第3章『ノア』
ノア・グレイヴスという名前は、町にとってまだ馴染みがなかった。
彼が転校してきたのは春の終わり。だけど、夏になっても誰も彼のことを“友だち”と呼んでいなかった。
姿を見かけることはあっても、彼が誰かと話しているところは見たことがない。
いつも一人で歩いていたし、笑っているのを誰も見たことがなかった。
「家、あの鉱山跡の近くらしいよ」
そうエミリーが言ったのは、給水塔から帰る道すがらだった。
「前に行ったことある。あのあたり、変な音するんだよね。地下から、ずっと鳴ってる感じの」
「知り合いなの?」
リアムが訊くと、エミリーはほんの少し黙った。
「前に一回だけ、話した。夢の話になった」
「それで?」
「“おまえの夢にはもう入口ができてる”って、ノアは言った」
リアムは何も返せなかった。
「入口」という言葉が、胸のどこかにひっかかったままだった。
* * *
ノアの家は、町の端を抜けた先、ほとんど誰も通らない道の向こうにあった。
道と呼べるかどうかも怪しい。木の枝が低く垂れ、赤茶けた舗装が剥がれかけている。
奥に進むにつれ、風の音が重くなる。空気に金属の匂いが混じっていた。
家は古い一軒家だった。
軒下は傾き、外壁はところどころひび割れている。
けれど妙に整っていて、庭の草は刈られ、ポストは錆びていなかった。
「……やっぱりやめとこうか」
リアムが言うと、エミリーは扉の前に立ったまま、首だけ振った。
「行く。ノアが何か知ってるなら、話さないと」
ノックをしようとした瞬間、扉が、内側から開いた。
そこにノアがいた。
無表情で、まっすぐにこちらを見ていた。
「来たね」
それだけを言って、彼は部屋の奥へ戻っていった。
リアムとエミリーは顔を見合わせると、無言のまま中に入った。
* * *
ノアの部屋は、静かだった。
家具は少なく、本棚とベッド、窓際の机、それだけ。
でも、壁一面に何かが描かれていた。
地図のようだった。けれど、見たことのない線ばかりだった。
町の形に似ているようでいて、違う。存在しない道、曲がりくねった線、黒い点。
「これ……何の地図?」
エミリーが訊くと、ノアは答えずに窓のほうを見た。
「夢の中で見たもの」
「夢?」
「見てるだけじゃない。最近は、“歩いてる”」
ノアの声は落ち着いていた。まるで、天気の話でもするように。
「夢の中で誰かに名前を呼ばれた?」
リアムが言うと、ノアはわずかに目を細めた。
「うん。でも、もうそれが“誰の名前だったか”は関係ない」
「関係ないって?」
「名前を呼ばれると、そいつの影が、外に出てくるんだよ」
言葉の意味を理解するには、少し時間がかかった。
リアムはふと、自分が最近よく見る夢の一場面を思い出した。
——階段。深く、終わりのない。
その奥から、誰かがこちらを見ている。
ノアはリアムの顔を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「君の名前も、そろそろ呼ばれる」
* * *
帰り道、リアムは何も言わなかった。
エミリーも黙っていた。ずっと、風の音と靴の音だけが耳に残っていた。
家に戻ると、母親がテレビを見ていた。
音声はずれていて、キャスターの口の動きと声が合っていない。
リアムはしばらくそれを眺めていたが、やがてゆっくり部屋へと戻った。
その夜、また夢を見た。
暗い部屋。見知らぬ通路。背後に、誰かが立っている。
振り向こうとしても体が動かない。
その“誰か”が、リアムの名前を呼んだ。
低くて、太くて、耳では聞こえないのに心が震える声だった。
そしてそのあと、もう一度、呼ばれた。
——本当の名前で。
⸻
(第3章・了)
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