第6章 黄昏の王

 ロンドン自然史博物館の地下には、誰も立ち入らない収蔵区画がある。


 昼間は観光客で溢れ返るこの場所も、深夜になると静寂に包まれる。

 だが、その静けさは単なる無音ではない。

 まるで、長い眠りの中で“何か”が息を潜めているようだった。


 祖父のノートによれば、かつてこの地で保管されていた「第六王朝時代のファラオの棺」が、正式記録から抹消されている。

 運び込まれたのは百年前。だが、どこの書類にもそれは“存在していない”。

 記録から消された封印。それはつまり、本物の危険であるということだった。


 その名は――アナク・セト。



「神の声を持たぬファラオ。

 彼の目覚めは、天秤を傾ける。だが、彼はまだ“理”を信じている」



 祖父の言葉を胸に、私は夜の博物館に足を踏み入れた。



 展示棟の裏手、今は使用されていない旧記録室。

 埃をかぶった棚の裏に隠された石の階段が、地下へと続いていた。

 光の届かぬ下層は、もはや別世界だった。


 空気は乾燥していたが、奇妙な水気を含んだ匂いが鼻を刺す。

 遠くで、何かが石を引きずるような音が聞こえた気がした。


 私は一歩、また一歩と階段を下りた。



 そこは、まるで古代の神殿だった。


 壁一面に象形文字が刻まれ、金と黒の装飾がいまだに輝きを失っていない。

 だが、それ以上に目を引いたのは、中央に据えられた巨大な石棺だった。


 ただの保存物ではない。これは封印だ。


 棺の周囲には、無数の鎖が巻かれていた。

 黒鉄、銀、青銅、そして赤い線が刻まれた魔術的な鎖――

 科学と呪術が同時に施された異様な光景に、私は息を呑んだ。


 棺の蓋には、見たことのない文様が刻まれていた。

 だが中央に、祖父の印――「V.H.」の刻印があった。


 私は確信した。祖父は、この棺を封じた側だった。



 ノートの奥から、古びた布切れを取り出した。

 そこには、封印の留め具を外す順序が象形文字で記されている。

 私は手順通りに鎖を解いていった。慎重に、そして静かに。


 最後の鎖を外したとき、棺の蓋がひとりでに音を立てて動いた。


 中から、黄金の装飾を纏った男が現れた。


 褐色の肌は風化せず、包帯は最小限に抑えられ、瞳は琥珀のように光を湛えていた。

 それは“死者”ではなかった。

 眠っていただけの“王”だった。


 「……この時代に、我を起こしたのは誰だ」


 その声は低く、響くように、石壁に反射して空間に満ちた。


 私はゆっくりと膝をつき、答えた。


 「クロエ・ヴァンヘルシング。あなたを呼んだのは私です」


 「ヴァンヘルシング……かつて、我と対話した“知者の一族”か。

 だが彼は、我を起こさぬと誓ったはずだ。なぜ、その約束を破る」


 「世界が傾いています。旧き神々(オールドゴッズ)が目覚めようとしている。

 祖父は、あなたの“秤”が必要になると分かっていた。だから――私に託しました」


 「神々の審判は遠い昔に終わった。

 人間はその声を求めながら、自ら手を汚し、砂を血に変えた。

 お前も、それを赦すのか」


 「赦しません。でも、止めたい。

 あなたが世界を見限っていないのなら、まだ秤を動かせるはずです」


 私は懐から、巻物を差し出した。

 祖父がアナク・セトに贈った“沈黙の契約書”。


 「祖父はあなたと“共に在る”という形を選びました。

 私は――その続きを願っています」


 アナク・セトは沈黙した。

 やがて棺から静かに立ち上がり、歩み寄ってきた。


 「かつて我は神の沈黙に絶望した。

 信じるべき声を失った王は、もはや民を導くことなどできぬ。

 だから我は、眠ることを選んだ」


 その瞳が、私の中を見通すように揺れた。


 「だが、ヴァンヘルシングの血が再び我を呼んだ。

 それは、“神なき時代の選択”であろう」


 彼は私の目の前に立ち、右手を胸に当てた。


 「ならば、お前の秤に我を乗せよう。

 この世界が、裁きよりも希望を欲するというのならば」


 私はうなずいた。


 「あなたが“光”でも“闇”でもなく、ただ“理”であるのなら。

 私は、あなたと共に歩ける」



 こうして、五人目の“怪物”が、私の仲間となった。


 その背には太陽と月の刻印。

 ――秤を掲げる死者の王が、再び歩き出した。

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