第4章『本当の名前』

 夢の中で、リアムは自分の名前を忘れていた。

 誰かが呼ぶ声だけが聞こえていた。

 でも、呼ばれているのは「リアム」ではなかった。

 それは、もっと奥深く、もっと古い、知らないはずの名前だった。


 


 * * *


 


 朝。

 セミの声がうるさいほどに響いている。

 母親が窓を開け放ち、テレビからは天気予報が流れている。

 けれど、どこか遠くの世界の音のように感じられた。


 リアムは朝食をとらずに家を出た。

 今日の空はやけに明るい灰色で、風が少し湿っていた。


 昨夜の夢がまだ残っている。

 名前を呼ばれたあと、背後に気配が立った。

 振り向こうとすると目が覚めた。

 けれど、その“気配”は、まだどこか近くにある気がした。


 エミリーと合流したのは、町の図書館の裏手だった。

 金網を越えた先、草の中に足を埋めるようにして、二人はしゃがみ込んだ。


 「……ノア、今日も学校来てなかった」

 エミリーが言った。


 「もしかして、また夢の中を“歩いてる”んじゃないか」

 リアムは思わずそう口にしてから、自分でもその言葉にぞっとした。


 「ねえ」

 エミリーは小さく声を落とした。

 「リアムは、自分の名前って、本当に“リアム”だって信じてる?」


 「は?」

 「だって、最近おかしい。鏡の中の自分が、時々こっちを見てない気がする。名前を呼んでも返事がないような……自分の中に、“もう一人の何か”がいる感じ」


 リアムは言葉に詰まった。

 似た感覚が、自分の中にもあったからだ。


 


 * * *


 


 その日の午後。

 二人は学校裏のグラウンドに面した林へ入った。

 そこには誰も近づかない、古い廃倉庫があった。


 ノアがよくそこで一人で過ごしているという噂があった。

 でも、先生たちも話題にしない。何かを“避ける”ように。


 「ここ、入ったことある?」

 エミリーが尋ねた。


 「一回だけ。中は空っぽだった。……でも、音がした」


 倉庫の扉は半分開いていた。

 軋む音。空気が冷たく、埃っぽい。

 足を踏み入れた瞬間、リアムは強く胸を押されるような感覚を覚えた。


 中には、誰もいない。

 でも空気が“誰かを記憶している”ように、濃く滞っていた。


 床の上に、何かが描かれていた。

 黒いチョークのような線で、円が複雑に絡み合い、点が散らばっている。

 まるで、星座を裏返したような形。


 「名前の地図かも」

 エミリーが呟いた。

 「夢の中で呼ばれた名前、それがどこから来たかを描いた……そんな気がする」


 リアムはその中央に、一つの文字を見つけた。

 アルファベットでも、数字でもない。

 意味のない“模様”のようなそれが、なぜか自分の“中”に反応した。


 「……これ、ぼくの名前じゃないかもしれない」

 リアムは、そう言った。


 


 * * *


 


 その夜。

 リアムは、ふたたび夢を見た。


 今度ははっきりしていた。

 階段の先に、“誰か”が立っていた。


 それは人ではなかった。

 形は人のようでもあり、影のようでもあり、もしくはただの“穴”のようでもあった。


 それが口を開いた。


 ——おまえの名前は、リアムではない。

 ——それは与えられた仮の名。

 ——おまえの中にはもう一つ、“古い名前”が眠っている。


 影の中から、白い手が伸びてきた。

 指先がリアムの胸に触れた瞬間、視界が真っ黒に染まった。


 そして、その闇の中で——


 リアムは、本当の自分の名前を思い出しかけていた。



(第4章・了)

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