第1章『夢の中の声』

 夏休みが始まって、三日目の朝だった。


 リアム・サンダースは夢から目覚めたあとも、しばらくベッドの上で動けなかった。

 目を開けたまま、天井の木目をじっと見ていた。

 風もないのに、カーテンの端だけがふわふわと揺れている。


 心臓が、妙に静かだった。

 まるでまだ夢の中にいるみたいで、自分の体がうまく現実に戻ってこない感じがした。


 夢の内容は、あまり覚えていない。

 ただひとつ、誰かに名前を呼ばれた気がする。

 でも、その名前がなんだったのか、自分のだったのか、他人のだったのか、どうしても思い出せなかった。


 「……変な夢」


 リアムはそう呟いて、シーツを蹴って起き上がった。

 床はすでに少しぬるくて、靴下がほこりを吸った。


 階下のキッチンでは、母親がトースターと格闘していた。

 ラジオでは天気予報が流れていたが、音がくぐもっていて何を言っているのかはよくわからない。

 まるで水の底から聞こえてくるみたいだった。


 食パンにピーナッツバターを塗りながら、リアムは窓の外を見た。

 ——空が、どこか白っぽい。

 夏のはずなのに、どこか色あせたような、ぬるい曇り空。


 「今日、エミリーちゃんと遊ぶんでしょ。帰る前に電話して」

 「うん」


 母親の言葉に返事をしながら、リアムはランドセル代わりの小さなリュックをつかんだ。

 ノート、懐中電灯、コンパス、そして折りたたみナイフ。彼なりの“探検装備”だ。


 玄関を開けると、外の空気は生ぬるくて、草のにおいが濃かった。

 町の名前はウィロークリーク。

 オレゴン州の北のほう、森と霧に囲まれた、どこにでもある田舎町。

 昔は炭鉱があって、今は観光マップにも載っていない。


 でもリアムには、最近この町が少しずつ違う町になってきているような気がしていた。


 理由はない。

 家も木も川も、昨日と変わらないはずなのに。

 ただ、風の音が変わった。

 草の匂いの中に、知らないにおいが混じるようになった。

 ラジオのノイズが、時々「声」に聞こえる。


 そして時々、耳の奥で誰かが名前を呼ぶ。


 リアム。


 その声は、自分のものではない。

 でも、たしかに自分の内側から聞こえる。

 そんな気がする。


 


 * * *


 


 ウィロークリークのはずれ、廃線になった鉄橋の下。

 エミリー・カーターはいつも、ここでリアムを待っていた。

 汚れた白いTシャツ、ジーンズの膝に小さな破れ。キャップの下からのぞく茶色の髪。

 左手には使い込まれたスケッチブック。


 「遅い」

 「ごめん。寝坊した」


 エミリーは返事をしないまま、スケッチブックを開いた。

 リアムの目に、黒いインクで描かれた“なにか”が飛び込んでくる。


 塔。木。煙。

 どれにも見えるし、どれにも見えない。

 空に向かって伸びているのに、沈んでいくようにも見える。


 「これ……」

 「夢で見たの。昨日の夜」


 エミリーは淡々と言った。

 「名前を呼ばれた。知らない声。名前は覚えてないけど、呼ばれたのだけはわかる」


 リアムは、何も言えなかった。

 彼も、まったく同じ夢を見たから。


 「他にもいると思う。……ノアとか」


 「ノア?」

 「転校生。あの子、もっと“見えてる”気がする。こっちじゃないもの」


 エミリーの声が妙に平坦だった。


 リアムは何か返そうとして、ふと、川の向こうを見た。

 草むらの奥、木の影の間に、黒い影のようなものが立っていた。


 まっすぐこちらを向いているようで、でも目が合わない。

 見ようとすればするほど、視界の外に押し出されていく。

 存在が、視界と噛み合わない。


 風が吹いた。

 影は消えた。


 「……いま、誰かいた?」

 「さっきまでいた」


 リアムはそう答えた。

 声が震えていた。


 


 名前を呼ばれている。

 ずっと、どこかから。

 でもその名前を思い出すことは、きっと、元に戻れなくなることだ。



(第1章・了)

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