第8章『ウィドウズ・ヒルへ』

 ウィドウズ・ヒルは、町のどこからでも見えるはずだった。

 でも、いつからか、誰もあの丘を見なくなった。

 見上げても、視線が自然に逸れる。地図に載っていても、道はいつの間にか曲がり、たどり着けない。


 それでも今朝、リアムは**はっきりと“そこへ行かなければならない”**と感じていた。


 


 * * *


 


 丘に近づくたびに、空が白くなっていった。

 夏の強い日差しは、いつの間にか柔らかく滲んだ光に変わり、蝉の声も遠のいていた。


 リアムとエミリーは、自転車を森の入り口に隠し、草をかき分けながら丘を登った。

 枯れた木々の間を通り抜けるたび、足元の土が乾いて崩れる。


 空気は重く、地面は静かすぎた。


 「……ここ、来たことある?」

 エミリーが尋ねた。


 「ない。はずなのに……」

 「知ってる気がする」

 リアムも同じだった。

 ここに立つのは初めてなのに、景色が既視感で満ちている。


 丘の頂上には、黒く焦げた地面があった。

 石が不自然に半円状に崩れ、草は生えていない。


 その中央に、小さな“くぼみ”があった。

 土ではなく、何か黒いものに覆われている。金属のようでいて、岩のようでもある。


 「これって……」

 エミリーがしゃがみ込もうとした瞬間——


 リアムの胸が、強く締めつけられた。


 空気が変わった。

 周囲の音が消えた。

 世界が“夢の向こう側”へ、わずかに傾いた。


 「見て」

 リアムが声を漏らした。


 くぼみの中から、光が漏れていた。

 ほんの一筋、薄青く震える光。


 「……開いてる?」

 「何かが、こっちを見てる」


 


 * * *


 


 気づけば、二人は夢の中にいた。


 いや、夢が彼らを“内側へ引き込んだ”のだった。

 空は動かず、風は吹かず、景色が歪む。

 遠くに町の影が見える。けれどそれは、地図にないもう一つのウィロークリークだった。


 「戻れなくなるかもしれない」

 リアムが言った。


 「それでも、行かなきゃいけないんだよ」

 エミリーの声は震えていたが、強かった。


 丘の中心に、階段があった。

 地面の下に吸い込まれるように、闇の中へと続く階段。

 一段ごとに、空気が変わる。記憶の一部が剥がれていく。


 何かに会うための階段だった。


 


 * * *


 


 階段の底にあったのは、ひとつの“部屋”だった。


 広くも狭くもなく、ただそこに在る空間。

 壁はなく、天井もない。ただ、空間がある。


 その中心に、**“それ”**がいた。


 形を持たない何か。目では見えないのに、そこにあるもの。

 声を発さず、しかしリアムの頭の中に直接届く感覚。


 ——リアム。

 ——君の名前は、どこから来たのか覚えているか。


 「……わからない」


 ——君の名前は、“君がつけたものではない”。

 ——君が選んだものでもない。

 ——君は、“呼ばれること”ではじめて存在を得た。


 リアムはその場に立ち尽くしていた。

 名を問われるたびに、自分の輪郭が曖昧になっていく。


 エミリーが、横で手を握った。


 「大丈夫。あなたはリアム。私が呼ぶ限り、それがあなたの名前」


 その言葉が、空間を震わせた。

 “それ”は、ゆっくりと姿を引いていった。

 重さのない沈黙を残して、夢の空間が揺らぎはじめた。


 


 * * *


 


 気づけば、リアムとエミリーはウィドウズ・ヒルの上にいた。

 日が落ちかけていた。風が吹き、木々がざわめいている。


 くぼみには、もう光はなかった。

 だが、リアムは確かに“そこにいた”ことを覚えていた。


 夢と現実のあいだで、彼らは確かに何かに出会い、そして自分を取り戻しかけた。



(第8章・了)

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