Case:4
「救急車が到着した時には、すでに………その、頭から、でしたので」
東京医科大学病院、救急救命センター。
廊下のベンチに座る私に、紅祢の措置………いや、検死を担当したらしい医師が、そう告げる。
パトカーでここまで送ってきた警官が再度、お悔やみ申し上げますなどと伝えてくるが、それ以降の言葉はほとんど頭に入ってこなかった。医師と警官の会話も、私への質問も、聞こえてはいるのに、まるで知らない言語で話しかけられているような気がして。
ようやく理解できた言葉は、明らかな呆れと怒りを含んだものだった。
「あんたが切刀さんの同居人?」
わずかに顔を上げて、男を見る。初対面の人間だ。
「まったく、いい迷惑だよ。ウチを事故物件にしてくれちゃって。通報、現場保全、警察と救急が来るまでの立ち入り規制、証拠の撮影、それに特殊清掃の依頼。本当に、とんでもないことしてくれたね」
ああ、あのアパートの管理人か。そう気付くのにすら、十数秒を要した。その間も管理人は、苛立っているのか後頭部を強く掻きながら、私に言葉を投げつける。
「遺族に連絡しようと思ったら、他の入居者から同居人がいたらしいとか聞かされて、でもその相手の連絡先は分からないときた。まさか未成年だったとはね。ウチは一人向けの物件で、同居人とかそういうのはダメだって、手続きの時に伝えたはずなんだけどな」
紅祢が死んだことよりも、事後処理の手間や出費を気にしているらしい。胸ぐらを掴んで殴り倒して、そのまま殺してしまおうか。平時ならばそんなことを考えただろうが、今はそんな気力すら失せていた。
「落ち着いてください。混乱する気持ちは分かりますけど、人が亡くなってるんですよ」
「だからいい迷惑だって言ってるですよ。何があったか知りませんけどね、どうせ死ぬなら他のとこで死んでくれなきゃあ」
どうせ死ぬなら────あの三文字は、どうせ死ぬならと送ったものだったのだろうか。それとも、最期に伝えずにはいられないくらいには、私のことを想ってくれていたのだろうか。確かめる術は、もう無い。
「切刀さんの親も感じ悪いし、まったく、近頃の若いモンは、もっとこう常識ってものをだね………」
若い方の警官が管理人を宥めて、中年の警官が医師と話をする。当事者であるはずの私は蚊帳の外。紅祢が死んだことよりも、とある女の飛び降り自殺の処理をしようとしている四人に、ようやく腹が立った。
いや、それは、或いは自分に対して向けた感情だったのかもしれない。
もし、もう少し踏み込めていたら。
もし、あと一歩だけでも近付けていたら。
もし、もっと早くに話を聞けていたら。
────幽霊って多分いるんだよ。見たことはないけど。死んだ誰かが、生きてる誰かの記憶の中に留まって、思い出を食べて、延命されていく
それをきっと、人は呪いと呼ぶのだろう。紅祢は最期に、私に呪いをかけて、私に取り憑いた。彼女はこれからも私の頭の中で、私の記憶を食んで延命されていくのだ。
しかしそれは、結局思い出でしかない。ただの記憶で、何時かは風化して、パンに塗ったバターのように引き延ばされて薄くなる。一生に近く感じた五か月弱も、数年経てば、紅祢が食べる記憶の欠片に成り下がるのだろう。冬の朝のようなあの表情も、数年後の夏の日差しに焼かれて、まるで数十年前の写真でも眺めているみたいな、
ずっと一緒にいたかった。
だから夜から離れることを選んだ。
結果、
私一人だけが、朝日か西日かも分からない中途半端な光の中で、ただ背後を振り返って、立っている。擦れ違う人達に、彼女は誰だろうと首を傾げられながら。
私は────私は、昔のまま、夜にいるべきだったのだろうか。そうすれば、紅祢と一緒に、誘蛾灯を追いかけながら腐って逝けたのだろうか。
後日また話を聞きに来るからと、パトカーでアパートまで送られることになった。病院から笹塚に帰るまでの間、警官二人が交互に私を慰めたり、励ましたりしていたと思うが、やはりまったく頭に入ってこない。
夜の街がこんなにつまらない景色に見えたのは、ずいぶんと久しぶりだ。半年ぶりくらい、だろうか。七夕の夜以降では、始めてになる。
何故、どうして、私は、紅祢は………文章にならない単語たちばかりが、脳内を巡る。現実感が無い。遺体の確認は一応したが、部屋の扉を開ければそこに紅祢がいるような、そんな感覚がある。朝まで一緒にいて、話していたのだ。こんな風にあっさりと、彼女が死ぬはずはない────なんて。
パトカーが停まる。アパートの前に着いたらしい。気をしっかりとか、変なことを考えないでとか、警官がそんなことを言っているが、どうでもいい。早く帰らないと。シャワーを浴びて、夕食を作って、ストゼロを呷る彼女に苦笑して、それから────
「────────────………………ぁ」
六階建ての、アパートの前。植え込み。誕生日の夜に、この場所で、一緒にブレスレットを着けた。今はそこに、カラーコーンが置かれていて、ロープが張られている。
「あ、あの、すみません、立ち入りは………」
若い方の警官が、後ろから注意の言葉を飛ばしてくる。しかし、うるせぇよ、の一言すら出てこない。言葉と音が、脳を経由せずに、消える。
「松添、いいから」
「で、でも、先輩」
「いいから、黙れ」
もう掃除がされていて、血痕すらない。飛び降り後の特殊清掃は大抵の場合、二時間もあれば完了するのだという。たった二時間。たった二時間程度で、紅祢の痕跡は消されたのだ。
アスファルトが近い。膝から崩れ落ちたようだ。笹塚駅に入る電車の音も、向こうの通りを走る車の音も、耳に水の膜が張られているかのように、遠い。視界が歪んでいる。ぼやけている。滲んでいる。
誰かの嗚咽が、微かに聞こえた。それは次第に大きくなって、他の全ての音を掻き消していって、それでようやく、紅祢が死んだのだと脳が理解し、実感した。
七夕の夜に出会ったあの女は。
切刀 紅祢は、死んだのだ。
二〇二四年。
十一月二十九日。
東京、笹塚。
十七歳。
秋の終わり。
私は、一人に戻った。
塹壕に堕ちた天使の羽
/終
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