第6話 ★

 佐々木麗奈は、丁寧に頭を下げてから屋敷を出て行く智弘のことを、頭を下げ返して見送った。少し名残惜しく感じながら、居間へと戻る。

 そこで先程まで飲んでいたお茶を片付けていたのは高谷だった。先ほどまでの袴とは違い、色味の控え目なスーツを着用している。


「物腰柔らかな青年でしたな」


 剣道の師範であり、且つ佐々木家の使用人として働く高谷は、静かに麗奈に問いかけた。


「ええ、そうね」


 ぼんやりと返答を返しながら、麗奈は彼のことを考えた。五年経って様々な状況が変わってきたとはいえ、このご時世にジムに通い詰める人間は少ない。それこそ有力者の血縁が、健康を保つために身体を動かす程度だ。

 彼は、もうかれこれ五年の間、ほぼ毎日ジムに来ているのだが。


 あの日───世間一般では『革命の日』と呼称されることも多いあの瞬間から、世界は大きく変わってしまった。銃火器が力を失い、暴力が世間を支配して、法は一時のあいだ無視された。

 そして、智弘のような埒外の力を得た存在も出て来た。


「革命の日から五年鍛え続けると、あれほどまでに成長するのですね」

「どうかしら。本人の素質もありそうな気がするけれど」


 初めて彼を見たのは五年前のはずだが、その瞬間のことを麗奈はあまりよく覚えていなかった。父親が首長となって仕事をする必要がなくなり、半ば暇つぶしのような形で就職したあのジム。父親が経営していたから職場として選んだが、最初は慣れない事務作業に戸惑ったりもした。


 智弘の存在を認知したのは、それから一月が経ってからだろうか。毎日顔を合わせるのだから、彼の事を覚えるのも不思議ではない話だった。

 毎日疲れた表情をしてジムに来ては、帰る頃には明るい空気を纏って出て行く。そんなに楽しいのかと麗奈自身もトレーニングに励んでみたことがあったが、何も面白くなかった。幼い頃に習っていた剣道の事を思い出して憂鬱になっただけだった。


「本当にご首長と決闘をしていただくおつもりですか?」

「………そんなことはないけれど、本当に勝ててしまいそうで困惑してるわ」


 過去に口にした相談というのはただの口実に過ぎなかった。


 いつもは明るい顔をして帰って行くのに、暗い雰囲気のまま帰っていく日が増えた。トレーニングの負荷が足りなくなったのだと気が付いてから、色々提案してみたら、また楽しそうに帰って行く日が増えた。

 最初はそれだけの関係だった。毎日顔を合わせる人間が暗い顔をしたまま帰って行くのが少し嫌で、親切心から軽く助言した程度。それも、思いついたことをそのまま口に出した程度の助言だった。


 ただ、軽い気持ちで水泳を勧めた日から、状況は変わった。


 麗奈は別に筋肉フェチなどではない。引き絞られ、削ぎ落とされ、純然たる機能美だけを残した肉体を前に、少しだけ、本当に少しだけ魅力を感じてしまっただけの話だった。彼女は断じて筋肉フェチなどではなかった。


 高校時代の友人と話していて、相談を口実にお茶にでも誘えば良いと言われて。その後日に、彼への相談の内容と、彼を実家に直接招待したことに頭を抱えられて。まあ何とかなってよかったんじゃない、と投げやりに言われたことは記憶に新しかった。


「それで、どう?」

「………職権乱用はあまり好まないのですが」

「少し困っていることがあったら助けてあげたいだけだもの」


 溜息をつきながら、高谷は麗奈に紙を一枚差し出す。


 麗奈が受け取った紙には、表計算ソフトの画面をそのままコピーしたかのようなシンプルな書類だった。書かれている内容に軽く目を通す。


「弟さんがいるのね」

「………いえ、それが」


 五年前に亡くなっているようです、という高谷の言葉に麗奈が目を伏せる。何か、騒乱に巻き込まれたのだろう。革命の日には、多くの命が失われた。


 少し罪悪感が胸を刺す。踏み込みすぎたかもしれない。高谷が書類を差し出すのを渋っていた理由が、彼女にも分かった。

 書類を伏せて、机の上に置く。


「お茶を入れて貰っても良い?」


 高谷が無言で頭を下げて、台所の方へと消えて行く。一人になったリビングで麗奈は小さく溜息を付いた。椅子に深く腰掛ける。


「………少し、浮かれてたかも」


 書類を折り畳んで、屑かごの中に捨てる。麗奈は静かに窓の外を眺めた。

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