
彼女の存在が、いま唯一“自分の名前”を保ってくれている気がした。
道の突き当たりに、石造りのアーチが見えた。
その中央には、扉があった。
色のない扉。
材質もわからない。枠も鍵もない。
ただ、“そこにある”としか言いようのない存在。
扉の前に立つと、リアムの胸の中に声が届いた。
——おまえの本当の名前は?
リアムは答えられなかった。
サンダースという姓すら、誰かから与えられたものでしかない。
彼が覚えている名前は、母親の呼ぶ声と、教師が黒板に書いた文字だけ。
——誰にも呼ばれなかったとき、おまえは何者だった?
名前がないときの記憶。
子どもになる前。町が夢を見る前。
そのすべての奥に、リアムは自分の“核”のような何かを見つけかけた。
そのとき、エミリーが言った。
「私は、リアムをリアムって呼ぶ。それが、私の中の君だから」
扉が、震えた。
空気が揺れ、音が遠ざかる。
世界の構造が軋むような音が、リアムの鼓膜に響いた。
扉が、開いた。
* * *
中に広がっていたのは、町だった。
でも、色が違う。空が違う。
人影がひとつもない、けれど“名前だけが残された町”。
建物の上に、看板だけが無数に浮かんでいた。
“誰かの名札”のように。
けれどその名は、どれも読み上げられない。
リアムはその空間の真ん中で、ひとつの“影”と対面した。
それは、今まで見たものとは違っていた。
輪郭が濃く、目があり、そして声を持っていた。
「ようこそ、“ファースト・ネーム”へ」
その声は、まるでリアム自身のようだった。
* * *
戻ってきたとき、ウィロークリークの空は夕暮れだった。
リアムは、夢と現実のあいだに確かに扉があることを知った。
そしてその扉は、もう二度と閉じない。
⸻
(第10章・了)
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