第2章『見えない怪物』

 昼下がりのウィロークリークは、音を飲み込んだように静かだった。

 日差しは強いのに、風がなく、どこか色の薄い午後。

 夏の空気はぬるく肌にまとわりついて、まるで水の中を歩いているような気分だった。


 リアムとエミリーは、廃線の橋の下から少し離れた小道を歩いていた。

 目指しているのは町はずれの給水塔――かつては子どもたちの遊び場で、今は立入禁止の札がぶら下がるだけの場所。


 「ノアが来てるかもしれない」

 エミリーが言った。


 「こんなところに?」

 「うん。なんとなく。……っていうか、夢に出てきたの。給水塔のところで、誰かと話してた」


 リアムは答えず、黙って足を進めた。

 さっきから、ずっと背中がむずむずしている。誰かに見られているような、でも振り返っても誰もいない。

 汗が額をつたって、すぐに乾いた。


 給水塔は、町の南側の丘に建っていた。

 コンクリート製の塔はひび割れだらけで、足元のフェンスはすでに壊れている。

 中学生たちが落書きをして帰る場所。誰も本気で怖がっていないはずの、ただの古い塔。


 けれど、今日のそれはどこか違って見えた。


 塔の根元に近づくと、空気がひんやりしていた。

 草むらから伸びる風が、妙に湿っている。

 蝉も鳴いていない。近くで何かが動いた気配があっても、音がしない。


 「……ねえ、あれ」


 エミリーが、塔の土台を指さした。

 そこに、線のようなものがあった。黒く、かすれたクレヨンの跡のような、それでいてどこか“意味”のある形。

 幾何学とも、植物の根ともつかないそれは、土の上にゆっくり広がっていた。


 「これ、ノアが描いたのかな……」

 「いや、これ……」

 リアムは言いかけて、声を止めた。


 その瞬間、耳の奥で誰かが息を吸う音がした。


 目の前には誰もいない。

 でも、すぐそばに“何か”がいると、体が言っていた。


 リアムの目が、自然と塔の陰を向いた。

 そこに、見えてはいけない何かが立っていた。


 黒く、細く、ぼやけていて、目が勝手にピントを外す。

 風もなく、影も落ちていないのに、確かに“そこ”にいる。

 その存在が、こちらを見ている。言葉ではない何かで、名を呼んでいる。


 ——リアム。

 ——エミリー。


 声にならない声が、骨の奥にしみ込んでくる。

 逃げなきゃ、と思ったその瞬間。


 「……やめて!」

 エミリーが叫んだ。


 空気が、一瞬だけ弾けた。


 リアムがまばたきをすると、そこにはもう何もなかった。

 塔は古びたまま、草は揺れて、空には雲が浮かんでいた。


 「いまの、見えた?」

 リアムがかすれた声で訊いた。


 「ううん……見えなかった。でも、“感じた”」

 エミリーは小さく震えていた。


 リアムも、今は何も見えていなかった。

 けれど、あの“何か”がいた空間は、まだそこに残っていた。

 塔のまわりの空気だけが、何か別の世界と接触してしまったような、そういう重さを持っていた。


 


 * * *


 


 その日の夜、リアムは夢を見た。

 冷たい塔の根元に、ノアが立っていた。

 背を向けたまま、誰かと話している。言葉は聞き取れなかった。


 でも、ノアの足元に広がっていたのは、昼間見たあの線だった。

 いや、似てはいたが、もっと深く刻まれたように見えた。


 ノアが振り返った。


 その目は、リアムの知っているノアではなかった。


 そしてその背後に、見えない“誰か”が立っていた。


 朝になっても、その感触だけは消えなかった。



(第2章・了)

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