小百合の逃走

平沢ヌル@低速中

小百合の逃走

 時は昭和の終わり、今は棄てられ、顧みられなくなった集落での出来事である。


 小百合が我に返ったのは、そして、ことの重大さに気が付いたのは、その赤い血の色を見たときのことだった。

 まるでそのセーラー服のスカーフのように重い赤の色、それでいて毎月目にする血の色とは違っていた。


 それは反抗だった、そう言う他は小百合にはない。

 集落でも、そして、山を隔てた村内の中学でも一番の美少女。月のない夜空のような黒髪、湧水の流れ落ちる淵の暗い色を宿した瞳、それでいてその白い肌には染み一つなく、日陰に咲く白百合を思わせる。鄙には稀な、と教養のある人なら言ったかもしれない。


 教養、そうだ。教養、図書館の本。それから、この村では見られないような、都会の風物を写した少女雑誌。それから、少女たちの噂話。恋と秘め事、そしてひそやかな張り合い。夢のような逢瀬、そんな物語の主人公になれること。ああ、恋は普通の男と普通の女をこそ、最も情熱的な物語の主人公にしてしまう。


 小百合が恋をしていたのか、正直なところは分からない。ただ、主人公になりたかった。誰もが口を揃えて言う、こんな綺麗な女の子は見たことがないと。だから小百合にはその権利があるはずだ。黒崎先輩、一学年上の男子生徒の中で一番背が高く、成績も一番、それでいて控えめで紳士的な、村でも一番の男を我がものにするという権利が。だけど、黒崎先輩は高校生になって、街の高校に通うようになった。街には垢抜けた都会の女の子たちがいて、黒崎先輩だって心惹かれてしまうかもしれない。どんな女に親しみ、どんな女を見たのか。それをつぶさにできないことが小百合の心を焦らせた。


 夏休み、黒崎先輩はずっと図書館にいた。だから、機会はいくらでもあった。一年前の小百合はまだ子供で、そんな大胆さは身につけていなかっただろう。

 と言っても黒崎先輩は紳士だから、小百合の意図を理解させるのは最初は難しかった。だから、策略を使う必要があった。それは口で表現することは難しく、瞳の奥の光によってのみ語ることができるものだ。その目に宿る暗い淵の色のみが、それを可能にさせたのだ。


 行為そのものは、良かったかどうかは小百合には、おそらく誰にも分からない。そこに至るまでの、目も眩むような感情の盛り上がりと、ひとに知られてはならないことをしているという、背筋がぞくぞくするような背徳感。それがほとんど全てで、それ以外の何かがあったのかどうか、今の小百合には分からない。薄暗い自宅の洗面所で、血のついたスカートを水で洗い流している小百合には。


 この家にいると、家の外でそう振る舞っている自分と、現実の自分が違うことを、否が応でも小百合は感じさせられる。

 くろぐろと聳え立つ太い柱、障子越しの外の光、室内に漂う真新しい畳の匂いと、うっすらとした黴の匂い。


「小百合、あんたは姉さのようになったらいけんよ」

 そう告げる母――の口の、もごもごとした口の動き。

 姉、そう、小百合には姉がいる。だが、いないと言ってもいい。

「姉さは家のしきたりさ守らねで、街のあばずれさなって、終いにはすっかり気さ狂っちまった」

 つまり、座敷牢に閉じ込められた幽霊のような女、普段は居ないものとして扱われている、追放された家族の一員だ。

 この集落の人びとの訛りは、山一つ隔てた集落とは違っていて、近隣のどこの集落とも似ていない。なんでも、東の方から流れてきた武士の一団が定着したその末裔で、そして小百合の家はその棟梁に当たるというらしい。周囲に対しては閉鎖的なこの集落にあって、小百合の家は現代――昭和の終わりには似つかわしくない古色蒼然とした風習を守っていた。

 細かい歴史のことはどうでもいい、小百合はとにかく、それが嫌だった。父母と呼ぶにはあまりに年老いた当主夫妻と、二人の下す無慈悲な決断。姉はその犠牲者と言っていい。名前は知らない、呼ぶことを許されていないからだ。それなのに母は、小百合に対しては彼女を姉さと呼ぶ。


 小百合は姉の顔を思い出そうとしてみる、座敷牢の奥で目ばかり光って、ものを言うことすらも忘れた、実年齢より老けて見える痩せこけた女ではなく、その前に見たはずの姉の顔を。

 確かに聞いたはずだ、その声を。なんと言っていただろうか。


『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……』

 それを打ち据え、叱責する母――老婆の叫び声。

『小百合には口さ利くな、そう言ったはずだろう! それを、あろうことか……』

 記憶の中の姉――は、なおも謝っている。その言葉には集落に特有の訛りがない。もしかしたら本当の標準語ではないのかもしれない、だが小百合には、その区別はつかない。

 あろうことか、何を言ったのだろう?

 姉――は、小百合に呼ばせたのだ。

 名前を? 名前じゃない。


『ママ』――そうだ。

 姉――は自分を、ママと言った。


『お願いよ小百合、ママのようにはならないで』


 そうだ、そういうことだったのだ。

 姉――本当は母である彼女も、この集落が、家が、それらに縛り付けてくる風習が嫌だった。だから反抗したのだ。その時一番魅力的に思えた選択肢、余所者である恋人の男という形で。

 それは彼女にとって、最悪の結果となった。折檻され、座敷牢に閉じ込められ、生まれた娘も取り上げられた。

 そして、その娘が、同じように――余所者の恋人の男という選択を選んでしまった、反抗と逃避の手段として。


 小百合は気がつく、ここが牢獄であり、また小百合にとっての罠であることを。このまま、ここにいてはならない。さもなければ小百合は、姉――ママ、のようになってしまう。


 制服についた血などはどうとでも言い訳できる。問題はもっと他にあって――妊娠の可能性を調べなければならない。村の医者は駄目だ、噂が瞬く間に広まってしまう。黒崎先輩の高校のある街の医者でも駄目だろう、父母――鬼のような祖父母の地獄耳に入らないとは思えない。そうなったら、先輩だって無事かは分からない。


 どこか、とても遠く――この村の誰も聞いたことがなく、誰もこの村のことを聞いたことがないところまで行かなければならない。そうして、二度と戻ってはならないのだ。

 そうだ。最終列車に飛び乗って、小百合は集落から、村から、地域から永遠に消えなければならない。


 時は昭和の終わり、今は棄てられ、顧みられなくなった集落での出来事である。

(了)

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