第21話
「おやすみなさい」
ドレスを脱いで夜着に着替えベッドに横たわった私に、ファルス様のおやすみの挨拶と、当たり前のように額にキスが落とされた。
せっかく冷めかけた体に再び熱が投入され、隠すように布団を頭から被った。
「おやすみ…なさい、ませ」
もぐりこんだ布団の中から、蚊の鳴くような声で返す。
それでもファルス様の耳には届いたようで、布団が軽くポフポフと叩かれる。
侍女も退出し、一人となった部屋で、ようやく冷静な頭が戻ってくる。
「……苦情、言うはずじゃなかったの…?」
自分で発した、自分に問う言葉は、無音の空間に吸い込まれていく。
今朝はそう思っていたのに。
せっかく二人きりになったのに。
あっさりとファルス様のペースに呑み込まれ、何も言うことができなかった。
二日連続の行為。
それを、もう受け入れてしまっている自分がいる。
本気で拒絶しようと思えば、手段はある。
『雷装』や『羽衣』で触れなくさせればいい。
言葉だけでもいい。…私に本気の拒絶の意思があれば。
しかし、それをやらない。やることすら思い浮かばない。
彼に触れられることに、嫌悪が無い自分。
それどころか受け入れているのはどういうことか。
……もう、心は決まっている。
「………好き……なの…」
好きだから、抱きしめられても本気で嫌がらない。
好きだから、キスをされることに甘い疼き…悦びを感じている。
好きだから、彼を受け入れる自分がいる。
彼が『化け物』呼ばわりされたとき、感じた痛みと不快感は……好きな人を侮辱された悲しみと怒り。
あの時にはもう、私は彼を…ファルス様を好きになっていた。
認めてしまえば、それまで目を逸らしていた想いがようやく心に満ちる。
温かいもので満たされていく
…しかし、理性の声はそれに反対する。
この『好き』のままでいれば、それはつまりファルス様の伴侶となるということ。
それは私が逃げ続けた世界に舞い戻り、『危険』に身を置くことになる。
その恐怖を、理性は煽る。
『彼を慕う他の令嬢に背中から刺された』
そんな三文芝居のようなありきたりな展開が、こんなにも恐怖に感じる。
野生の獣にも、魔獣にも立ち向かえるのに、背後から来るか弱い令嬢に脅かされる。
今の私は一体何なのか?
そんな私がファルス様を好きになっていいのか?
そもそも、彼は本当に私を好きなのか?それもわからないのに、その気持ちを認めていいのか?
後で真実を明らかにされ、そこに私への想いが無かった時…
『都合のいい、ただ利用され弄ばれただけの元令嬢』
背筋が凍る思いに、心に満ちた想いが、温かったはずのそれが急速に冷えていく。
怖くて怖くて堪らず。
決まったはずの想いが、楔となって打ち付けられる。
単純なはずの、『好き』という感情が、どうしようもないほどに深く心に刺さっている。
あれほど逃げたかったはずなのに、好きという名の楔が離れさせようとしない。
無理に抜こうものなら、それがどれほど深い傷を残すのか、私には想像もつかない。
…今なら分かるかもしれない。
恋に破れた人が、どうしてあれほどまでに狂うのか。
恋に狂うのは前世でも、今の世界でも変わらない。
もし…前世の自分が、一度でも恋をし、そしてその恋に破れていたなら、今の自分はこうはならなかったのか?
前世の自分は、どうしようもなく臆病だった。
好きになった女性がいても、言葉一つかけられず、自分を好きになるわけがないと言い訳をして逃げていた。…その逃げ続けた結果が、今の私だ。
もう前世は終わったのだ。前世がどうであったとしても、もう変わらない。
だから、これはもう自分でなんとかするしかない。
『狂うくらいなら逃げろ』
理性が慟哭している。
悲しみを恐れ、狂うのを恐れ、だから逃げろと、叫び続けている。
あの優しく抱き寄せられる温もりを、身も心も支配される悦びを捨ててでも。
「嫌……」
それは心の叫びだった。
心は理性の提案を拒絶する。
心は渇望している。温もりを、悦びを。
でも、そこに狂うかもしれないリスクは含まれない。
…心は考えない。だから、リスクなんて知らない。
そうなるのが当たり前で、温もりも、悦びも当然のように与えられるものだと。
信じてすらいない。当然だと。
理性と心の鬩ぎ合いは終わりが見えない。
その鬩ぎ合いに、休んでいるはずの『私』はどんどん疲弊していく。
疲れているのに目が冴え、もぐりこんだ布団の中の闇が、まるで出口のないただの空間をひたすら歩いているように感じさせる。
闇が怖い。
そう思えば、自然と布団を跳ねのけていた。
室内はわずかな明かりが灯るのみ。
それでも、そのわずかな明かりが安らぎをもたらす。
ふと目に入った時計。それは、ファルス様や侍女がいなくなってから小一時間ほど経過していることを示していた。
無明の闇の中での理性と心の鬩ぎ合い。
その時間は長かったのか、短かったのか。そもそももう終わったのか。
それにすら疲れ、手は扉を開けようとしていた。
その手にはっとする。
(今、私は何を…?)
扉を開けてどうしようとした?
疲れた頭は答えをくれない。
それなのに体は動いた。
ここでようやく理性が働いた。
ここは自国ではない。それなのに夜に出歩き、侍女もつけず、ましてや夜着で。
恥知らずどころではない。
けれど、理性も疲弊し、その働きは不十分だった。
『隠密』を発動させ、私は部屋を出た。
誰かに見られなければいい。
それが理性の下した判断だった。
部屋から出た私は、そのままふらふらと歩く。
ぼんやりとした頭は明確な答えが出ず、『どこ』に向かっているのかもわからない。
そうして、どれほど歩いたか。
かすかに話声が聞こえる扉の前に辿り着いた。
この部屋は何の部屋だったか。
案内された際に紹介された気がするが、思い出せない。
しかし、聞こえた話声の持ち主が何の部屋かを思い出させてくれた。
同時に、手がドアをノックしていた。
「誰だ」
聞こえた声は……アーサー王だった。
そのまま、私はドアの前で固まった。
無音が過ぎ、そしてドアがゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは…ファルス様。
「…誰もいないようだな」
そう言ったのはアーサー王。
しかし、ファルス様の目はしっかりと私を視ていた。
その眼は驚愕で見開かれていた。そんなファルス様の眼をぼんやりと見返す。
「…失礼。アーサー王、続きは明日でもよろしいでしょうか?」
「構わんが……一体どうした?」
訝しがるアーサー王に、ファルス様は少し困ったような笑顔で言った。
「すみません、少し眠くなってきたので」
「……そうか。わかった」
そういい、アーサー王は席を立ち、部屋から出ようとした。
ファルス様は、ドアの前で立ち尽くす私をさりげなくアーサー王にぶつからないように、ドアを大きく開け、その際に私の腰に手を添えてさりげなく移動させた。
ドアを出て、廊下に出たアーサー王。
その顔がファルス様を……いや、『私』を向く。
アーサー王にはファルス様のような能力は無い。
それなのに、その顔は正確に私に向いていた。
気づいたのだろう。そこに何かがいる、と。
「おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
夜の挨拶を済ませ、アーサー王は去っていった。
ファルス様も部屋に戻っていく。…私を連れて。
「…もういいですよ、セーラ様」
扉を閉めたファルス様がそう言う。
『隠密』を解除した私。
「………」
「………」
無言の時が流れる。
(私は…どうしてここに来てしまったのだろう…?)
答えは返ってこない。どこからも。
こんな夜に、夜着のままで、自らファルス様の部屋に赴いて。
答えは出ず、発する言葉も見いだせず。
しかし、そんな状態は不意に抱きしめられた感触で打ち切られた。
「…私は、ここにいます」
そんな言葉が耳に届く。
その言葉が欲しかったの?
…違う。
顔を上げ、突き出した唇がファルス様のそれに重なる。
再び驚くファルス様だが、すぐに目を閉じ、受け入れてくれる。
そして、ぬるりと私の唇をかき分け、侵入してこようとするそれに気づいたとき…
「っ!」
顔を離し、口づけを終わらせた。
驚くファルス様の顔をそれ以上見ていられず、俯く。
そうじゃない。
そういうことがしたいんじゃない。
口にしたくても、何を口にすればいいかが分からない。
どんな言葉を使えば、この気持ちが表現できるのかが分からない。
もし表現できたとして、それに対する回答を聞くのが怖い…
なんて身勝手。
伝えたくて伝えられないもどかしさに、そんな自分の都合で振り回す我儘さに、不安と恐怖の入り混じった感情が、徐々に瞳から零れ落ちる。
「ふっ…うう……」
「…セーラ」
少しだけ、強く抱きしめてくれる。
それが、まるで私に篭った何かを絞りだすように、堰を切ったように一気にあふれ出した。
「う…あ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!あああああぁぁぁ!!」
涙だけでは止められず、ここがどこなのか考えもせず、大声で泣いてしまう。
溢れるものがなんなのか、わからない。
ただ今は…今だけはその溢れるものを抑えつけず、ただ心のままに吐き出したかった。
「ぐすっ…うっ…あああぁぁぁぁ!」
「………」
口づけを自らしたのにそれ以上を拒否し、唐突に泣き出した私を、それでもファルス様はただ抱きしめてくれた。
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