デッドマンズ・ハンド
じーさん
デッドマンズ・ハンド
「お前、本気で行くつもりか?」
深夜の裏路地。かすかな風に混じって、どこか
街灯の灯りは薄く、壁に影だけが
階段の入口で、浩司は片手を震わせながら言った。
卓也は無言のまま、ポケットから取り出したライターでタバコに火をつけた。
火の揺らめきに映る彼の瞳は、荒んで乾いている。
足元では、うっすらと湿った感触が靴底に伝わる。
「奥から、……なんか、音がする。――階下から、誰かが
卓也は言葉を遮るように階段を見下ろした。
そこにはひび割れたコンクリート、そして壁面に無数の小さな白い手形が
「やめとけって。ここに行った奴は、全員……消えてんだ。
借金も戸籍も、履歴も――全部、なかったことにされる」
卓也はゆっくりと吐息を吐いた。
冷たい吐息がタバコの煙と溶け合い、夜の空気に溶けていく。
碧眼の奥で、何かが揺れた。
「……浩司、お前はまだ、俺を親友だと思ってるか?」
浩司の表情がわずかに歪んだ。
やがてその瞳に、言葉にならない哀しみが浮かぶ。
──数ヶ月前。
病室の白い蛍光灯に照らされた母の頬は、骨ばっていた。
末期がんの痛みに呻く母を前に、卓也は手を握るしかできなかった。
入院費三百万。父は蒸発し、残されたのは絶望と電話一本。
大学の先輩の“投資話”は、初めは小さな期待だった。
だが気づけば金は消え、家は競売にかけられた。
最後の支えにしたのが、浩司の金──俺を信じてくれ、と切羽詰まった声で
親友に土下座した。
「命まで賭けるつもりか?」
卓也は微笑んだ――しかし、その笑みは屈折していた。
「命で済むなら、安いほうだろ」
階段を降りるたび、床はヌルリと湿って、まるで生き物に足を絡め取られているようだった。
空調の音は消え、代わりに遠くで金属が擦れるような気配が耳鳴りと重なって鳴り響く。
浩司の「待てよ!」という声は、扉の向こうで闇に飲まれた。
その地下は、異様に静かだった。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。空調の音すらない。
壁には絨毯のようにびっしりと、小さな白い手形が押されている。
卓也は、ふと足元に違和感を覚えた。
床が柔らかい。薄く湿っている。まるで──肉を踏んでいるような感触。
進むごとに耳鳴りが強くなり、やがて目の前に一つの部屋が現れる。
ネオンサインに彩られた地下ポーカールーム。
テーブルは一つ。椅子は六つ。
その中央には、黒いスーツに銀の仮面をつけた異様なディーラーが座っていた。
「ようこそ、卓也様。最終ゲームの参加者として、お名前はすでに頂いております」
「なんで……俺のこと……」
「命と記憶を賭ける、それがこのテーブルのルールです」
卓也は凍りついた。後悔が、胸に
椅子に座ると、目の前にチップが積まれた。初期資金10万円分。
すでに四人のプレイヤーが黙って座っていた。
全員、異様に静かで──目が死んでいる。
だが、卓也の視線は最後の一人に止まった。
「……浩司……?」
間違いなかった。だが、彼の瞳は虚ろで、まるで魂が抜けている。
「どうして……ここに……」
浩司は卓也にだけ、かすかに口を動かした。
「お前が……ここを紹介したんだよ……」
卓也の心臓が強く跳ねた。
ディーラーが冷徹に宣言する。
「命と記憶を賭ける。それがルール。
勝てば返還、敗北すれば忘却。その身も名も、泡の如く消え失せます」
最初のハンドが配られた。
深呼吸。
冷静に、確率を読み、他人の癖を見抜け、と一人呟く。
これが卓也のルーティーン。
相手プレイヤーのわずかな視線の動き、
ブラフを見抜き、チップを奪う感触は、まるで血管を伝う鼓動のように鮮明だった。
勝つごとに椅子は一つずつ消え、消えた者の痕跡は赤黒い手形だけを残した。
──やがて、最後の相手はディーラーのみ。浩司はすでに消えた。
「最終ゲームです」
ディーラーがカードを配る。
卓也の手札は──スペードのエースとエイト。
──「デッドマンズ・ハンド」。
ディーラーが微笑む。
「最後に問います。勝ちたい理由を」
卓也は、言葉を失った。
──金? 母? 浩司?
いや──すべては自分のためだった。
信じてくれた人間を、地獄に突き落とした。
「……勝っても、何にも戻らねえよな」
「ええ。だが、あなたは選びました。自らここに来たことを、もうすぐ忘れます」
テーブルの下から、無数の白い手が這い上がってくる。浩司の手だ。
椅子の脚に絡み、卓也の足首を掴む。
──そうだ。あのときも、同じ手が……
もうその記憶も、薄れかけている。
リバーが開かれる。
卓也はフルハウス。ディーラーはロイヤル・フラッシュ。
卓也の意識が沈んでいく。
「俺は……何を……」
意識が溶けていく感覚の中、わずかに香るネオンの甘い残響。
――翌朝。
スーツ姿の青年が路地に座っていた。
額に汗。ポケットには十万円。
名前はわからない。家も、記憶もない。
ただ──ポーカーのことだけは完璧に覚えていた。
彼はふと立ち上がり、近くのビルの壁を見る。
そこには、古い白黒写真が飾られていた。
銀フレームの中には、仮面のディーラーと、五人のプレイヤー。
中央に、スーツの男──今の彼と瓜二つの男が、笑って座っていた。
彼の手には、一組のカードが握られていた。
ふと背後で、扉が軋む音がした。
誰かが
「ようこそ。次は……あなたの番です」
デッドマンズ・ハンド じーさん @OjiisanZ
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