今日、会わなかったら、きっと……

「……点数落ちた」


 戻ってきた定期考査の結果を見て、私は溜息を吐いた。

 いままでより総合的に順位が落ちてしまったからだ。

 クラスのみんなも自分たちの結果を見て、教室中がざわめいている。

 

「えー? これで下がったとか言ってんの?」

「大丈夫だよ、仲里さん」

「そうそう、私も真ん中くらいだし」


 気付けば後ろから進藤さんたちが私の結果を覗き見してて、そう言われた。

 頭のいいこの学校で、みんなそこそこの成績を取ってるからすごい。

 しかも、そんなに可愛くおしゃれしてるのに。ぬかりない。


 進藤さんたちの「大丈夫」の言葉を聞きながら、ふと感じる違和感。どうしてこんなに自分だけが足りていない気がするんだろう。前まではそれなりに頑張れてたはずなのに。


「今日の放課後、特別補講を行います。赤点を取った生徒はもちろん、復習したい人は来てください」


 教壇のところで担任の先生が言った。


 今日は図書館で颯馬くんと約束している。

 でも、勉強しないと……。

 私から唯一出来ることを消してはならない。


 補講なんて、きっと一時間くらいで終わるよね。

 きっと、颯馬くんは待っててくれるよね。

 

 そう思って、私は補講に参加することにした。


 ◆ ◆ ◆


 補講室に入ると、他の生徒たちもちらほら集まっていた。みんな真剣に問題集を広げていて、私は何だか気後れしてしまう。どこかで、「本当に大丈夫?」という不安が頭をよぎるけれど、今はただ、目の前の課題をこなさなくてはならない。


「ここの問題が解けてない人が多かったから気をつけるように。じゃあ、いまのを踏まえて、小テストを配る」


 補講で全科目やってくれるのは助かるけど、まさか、小テストまであるとは思わなかった。


「はぁ、終わったー」


 しんと静まり返った教室の中で誰かが終わりを告げる。

 私も終わった。


 数学の小テストを終えたところで、もう五時を過ぎていた。

 放課後に突入してから一時間半も経っている。


 学校から出て走れば十分くらいで図書館に着くはず。


 そう思っていたのに……


「仲里さん」


 後ろから声を掛けられた。

 落ち着いた大人の女性の声。


 学校カウンセラーの先生だった。


「ちょうど探してたのよ、会えてよかった。少しいい?」

「あの……」


 どう答えようかと思ってしまった。

 用事がある、と言えばよかったかもしれない。

 迷ったことによって、カウンセラーの先生の瞳が光った気がした。


「こっち来て、少し話したいの」


 ニコッと笑った先生が私をカウンセラー室に招く。

 ここで逃げたら、きっとおかしいと思われる。

 両親に何か言われるかもしれない、と考えてしまった。


「最近はどう?」


 カウンセラー室に入って、丸いテーブルを挟んで先生の向かいの椅子に座ると、先生はさっそく、そう尋ねてきた。


「えっと……」


 先生が何について、どうかと聞いているのかは分かる。

 きっと、お姉ちゃんが死んで、大丈夫か? と聞きたいんだ。

 でも、大丈夫なんて言えるわけないし、颯馬くんのことも言えない。


 じゃあ、私はなんて答えればいいの?

 なにが正解?


「悪夢を見たりはする?」


 先生は質問の仕方を変えた。


「いえ、夢は見ません」


 私は淡々と答えた。


「じゃあ、ご両親はどう? 優しくしてくれる?」


 さらに先生は質問を変えた。


「はい」


 まるで割れ物に触れるように……。


 ぎゅっと両手で握ったスカートが皺になりそう。


 どう答えれば、この質問責めは終わる?

 嘘でも大丈夫と言えばいい?


「仲里さん、何か話したいことはない?」


 どうして、カウンセラーの先生はこういうやわらかい話し方をするんだろう。

 淡々と話したら怖いから?

 でも、私はこっちのほうが探ろうとされてるみたいで怖い。


 「ないです。すみません、私、帰らないといけないので」


 テーブルの下に置いたスクールバッグを手に持って、私は立ち上がった。


「そうよね、ご両親が心配されるわよね。何かあったら遠慮なく相談しに来てね」


 先生はやわらかい表情を変えることなく、私に言った。


 そういうの、やめてほしい。

 言葉に出来ないのは、私がビビりだから。


「ありがとうございました」


 表だけ感謝の言葉を残して、私は靴箱に向かった。

 靴を履き替えて、外に出た瞬間に走り出す。


 急いでいるときに限って、こういうことがある。


 日が延びたから、まだ外は暗くなっていないけど、もう時間は六時を過ぎていた。

 今日は図書館が早く閉まる日だ。


 颯馬くんは、まだ図書館にいるだろうか。


 私たちは会った日に次に会う日を決めている。

 きっと、今日行かなければ、もう会うことは出来ない。


「颯馬くん……」


 まだ図書館は見えてこない。走って、息を乱しながら、彼の名前を口にする。


 あと少しなのに、運動が得意ではない私は苦しくなって足をゆるめてしまった。


 ――もう、小説を書くなんて諦めてしまう……?


 急に私の耳元で悪い私が囁いた気がした。


 図書館はもう閉まってしまっただろうし、いま行っても、もう颯馬くんはいないかもしれない。

 諦めてしまえば楽になれる。

 お姉ちゃんが消え、颯馬くんが消える。

 いつか、二人の記憶が私の中から薄れて……。


「……そんなの嫌だよ……!」


 私は深呼吸をして、また走りだした。


 図書館の建物が道路の向こうに見えてくる。


 ここからでも、もうクローズの看板が立ってるのが見える。

 でも、もしかしたらって……。


 そう思いながら走って、横断歩道を渡ろうとしたときだった。

 信号は赤になっていた。

 迫る白い車。

 つんざくようなブレーキの音。


 すべてがスローモーションに見えた。

 私、死ぬのかもしれない、って。


「あぶない……!」


 後ろから、誰かに勢いよく手を引かれて、気が付けば私は誰かの腕の中にいた。

 車に轢かれそうになって、危機を感じて心臓がバクバクと暴れて、まだよく分からなくて……


「なにやってんだよ!」


 その声で我に返って、私は颯馬くんの腕の中にいるのだと理解した。

 ゆっくりと顔を上げると、そこには真剣に怒る、颯馬くんがいた。


「ごめんなさい……」


 そう言いながら、身体が震える。何もかもが不安で、怖くて、頭がいっぱいになった。


「けど、颯馬くん、どうして……」


 消えてなかったの?


「約束しただろ、俺が絶対守るって。でも、走ってくんなよ、俺を悲しませんな」


 颯馬くんは、私の震える体をぎゅっと抱きしめた。

 バクバクと鳴っていた心臓が小さくドクンと鳴る。

 どうしてこうも頼りたくなってしまうのだろう。

 ぜんぶの弱さを見せてしまいそうになる。


 私は無意識に自分の顔を上げ、彼を見つめた。

 颯馬くんの瞳が、いつもよりも真剣で、少し怒ったように見える。


「だって、今日、会えなかったら、消えてしまうと思ったから……」


 震える唇で、自分の言葉を伝える。

 諦めそうになったのに、ずるいよね。


「一日会えなかったからって、俺は消えたりしないよ。今日会えなくたって、俺がAちゃんの学校の前で待てばいいんだから。そんなに簡単に俺の約束から逃がしたりしないよ」


 至近距離から整った顔、真っ直ぐな瞳に見つめられて、胸が大きく鳴った。

 颯馬くんを好きかもしれない、って心が言った。

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