第6章『記憶の抜け道』

 翌朝、リアムは何かを忘れていた。

 確かに何かを覚えていたはずなのに、それが何だったのかが思い出せなかった。

 夢の内容も、昨日エミリーと話したことも、どこかが空白になっていた。


 ——名前を置いてきた。

 その言葉だけが、胸の奥に残っている。


 


 * * *


 


 「昨日、帰りにどこか寄った?」

 母親がトーストを焼きながら訊いてきた。


 「えっと……」

 リアムは返事に詰まった。


 倉庫? 給水塔? 教会?

 いや、それよりもっと……別の場所だった気がする。


 「なんでもない」


 テレビの画面に、天気図が映っていた。

 でも、リアムはそれを“知っているはずのもの”として見ていた。

 雲の形、数字、風の線——どれも見慣れているはずなのに、どこか理解が遠い。


 自分の記憶に穴が空き始めている。


 


 * * *


 


 リアムとエミリーは、放課後に再び集まった。

 給水塔の裏、誰も来ないフェンス沿い。


 エミリーも、何かを忘れているようだった。

 話している最中に、急に黙り込む。何かを探すように目を泳がせる。


 「ねえ、昨日……ノアが言ってたこと、覚えてる?」

 「名前のこと?」

 「それも。……でも、あと何か言ってた気がするんだけど」


 思い出せそうで、思い出せない。

 二人のあいだの会話が、ぽっかりと抜け落ちていた。


 「これ、見て」

 エミリーがバッグから折り畳まれた紙を取り出した。


 ——それは、ノアの地図を元に描き起こされた“夢の町の地図”だった。


 現実のウィロークリークに似ている。

 でも、見たことのない道がある。存在しないはずの塔、消えた川、同じ名前が重なる通り。


 「この地図、さっき見たときと違ってる気がする」

 「……どう違うの?」

 「ほら。ここ、昨日なかった通りが増えてる」


 リアムは目を凝らした。

 確かに、“BLACK WINDOW LANE(ブラック・ウィンドウ・レーン)”と名付けられた細い通りが、地図の隅に追加されていた。


 リアムの指が、その通りに触れた瞬間——

 耳の奥で、「おまえの名前は違う」という声が微かに響いた。


 


 * * *


 


 その晩。

 リアムは夢の中で、誰かとすれ違った。


 それはノアではなかった。

 けれど、ノアによく似ていた。


 その人物は言った。


 ——記憶が抜けるのは、おまえが“ここにいる”ことを証明できなくなる前触れ。

 ——名を呼ばれなくなった者は、輪郭から溶け始める。


 リアムは、手のひらを見た。

 その線が少し、薄くなっていた。


 目を覚ましたとき、隣の部屋の母親の名前が——一瞬だけ、思い出せなかった。



(第6章・了)

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