第7章 深淵より来たる声
スイスとフランスの国境に近い、ある村には“神の湖”と呼ばれた場所がある。
かつて、誰もがそこに祈りを捧げた。雨を求めて、実りを願って。
だが今は、地図からその名は消え、村人たちは一様にこう言う。
「湖には“何か”がいる。夜に近づいてはならない」
光を反射しない水面。霧に包まれた沈黙の鏡。
そこは、“怪物”を封じるにはあまりに静かで、あまりに美しい場所だった。
⸻
私は湖畔に立っていた。
霧は濃く、空気は水に沈むように重たかった。
風はなく、葉は一枚も揺れていない。
だが私は知っている。この水の下に、何かが“生きて”いる。
アダムは後方で警戒していた。リアは森の気配に集中し、カリオストロとアナク・セトは一歩も動かずに空を見ていた。
セバスチャンは姿を見せていないが、きっとどこかでこちらの様子をうかがっている。
「……水の底から、誰かがこっちを見てる」
リアがぽつりと呟いた。
「見ているのではない。聞いているのだ」
カリオストロが応じた。
その声には、微かに懐かしさが混じっていた。
そのときだった。
水面が、わずかに波立った。
風もないのに、鏡のような湖面が揺れ、中心に小さな渦が生まれた。
そして、現れたのは――
銀色の鱗を持つ、異形の影。
それは、ゆっくりと水面に姿を現した。
人のようでいて、人ではない。
両手には長い膜が張り、鰓が呼吸のたびにかすかに動く。
頭には角でもヒレでもない、なめらかな骨板のようなものがあった。
瞳だけが、深く、黒く――まるで、深海の奥にある“時間”そのもののように見えた。
私はその場から動かず、ただ言った。
「ギル……あなたに、会いに来た」
声に返事はない。
だが確かに、空気が震えた。
音ではない。心に響く“圧”のような何か。
それは、夢の中でしか聞こえないような微かな“問い”だった。
「水に沈む者の願いを、汝は聞くのか」
私はうなずいた。
「あなたが、ずっとここで“守っていた”もの。
祖父は、それを知っていました。だから、私をここに導いた」
ギルの瞳が、わずかに揺れた。
彼が言葉を持たないことは知っていた。
だが、彼の沈黙には“意志”がある。
祖父はその沈黙を、**“信頼の形”**だと書き残していた。
私はそっと、水面に手を差し入れた。
ひんやりとした水が肌に触れる。だが、その奥から――記憶が届いた。
ギルの記憶。
祖父と共に、ここで静かに座っていた時間。
言葉もなく、ただ共に過ごし、同じ星空を眺めていた夜。
そして、祖父が最後に遺した一言。
「君は“怪物”ではない。
見る者がいなくとも、守る者は“英雄”と呼ばれるべきだ」
私はその言葉を、声に出して伝えた。
「あなたは、ずっと英雄だった。
誰にも知られず、誰にも気づかれず――それでも、世界を守っていた」
ギルは静かに近づき、胸の奥から貝殻のような装飾品を取り出した。
それは、祖父が使っていた“水の記憶”を記録する装置。
ギルはそれを、私の手にそっと置いた。
「……ありがとう」
私は呟いた。
湖畔に、カリオストロが近づいてきた。
「彼は我らの中で最も古く、最も静かな存在だ。
だが、最も深く“人間を愛している”者でもある」
アダムが言った。
「“語らぬ者”を信じるというのは、容易ではない。だが、お前ならそれができると信じよう」
私はギルに向かって手を差し出した。
「一緒に来てほしい。あなたの目で、“終わり”を見てほしい。
それが本当に訪れるのか、それとも――まだ抗えるのか」
ギルは、私の手をそっと取った。
その体は冷たく、けれど確かに、温もりがあった。
こうして、六人目の“怪物”が、私の仲間となった。
静かに、深く、誰よりも優しい“英雄”が。
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