第8話 「審問の幕開けと過去の真実」
玄武が去ってから一週間が過ぎた。
蓮太郎は朱音の手を握り、古い鳥居の前に立っていた。この鳥居は、妖怪街の奥深くにある特別な場所で、人間界と鬼族の領域を繋ぐ境界線だった。普段は何の変哲もない朱色の鳥居に見えるが、今日は異なった。鳥居の表面に古い文字が浮かび上がり、薄紫の光を放っている。
「大丈夫?」
蓮太郎は朱音の手の震えを感じ取り、そっと声をかけた。朱音は普段のクールな表情を保っているが、彼女の不安は契約の絆を通じて蓮太郎の胸にも伝わってくる。
「ええ。行きましょう、蓮太郎さん」
朱音は小さく頷き、二人は鳥居をくぐった。
瞬間、世界が変わった。
足元に敷かれているのは、人間界の石畳ではなく、古い時代の木材を組み合わせた床板だった。空気は重く、どこか神聖な香りが漂っている。周囲を見回すと、そこは巨大な屋内空間だった。天井は遥か高くにあり、太い梁が複雑に組み合わされている。壁には古い絵巻物や書が掛けられ、薄暗い中で幽玄な雰囲気を醸し出していた。
「これが、鬼族の領域…」
蓮太郎は息を呑んだ。人間界とは明らかに異質な空間だった。空気そのものが重く、歴史の重みと権威を感じさせる。まるで千年前の貴族の屋敷に迷い込んだような錯覚を覚える。
「お二人とも、こちらへ」
声をかけたのは、玄武だった。彼は一週間前と同じ質素な着物を着ているが、この空間にいると、彼の威厳がより際立って見えた。
玄武に案内されて歩く廊下は長く、歩くたびに床板が軋む音が静寂を破る。途中、朱音の小さな角が微かに光るのを蓮太郎は見逃さなかった。彼女の緊張が高まっているのがわかる。
「朱音」
蓮太郎は彼女の名前を呼び、手を強く握った。朱音は振り返り、その紅い瞳に一瞬安堵の色が浮かんだ。
「ありがとう、蓮太郎さん」
やがて、巨大な扉の前に到着した。扉には複雑な彫刻が施され、鬼族の歴史を物語る場面が描かれている。玄武が扉に手をかけると、重厚な音を立てて扉が開かれた。
中に入ると、蓮太郎は圧倒された。
そこは、まさに「審問の間」と呼ぶにふさわしい空間だった。円形の広間で、中央には被告人席らしき低い台があり、その周囲を囲むように高い席が設けられている。高い席には、すでに五人の人影が座っていた。
玄武を除く四人の長老たちは、それぞれが異なる威厳を放っている。中央に座る老人は白い髭を長く伸ばし、深い皺の刻まれた顔には厳しい表情が浮かんでいる。その隣の女性は中年の美しさを保っているが、その瞳は氷のように冷たい。残る二人の男性もまた、長い年月を生きてきた者特有の重厚な雰囲気を纏っていた。
「朱音。そして、橘蓮太郎」
中央の老人が口を開いた。その声は低く、広間全体に響き渡る。
「我らは鬼族の長老会である。玄武から聞いているであろうが、汝の願いについて審問を行う」
朱音は中央の台に歩み寄り、蓮太郎もその隣に立った。五人の長老たちの視線が、二人に集中する。
「まず、改めて汝の願いを述べよ」
中央の老人の言葉に、朱音は深く息を吸った。
「私は、人間として生きることを望みます。鬼族の掟に従い、鬼族の領域で生きるのではなく、人間界で、人間として、蓮太郎さんと共に生きることを」
朱音の声は静かだったが、意志の強さがこもっていた。しかし、長老たちの表情は険しいままだった。
「愚かな」
氷のような瞳の女性長老が口を開いた。
「汝の母、紅蓮の轍を踏もうというのか」
その言葉に、朱音の体が僅かに震えた。蓮太郎は朱音の感情の波動を感じ取り、彼女の肩にそっと手を置いた。
「紅蓮の話をしよう」
中央の老人が重い口調で続けた。
「紅蓮は、我らの中でも特に強い力を持つ鬼だった。美しく、誇り高く、鬼族の模範となる存在だった。しかし、人間に心を奪われた。最初は、単なる好奇心だった。人間という弱い存在が、どのような生き方をするのかを知りたがった」
朱音は拳を握り締めた。これまで聞いたことのない、母の詳細な過去が語られようとしている。
「だが、好奇心は愛情に変わった。紅蓮は、その人間の男性のために、鬼族の秘密を教えた。人間が鬼と戦うための知識を与えた。そして、ついには鬼族の聖地への案内までした」
「それは…」
朱音の声が震えた。
「結果として、その人間は鬼族の宝物を盗み、姿を消した。紅蓮は騙されたのだ。愛していた人間に、完全に裏切られたのだ」
蓮太郎は朱音の激しい感情の動揺を感じ取った。悲しみ、怒り、そして絶望が混ざり合った複雑な感情が、彼女の心を支配している。
「紅蓮は、その後どうなったのですか」
蓮太郎が代わりに質問した。
「追放された」
別の男性長老が答えた。
「鬼族の掟を破り、鬼族に害をなした者として、永久に鬼族の領域から追放された。そして、一人で人間界を彷徨い、やがて汝を産んだ。だが、人間への愛と裏切りの記憶に苦しみ続け、汝がまだ幼い頃に、心の病に侵されて命を落とした」
朱音の顔から血の気が引いた。
「母は、人間への愛ゆえに、すべてを失ったのだ。家族を、故郷を、そして最後には命までも」
中央の老人の言葉が、朱音の心に突き刺さった。
「それでも汝は、同じ道を歩もうというのか」
蓮太郎は朱音の感情の激流を感じ取った。母への愛情、その悲劇的な運命への悲しみ、そして自分の選択への不安が渦巻いている。
「朱音…」
蓮太郎が彼女の名前を呼んだ時、朱音の紅い瞳から涙が溢れた。
「私は…私は…」
朱音の声が詰まった。母の真実があまりにも重く、彼女の心を圧迫している。
「蓮太郎さんは、違います」
朱音は涙を拭い、顔を上げた。
「母を裏切った男性とは、蓮太郎さんは全く違います。蓮太郎さんは、私を守ってくれました。私のために、家族からも反対されることを覚悟してくれました。私のために、鬼族の審問にまで立ち会ってくれています」
「その人間も、最初は紅蓮に優しかった」
氷のような瞳の女性長老が冷たく言った。
「人間は、利用価値がある間は優しい仮面を被る。だが、目的を達成すれば、その仮面を捨てるのだ」
その言葉に、蓮太郎の中で何かが沸騰した。
「僕は、朱音を利用なんかしていません」
蓮太郎が立ち上がった。その声は、広間全体に響いた。
「確かに、最初は契約でした。僕は除霊師の能力を得るために、朱音は人間界での永住権を得るために、お互いの利益のための契約でした。でも、今は違います」
長老たちの視線が、蓮太郎に集中した。
「僕は朱音を愛しています。彼女の優しさを、彼女の一生懸命さを、彼女の人間への憧れを、そして彼女の鬼族としての誇りも含めて、すべてを愛しています。朱音のために、僕は自分の命を賭けることもできます」
「きれいごとを」
別の男性長老が嘲笑うように言った。
「人間の愛など、一時の感情に過ぎない。時が経てば冷め、やがて憎しみに変わる。紅蓮を愛した男もそうだった」
「違います」
蓮太郎の声に、揺るぎない確信がこもった。
「僕と朱音の間には、契約以上の絆があります。僕たちは、お互いの感情を共有することができます。朱音の喜びは僕の喜びであり、朱音の悲しみは僕の悲しみです。そして、朱音も僕の気持ちを感じ取ることができます」
長老たちの表情に、僅かな動揺が浮かんだ。
「そんなことは…」
「不可能ではありません」
玄武が口を開いた。
「実際に、この一年間で、二人の間に特別な絆が形成されたのを私も確認しています。それは、単なる契約関係を超えた、深い心の繋がりです」
中央の老人が深いため息をついた。
「それでも、紅蓮の悲劇を繰り返すことは許されない。朱音、汝はまだ若い。人間の愛の脆さを知らない」
「私は知っています」
朱音が立ち上がった。涙は止まっていたが、その瞳には強い決意が宿っていた。
「母の苦しみを、私は一番近くで見てきました。母が人間への愛と裏切りの記憶に苦しんでいたことも知っています。でも、私は蓮太郎さんを信じています」
「根拠もなく信じることを、愚かというのだ」
氷のような瞳の女性長老が言った。
「根拠はあります」
朱音の声が、広間に響いた。
「蓮太郎さんは、幼い頃の私を助けてくれた人です。まだ小さくて、鬼だということも知らずに、迷子になって泣いていた私を、家まで送ってくれました。その時の優しさは、今も変わりません」
長老たちの間に、再び動揺が走った。
「それに」
朱音は蓮太郎の手を取った。
「私たちの絆は、言葉だけではありません。今、この瞬間も、私は蓮太郎さんの気持ちを感じることができます。彼の私への愛情が、真実であることを」
蓮太郎は朱音の手を強く握り返した。確かに、彼らの間には特別な絆があった。お互いの感情を共有し、支え合うことができる絆が。
「そうだとしても」
中央の老人が重い口調で続けた。
「鬼族の掟を曲げることはできない。汝が人間として生きることを望むならば、それに相応しい試練を乗り越えなければならない」
「試練?」
蓮太郎が問い返した。
「そうだ。汝ら二人の愛が真実であり、朱音が人間界と鬼族の架け橋となる資質を持つかを確かめる試練だ」
別の男性長老が説明を続けた。
「三つの試練を用意する。第一の試練は『分離の試練』。一か月間、二人は離れ離れになり、お互いの存在なしに生きることができるかを試す。第二の試練は『選択の試練』。朱音は、人間界での生活か、鬼族としての強大な力かを選ばなければならない場面に直面する。第三の試練は『犠牲の試練』。蓮太郎は、朱音のために、自分の大切なものを失う覚悟があるかを問われる」
蓮太郎と朱音は、互いを見つめ合った。厳しい試練が待っているのは明らかだった。
「これらの試練を乗り越えることができれば、我らは汝の選択を認めよう」
中央の老人が最後に言った。
「だが、一つでも失敗すれば、朱音は鬼族の領域に戻り、二度と人間界に足を踏み入れることは許されない。そして、二人の契約は完全に解除される」
重い沈黙が広間を支配した。
「どうする、朱音」
蓮太郎が彼女の名前を呼んだ。
朱音は迷わず答えた。
「やります。どんな試練でも、蓮太郎さんと一緒なら乗り越えられます」
「私も同じです」
蓮太郎が頷いた。
「朱音と一緒なら、どんな困難も乗り越えてみせます」
長老たちは互いを見つめ合い、やがて中央の老人が頷いた。
「よろしい。一週間後、第一の試練『分離の試練』を開始する。それまでに、心の準備を整えよ」
審問が終わり、蓮太郎と朱音は鬼族の領域から人間界へと戻った。夕日が妖怪街を照らし、二人の影を長く伸ばしている。
「朱音、大丈夫?」
蓮太郎が心配そうに声をかけた。
「ええ。母の真実を知るのは辛かったけれど、それでも私の気持ちは変わりません」
朱音は蓮太郎の手を握り締めた。
「三つの試練、乗り越えられるでしょうか」
「きっと大丈夫です」
蓮太郎は微笑んだ。
「僕たちには、真実の愛があります。そして、お互いを信じる心があります。それがあれば、どんな試練も乗り越えられます」
二人は並んで歩きながら、橘家への道を辿った。厳しい試練が待っているのは確実だったが、それでも二人の心には希望があった。真実の愛と信頼があれば、どんな困難も乗り越えられるという確信があった。
夕日が沈み、妖怪街に提灯の明かりが灯り始めた。二人の前には、新たな試練という名の困難が待っているが、それは同時に、二人の愛を証明する機会でもあった。
手を繋いで歩く二人の足音が、静かな石畳に響いていた。
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