777
涼風紫音
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「たかし、今日は七夕だな」
「知ってるよ父ちゃん。年に一度、織姫と彦星が会う日でしょ」
たかしはいささかマセたガキで、父はわりとろでもない親だった。そして今日は令和七年七月七日である。
「なぁ、たかし。なんで一年に一日しか会えないか知ってるか?」
男は1DKの狭いアパートのこれまた小さいダイニングキッチンで、安酒をあおりながら尋ねた。
七夕の話は有名ではあるものの、案外と大事な部分は皆忘れるものだと、男は考えていた。
小首を傾げながら、たかしは「覚えてない……かな」と小声で答えた。実際、たかしは昔話の類いはきれいさっぱり忘れていくタイプだった。
「大事なことだからな。ちゃんと覚えるんだぞ」
男がそういってやけに畏まって居住まいを正すと、キッチンテーブルに安酒のカップをそっと置いて、こう続けた。
「織姫は機織りだった。そして彦星は牛飼いだった。この二人は、一目で相思相愛、周囲が引くほどぞっこんになった。すっかり仕事を放り出して、二人であれやこれやをやったわけだ」
「父ちゃん。子どもじゃないんだから、そういうぼかした言い方しなくてもいいよ」
たかしはやはりマセガキだった。男も男で、ここからが本題とばかりにグッと目に力を入れてたかしを見据えた。たかしはつい身構えそうになる気持ちを抑えて、一言も漏らすまいと父を見た。
「皆文句を言ったわけだ。機織りがいないから衣がボロボロだとか、牛飼いがいないから牛がみな病気になったとか。そこで怒った神が二人を引き離して、年に一回だけ会うことを許すことにした。さて、たかし。これを聞いてどう思う?」
絡み酒になるほど飲んでいるわけではないことはわかっていたたかしも、突然始まった問答に不意を突かれて、思わず両の拳で頭をぐりぐりしながら考えた。
「ちゃんと仕事しろ……ってこと?」
男は大きく首を左右に振り、やれやれと呟きながらたかしの答えを否定し、手にした酒のカップをずずいとたかしの方に突き出した。
「お前は真面目か? そうじゃねーよ。どいつもこいつも自分のことしか考えない自分勝手なやつばかりだってところが肝心だ。衣がボロボロになっても牛が病気になっても、誰一人自分でそれをなんとかしようとは思わなかったわけだ。で、神様に泣きついてなんとかしてもらった。神も神で、大して考えもせずに織姫と彦星にそれまでの仕事をやらせれば解決すると、適当に年一回だけ会って良しとした」
「たしかに自分たちでやればいいのにね」
父の真面目腐った顔を見て、たかしもついうんうんと同意する姿勢を見せた。
「世の中、あって当たり前のものなんか一つもない。当たり前だと思っているうちは感謝もしないくせに、無くなったら途端に当たり前を返せと怒る。怒るだけで自分でどうにかしようとはしない。それが世の中ってやつだ」
つい頷いたたかしも、さすがにそんな話だったかと疑問を感じないでもなかったが、酒を飲んでいる時の父の機嫌は取っておくに限ると、再びぶんぶんと頭を振って父の言うことを理解したフリをした。
「それでもまぁ、織姫と彦星は年に一日しか会えなくても、しっかりよろしくやっているというわけだ。それ以外の日は文句も言わず仕事をして、な」
「父ちゃんと母ちゃんもそんな感じなの?」
たかしはつい余計なことを口走っていた。きれかかった室内灯がタイミングよく明滅を繰り返し、何事か触れてはいけないことを触れてしまったのではないかと、たかしは動揺した。
「父さんと母さんは……、逆だな。年に二日以上会うと、二日目からはずっと喧嘩だからな。年に一日も会えば十分なんだよ」
たかしが懸念したほど地雷を踏んだわけでもないようで、父の機嫌はそれほど悪くなさそうだと、たかしはすっと胸を撫でおろす。
「仲が良すぎても悪すぎても一年で一日がちょうどいいんだ。不思議だね」
できるだけ無邪気な子どもを装って、殊更考える素振りをした。両親が不仲でとっくに離婚していることをたかしは知っていたし、そのことはとっくの昔に割り切っていた。たかしはマセガキなのだ。
「というわけで、今日は七月七日だ。おまけに令和七年だ。七が三つ揃ってる。つまり……」
「スロットに行くんでしょ?」
「そうなるな」
そもそも両親が離婚することになった最大の原因は、父のギャンブル好きであることは、幼少の頃に繰り返された夫婦喧嘩で嫌というほどわかっていた。昔話は忘れてもそういうことは忘れないのが、たかしだった。
「つまり……」
「勝っているうちは帰ってこないし、負けたら一文無し」
そう。たかしにとってはいつものことだった。男はパチンコ屋に行って、勝ったら勝ったで勝っているうちは帰らず、負けが込み始めると取り戻そうと有り金を全部突っ込んでしまう、それが父なのだ。
「じゃあ、晩御飯は……?」
神妙な顔で男に尋ねるたかしを見て、男は顔を覆って首を横に振った。
「なぁたかし。さっきの話をちゃんと聞いてたか?あって当たり前のものなんて、世の中には無いんだよ」
達観した顔で答える男の顔は、既に戦場に向かう勇ましい男のそれだった。有り金を賭けて戦う男。悲壮感はなく、ただその機会を逃すまいと皮算用する顔だ。
「なあに、今日は七が三つ揃うに決まっているさ」
たかしはこうなったら男が決して諦めたりしないことを、これまたよく知っていた。知っているからこそ、男の財布からこっそり千円札を抜き取っておく程度の知恵は働いた。父は父で、いくらギャンブルに使ったのかわからなくなる有り様なので、もともと財布にいくら入っていたのかなど欠片も覚えていないのだった。
「父ちゃんは……屑だね。母ちゃんが逃げたのもそれのせいでしょ」
責めるでもなく咎めるでもなく、たかしは淡々とそう言いながら、晩飯をどこで調達するべきか、あるいはあり物で済ませてへそくりの生活費を貯めるべきかを急いで考え始めていた。
「七月七日七遊って言葉もあるしな。あと、父さんに向かって屑は無いだろ。せめて星屑とか、言い方を考えろ」
変なところで学のある男は、遠回しにたかしの批難を躱したものの、たかし自身はいつものことだとわかっているので、これといって怒ってもいなかった。
「迎えには行かないからね」
たかしはそう言って男を家から追い出した。
いそいそと鞄を漁り、秘かに隠していたへそくりをばっと床に広げた。
「七千七百……七十……七円、父ちゃんはどうせ負けるだろうけど、こっちは七が四つ。おいらの勝ちだね」
無一文で帰ってくるに違いない父の様子を想像して、たかしはついほくそ笑んでいた。これ見よがしに目の前で寿司でも食ってやろうかと思わないでもなかったが、こっそりお金を抜いていることがバレるので、それだけは止めておいてやろうと心に決めたのだった。
777 涼風紫音 @sionsuzukaze
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