第2話 天狗の山


「……ひとりで行くのか?」


夜の鞍馬寺。

薄暗い灯籠の明かりが参道を照らすなか、陽翔は背を向けていた。


「はい。あの子は……強い目をしておられました。」


背後から聞こえるのは道範の声。

遠巻きに見送る僧たちは、恐れとも期待ともつかぬ眼差しで少年の後ろ姿を見つめていた。


陽翔は軽く身をかがめ、階段を駆け上がった。

(まるで忍者ゲームの中に入ったみたいだ……

でもこの身体疲れるなー、スタミナないんだよな。)

そんな他人事めいた感覚が、どこかにまだ残っている。

けれど同時に、地面を蹴ったときの足裏の反応や、夜風に揺れる枝葉の音は、現実そのものだった。


「天狗に会えば、何かわかるかもしれない。……元の世界に戻れる方法も。」


そんな期待と、不安がない交ぜになったまま、彼は鞍馬山の奥深くへと分け入っていった。



木々が濃くなり、空が見えなくなる頃、空気が変わった。


ザワ……ッ


背筋がぞわりと粟立つ。音のない音。

草も風も、急に沈黙したような感覚。足元の苔がしっとりと重くなり、まるで何かに導かれるように足が進む。


「……なんだ、この感覚」


不意に、背後から風が抜ける。振り返ると、そこに“それ”はいた。


朱塗りの能面のような顔に、巨大な羽団扇。

赤黒い山伏の装束を身にまとい、一本歯の高下駄を履いた、異形の存在――天狗。


「……っ!」


反射的に陽翔は一歩下がる。が、その瞬間、何かが自分の内側でカチリと噛み合う音がした。


「お前が、替わり身か。」


天狗の声は、風の鳴るような響きだった。


「お前が“遮那王”の器に入りし、異界の魂か。……大したものよ。怯まず我を睨み返すとは。」


「お、俺は……」


陽翔は言葉に詰まった。

自分が何者か――それすら、今はもう曖昧だった。


「元の世界に、戻れるのか。俺は……ただ普通に暮らしてたいだけで……こんなとこに来るなんて、思ってなかったんだよ!」


吐き出すように言ったその声は、震えていた。


天狗はしばし沈黙し、やがて口を開いた。


「この世界は、そなたの“現”とは別の時の流れ。

だが、この流れに入りし時点で、そなたはただの“通りすがり”ではない。」


「……じゃあ、何だっていうんだよ」


「“物語を歪める者”。あるいは“新しき主”。」


「……は?」


「この遮那王――牛若丸という存在は、本来ならば、ここで終わる運命だった。自分の命と引き換えにな。

だが、そなたがその肉体を継いだことで、流れは変わった。そして平清盛。あやつが時空の鍵を握っておる。奴を倒せばこの世界は元に戻るはずだ。」


天狗の言葉は、陽翔の胸を重く叩いた。


(つまり……俺が生き残ったことで、本来死ぬはずだった牛若の歴史が、変わってしまったってことか……。そして平清盛なる人を倒さない限り戻れないのか。)


「そなたに問う。――この運命を、受け入れるか?」


「……受け入れるって?」


「ここに生き、ここで刃を振るい、牛若丸として、この時代を進むことを選ぶかどうか。さすれば、そなたは“語られぬ物語”を紡ぐことになる。」


しばらくの沈黙。

陽翔は手を握る。震えている。だが、逃げる足はなかった。


(何もなかった俺に……“やること”ができた)


「それしか方法がないんだろ?

じゃあ、聞かせろよ。」


「……ほう?」


「この“牛若丸”ってのは、何をしようとしてたんだ。

俺が継いでしまったなら、せめてその目指してたものくらい、知っておきたい。」


天狗の面の奥で、目が細められるのが見えたような気がした。


「いいだろう。語ろう。牛若が目指したもの、そして……その果てに待つ悲劇を。」


その夜、鞍馬の奥深くで、ひとりの“異邦の少年”は、過去の英雄の宿命を知る。


牛若丸――源義経。

のちに平家を滅ぼし、兄・頼朝に追われ、最期には壮絶な死を遂げた男。


「そなたがこの道を選ぶならば、いつの日か出会うだろう。五条大橋にて、“弁慶”という名の鬼を。」


「弁慶……ああ、知ってる。名前だけな。教科書でちょっと見た。」


「その男に勝てば、そなたは歴史を超える者となるだろう。」


陽翔は、小さく笑った。


「ゲームみたいな話だな。でも……やるよ。やってやる。」


天狗は何も言わず、羽団扇をひと振りした。

風が巻き、枝が揺れ、闇の中に鳥のような声が響く。


「そなたの物語が、始まる。」

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