第5章『誰も知らない町』
その町の名前は、地図には載っていない。
学校の社会科の地図帳にも、グーグルの航空写真にも、案内標識にも。
けれど確かに、それは“ウィロークリーク”の裏側に、もうひとつ存在していた。
夢の中でリアムが見た町。
でも、今回は夢ではなかった。
* * *
きっかけは、一枚の地図だった。
ノアの部屋の壁に描かれていた、あの不可解な線の塊。
あれをエミリーが、記憶を頼りに紙に写し取った。
リアムと二人、その地図を片手に町を歩いた。
目的地は、ウィロークリークの“存在しない路地”――町の中心から少し外れた、かつて市場だった通り。
夕方、日が落ちる直前。
空はくすんだ灰色で、風が止まり、音が消えていく。
「ここだと思う」
エミリーが立ち止まったのは、レンガ塀の角だった。
ただの空き地に見える。でも、そこに“道”がある気がする。
リアムも感じていた。
視界の端で、何かが歪む。光の層が薄くなる。空気の匂いが変わる。
「触るよ」
リアムが壁に手を伸ばすと、空間が波打った。
石のような冷たさとともに、指先が吸い込まれる。
何かが開いた。
——扉じゃない。“層”だった。
* * *
そこにあったのは、見たことのない町だった。
けれど、どこか懐かしい気もした。
建物の形、街灯の配置、道の角度。すべてがウィロークリークと似ていて、でも微妙に違う。
影が濃く、風が音を運ばず、空が遠い。
光はあるのに、昼でも夜でもないような灰色の町。
「これ……」
エミリーが声を漏らした。
「“ウィロークリークの夢”だ」
リアムはそう言った。
言葉が浮かんだのではなく、“思い出した”感覚だった。
ここは町が見ている夢。
あるいは、夢が町になってしまった世界。
道の端に、人影のようなものが立っていた。
でも、顔はなく、足も地面についていない。
見つめると溶けていくような“存在”。
「どうする?」
「……進もう」
二人はその町を歩いた。
そこには誰もいない。けれど、何かが彼らを見ていた。
* * *
町の中心、夢の教会があった。
現実の教会と同じ位置。でも、扉の上に記された名前が違っていた。
そこには、リアムの夢の中で聞いた“古い名前”が彫られていた。
「読める?」
「ううん。読めない。でも、わかる気がする」
その瞬間、町の空気が変わった。
遠くで、誰かの足音が聞こえた。
地面が軽く揺れた。空が低くなった。
「戻ろう」
「でも……」
リアムが振り返ったとき、元いた場所がなくなっていた。
道が変わっている。
来たときにはなかった建物が増えている。
地図も意味を失い、通りの名が溶けていた。
「……迷った」
エミリーの声が、かすかに震えていた。
そのとき、前方に“誰か”が現れた。
黒いコート。細い腕。真っ直ぐに立つ姿。
ノアだった。
でも、それは夢の中のノアだった。
リアムとエミリーを見つめながら、ノアは口を開いた。
「戻れるよ。でも、何かを置いていかなきゃならない」
「……何を?」
リアムが訊いた。
ノアは、はっきりと答えた。
「名前だよ」
⸻
(第5章・了)
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