第9話 「鬼の試練と共鳴する力」
長老会の審問から一週間が過ぎた。その間、蓮太郎と朱音は可能な限り多くの時間を共に過ごし、互いの存在を深く刻み込もうとしていた。しかし、ついにその時が来た。
「分離の試練」が始まる朝、二人は妖怪街の奥にある古い石碑の前に立っていた。薄紅色の朝焼けが街を包み込み、まるで二人の心情を映し出すかのように儚げな光を放っていた。
「本当に、三十日間なのね」
朱音の声には、普段の冷静さの陰に隠しきれない不安が滲んでいた。小さな角がわずかに震えているのを、蓮太郎は見逃さなかった。
「ああ。でも、完全に離れ離れになるわけじゃない。千代子さんが言っていただろう?契約の絆があるから、互いの安否くらいは感じ取れるはずだ」
蓮太郎は朱音の手を取り、温かく握りしめた。手のひらを通じて、彼女の不安が自分の心にも流れ込んでくるのを感じた。
「朱音、俺たちは必ず乗り越えられる。今まで一緒に戦ってきた絆を信じよう」
朱音は頷き、蓮太郎の手を握り返した。
「蓮太郎......私も信じているわ。あなたとの絆を」
石碑に刻まれた古代文字が淡く光り始めた。分離の術式が発動する合図だった。
「時間だ」
二人は最後に見つめ合い、そして離れた。石碑の光が強くなり、朱音の姿が霞んでいく。
「また会おう、朱音」
「ええ、必ず」
光が消えると、朱音の姿は跡形もなく消えていた。
蓮太郎は胸の奥に広がる空虚感に耐えながら、橘家へと戻った。家に入ると、千代子が心配そうに出迎えてくれた。
「蓮太郎、大丈夫かい?」
「はい、おばあちゃん。朱音は......鬼族の里で試練を受けています」
千代子は蓮太郎の肩に手を置いた。
「心配は無用だよ。あの子は強い。そして、お前たちの絆はもっと強い」
その夜、蓮太郎は一人で夕食を摂った。いつもは朱音が作ってくれる料理を口にしながら、改めて彼女の存在の大きさを実感した。しかし、胸の奥で微かに温かいものを感じる。朱音の安否を知らせる契約の絆だった。
『朱音......無事でいてくれ』
心の中で呟くと、その温かさが少し強くなったような気がした。
一方、鬼族の里に送られた朱音は、厳格な長老たちの監視のもとで過ごしていた。里の奥深くにある古い館で、彼女は一人きりの時間を過ごしていた。
「蓮太郎......」
窓から見える月に向かって、朱音は小さく呟いた。彼の温かい存在が恋しくて仕方がなかった。しかし、胸の奥で感じる微かな鼓動が、彼が無事であることを教えてくれた。
「分離の試練といっても、完全に切り離されるわけではないのね」
朱音は契約の絆を通じて感じる蓮太郎の存在に、わずかな安堵を覚えた。
三日が過ぎた頃、人間界で異変が起きた。
蓮太郎は朝の散歩中、妖怪街の異様な静寂に気づいた。普段なら賑やかな妖怪たちの声が聞こえない。そして、街の向こうから立ち上る黒い霧を見つけた。
「あれは......悪霊の気配だ」
朱音との契約で目覚めた霊感が、強い危険を感じ取っていた。しかし、今まで遭遇した悪霊とは明らかに異なる、より強大で邪悪な存在だった。
蓮太郎は急いで千代子のもとへ向かった。
「おばあちゃん、妖怪街に強い悪霊が現れています。これは......」
千代子は深刻な表情で頷いた。
「長老会の仕業だね。分離の試練の真の目的は、お前たちが離れていても『架け橋』としての力を発揮できるかを試すことだ」
「架け橋として......?」
「朱音の力で人間を守り、お前の意志で朱音を支える。二人が離れていても、その絆が試されているんだよ」
蓮太郎の顔が青ざめた。朱音なしで、あんな強大な悪霊と戦えるのだろうか。
「心配するな。お前たちの絆は本物だ。きっと道は開ける」
千代子の言葉に勇気を得て、蓮太郎は妖怪街へと向かった。
街に着くと、状況は予想以上に深刻だった。黒い霧が街全体を覆い、妖怪たちは恐怖で身を縮めていた。霧の中心から、巨大な影が立ち上がっていた。
「何てことだ......」
それは今まで見たことのない巨大な悪霊だった。人間の怨念が集まって形成されたような、おぞましい姿をしていた。
悪霊は蓮太郎を見つけると、低い声で話しかけてきた。
「除霊師よ......お前の鬼はどこにいる?一人では何もできまい」
その声には、人の心を揺さぶる邪悪な力が込められていた。蓮太郎の心に、朱音への疑念が芽生えた。
『本当に彼女は戻ってくるのか?鬼族の里で、人間のことなど忘れてしまうのではないか?』
「違う......朱音は......」
蓮太郎は必死に邪念を振り払おうとしたが、悪霊の精神攻撃は強力だった。
その時、遠く離れた鬼族の里で、朱音が異変を感じ取った。
「蓮太郎......危険!」
契約の絆を通じて、彼の苦痛と混乱が伝わってきた。朱音の瞳が紅く光った。
「長老様、人間界に行かせてください!蓮太郎が危険です!」
しかし、監視していた長老は首を横に振った。
「分離の試練中は、直接の接触は禁じられている。これも試練の一部だ」
「でも......」
朱音の角が大きく震えた。蓮太郎への想いが激しく燃え上がり、鬼としての力が制御を失いかけた。
「私は......私は彼を守りたい!」
その瞬間、朱音の身体から強大な鬼の力が溢れ出した。長老も驚くほどの力だった。
「朱音......お前の力は......」
人間界では、蓮太郎が悪霊の精神攻撃に屈しそうになったその時、胸の奥で強い温かさを感じた。
「朱音......?」
それは朱音の想いだった。遠く離れた場所から、彼女の愛と決意が契約の絆を通じて伝わってきた。
『蓮太郎......一人じゃない。私がいる。私たちの絆を信じて』
朱音の声が、心の奥深くで響いた。蓮太郎の目に力が戻った。
「そうだ......俺は一人じゃない。朱音がいる」
蓮太郎は悪霊に向かって叫んだ。
「お前の言葉に惑わされはしない!朱音は......俺の妻は、必ず俺と共にいる!」
契約の絆が光り始めた。物理的には離れていても、二人の心は繋がっていた。
鬼族の里で、朱音の鬼の力がさらに強くなった。しかし、今度は暴走ではなかった。蓮太郎への愛が、その力を制御していた。
「蓮太郎......あなたの想いが聞こえる。私も......私もあなたと共に戦う」
朱音は長老たちの制止を振り切り、人間界へと向かう術式を発動させた。
「朱音、待て!分離の試練を破るつもりか!」
「いいえ、長老様。私は試練を受けています。蓮太郎と離れていても、彼を守り、人間を守る。それが私たちの『架け橋』としての使命です」
朱音の瞳が決意に満ちていた。
「物理的に離れていても、心で繋がって戦う。それが私たちの答えです」
長老は驚いた表情を見せた。
「なるほど......分離の試練の本当の意味を理解したか」
人間界で、蓮太郎は悪霊と対峙していた。朱音の力は直接借りることはできないが、彼女の想いが自分の中にある除霊師としての力を引き出していた。
「俺たちは離れていても、心は一つだ!」
蓮太郎の周りに淡い光が宿った。それは朱音との絆が生み出した、新しい力だった。
同時に、鬼族の里で朱音が術式を完成させた。しかし、彼女は人間界へ向かうのではなく、契約の絆を通じて自分の力を蓮太郎に送り込んだ。
「蓮太郎......私の力を受け取って」
蓮太郎の身体に、朱音の鬼の力が宿った。しかし、それは以前のような直接的な力の共有ではなく、二人の愛情と信頼によって昇華された、より純粋な力だった。
「朱音......感じる。お前の想いが」
蓮太郎は悪霊に向かって手を伸ばした。彼の手から、朱音の鬼の力と自分の除霊師としての力が融合した光が放たれた。
「これが......俺たちの共鳴する力だ!」
光は悪霊を包み込み、浄化していった。悪霊の怨念が消え去り、妖怪街に平和が戻った。
戦いが終わると、蓮太郎は深い充実感を覚えた。朱音と離れていても、彼女と共に戦えた。そして、自分たちの絆がより深いものになったことを実感した。
鬼族の里で、朱音も同じ充実感を味わっていた。
「蓮太郎......私たちは乗り越えたのね」
長老が朱音に近づいた。
「見事だった、朱音。お前たちは分離の試練の真の意味を理解した」
「真の意味......?」
「物理的に離れていても、心の絆で繋がり、互いを支え合う。それが『架け橋』の真の力だ。お前たちは、鬼族と人間の新しい関係を示してくれた」
朱音の瞳に涙が浮かんだ。
「蓮太郎......ありがとう。あなたがいてくれるから、私は本当の自分になれる」
人間界で、蓮太郎も夜空を見上げていた。
「朱音......お前がいてくれるから、俺は強くなれる」
二人の想いが、契約の絆を通じて交わった。
その後の日々、蓮太郎と朱音は離れていても、日々の出来事や感情を微かに共有していた。時には朱音の好きな花の香りを蓮太郎が感じ、時には蓮太郎の読んでいる本の内容を朱音が理解した。
物理的な距離は、二人の心の距離を縮めるためのものだった。
「分離の試練」の期間も半分を過ぎた頃、蓮太郎は妖怪街で久しぶりに笑顔を見せた。
「朱音......待っていてくれ。俺たちは必ず、すべての試練を乗り越える」
鬼族の里で、朱音も同じ想いを抱いていた。
「蓮太郎......私たちの愛は本物よ。どんな試練も、私たちの絆を断ち切ることはできない」
夜空に浮かぶ月が、二人の想いを静かに見守っていた。分離の試練は続いていたが、二人の心はこれまで以上に深く結ばれていた。
長老会が課した最初の試練は、思わぬ形で二人の絆を試し、そして証明することとなった。朱音と蓮太郎の愛が「本物」であることを、鬼族の長老たちも認めざるを得なかった。
残る試練は二つ。しかし、この経験を通じて、二人は自分たちの愛がどんな困難も乗り越えられる力を持っていることを確信していた。
遠く離れた場所で、二人は同じ星空を見上げながら、再び会える日を静かに待っていた。
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