第9章『影を喰う者』

 朝、教室の窓から差す光は、昨日よりもわずかに白かった。

 リアムは、教室の雰囲気が何かおかしいことにすぐ気づいた。


 席が一つ、ぽっかりと空いていた。

 でも、誰もそのことを話題にしない。

 まるで最初から“そこに誰もいなかった”かのように。


 リアムはノートを見た。

 出席番号の隣、名前が書かれているはずの欄に、何も記されていなかった。

 でも、つい昨日までそこには名前があったと確信している。


 「ねえ……このクラスって、何人だっけ?」


 隣の席のエミリーが、低い声で訊いた。

 リアムは答えようとして、言葉が出なかった。


 「思い出せない子が、いる」

 「昨日までいたのに、名前が出てこない……顔も……」


 教室の隅に置かれたロッカー。開いていないロッカーが一つ。

 リアムはそれを見つめていた。名前のラベルが、破り取られた跡だけ残っていた。


 


 * * *


 


 放課後。

 二人は、夢の地図を手にブラック・ウィンドウ・レーンへ向かった。


 かつて町の劇場があったという場所の裏手。

 そこには、本来“道がないはずの場所”に、細く暗い通りが口を開けていた。


 入り口には標識すらない。

 空気は冷たく、足音が吸い込まれるように消えていく。


 地図の中でも、その通りだけ名前が書かれていなかった。

 白紙の線。


 その通りを抜けると、町の音が遠ざかっていく。

 蝉の声、犬の吠え声、人の話し声——すべてが霧の向こうへ消えた。


 「ここにいると……自分の名前を思い出すのが難しくなる」

 リアムが言った。


 「名前だけじゃない。昨日の夜、何してたかも思い出せない」

 エミリーの声が震えていた。


 そしてそのとき、彼らの前に現れた。


 


 * * *


 


 それは“影”だった。

 人の形をしているが、輪郭が揺れていた。

 まるで、誰かが描いた“人間の像”を、水に沈めたように。


 「……誰?」


 リアムが問いかけた。

 影は答えなかった。ただ近づいてくる。


 足音がない。

 ただ、**存在だけが“そこに在る”**という感覚が押し寄せてくる。


 影はゆっくりと手を伸ばしてきた。

 その手は、指ではなく“言葉”のようなものだった。


 空気を撫でるたび、リアムの中から何かが引き剝がされていく。


 ——名前。

 ——呼ばれた記憶。

 ——誰かに存在を許された瞬間たち。


 「やめろ!」

 リアムが叫んだが、声はかすれていた。


 エミリーが叫んだ。


 「リアム!」


 その一言が、空気を変えた。

 影が、ほんの一瞬だけ後退した。


 「君はリアム・サンダース。私が知ってる、私が覚えてる。

  ……名前は、誰かと繋がっている限り消えない」


 影は低く呻くように揺れ、通りの奥へと消えていった。


 


 * * *


 


 その夜。

 リアムは夢の中で、ノアに再び出会った。


 ノアは、あの黒いコート姿で、夢の町の路地に立っていた。


 「影を見たんだね」


 リアムはうなずいた。


 「やつらは“名前の抜け殻”に棲みつく。誰にも呼ばれなくなった者の影にね」


 ノアはポケットから一枚の紙を出した。

 そこには、新しい通りの名が書かれていた。


 《THE LAST NAME LANE(ラスト・ネーム・レーン)》


 「次はここだ」

 ノアは言った。


 「そこに行けば、すべての“名前の始まり”がわかるかもしれない。

  でも、そのかわり、帰ってこられないかもしれない」


 リアムはその言葉を受け止めながら、ゆっくりと地図を見た。


 その地図の端が、ぼんやりと焼けているように見えた。


 名前の輪郭が、確かに揺れていた。



(第9章・了)

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