Case:3

「お前さ。あっちのガキのこと、好きなんだろ?」

 零が現という女と口論になって、先斗町公園に移動して、何故か現と二人になった時。断定するような問いに頷いて、それから、続く言葉に納得してしまった。

「上手くいかねぇよ。分かってんだろ、根本的にズレてんだよ。私らみたいなのと、あいつは違う」

 最近になって、一つ分かったことがある。最後の一割程度で確信は得られていないが、零もきっと、わたしに好意を抱いてくれているということだ。わたしとの生活を失わないようにと、普通というやつになろうと、或いは戻ろうとしている。

 それが、わたしと彼女との、決定的なズレで。

「初めて体売ったのが、十一の冬でさ。親父に言われるまま、知り合いだって男に買われた。そっからは………いや、違うか。そもそも産まれた家が悪かったんだな。家を出たところで、結局このザマだ」

 話し始める現。同情は無かった。ただ、やっぱりこの人もか、と思っただけだ。

「楽しみなんて、ホストくらいしかなくてさ。貢いだモンだよ。貢いで、借金作って、返すために体売って、その金で夜の男を儲けさせんだ。アホくせぇ人生だよ」

 いや、今まで零が引き寄せた女の中では、一番おかしい人間かもしれない。普通になりたがっている阿比留以上だ。意外なのは、ホストに嵌るような性格には見えない、というところか。いや、箇条書きだが、送ってきた人生を考えれば、別に不思議はないのかもしれない。

「そんなことしてたら、私と一緒になりたいなんてバカが出てきた。普通の会社員の、冴えねぇヤツ。全部知った上で、結婚しようなんてほざくんだ。金で私を買っただけの男がさ」

 フィクションのような話だが、わたし達の周りでは、別段珍しくもない。現実は時に、小説よりも奇妙で、象徴的で、運命的な事が起きるものだと、もう知っている。

「私にンな価値はねぇのに。あいつの言ってた通り、私はガキなんだろうな。だから言ってやったんだ。"私と心中できるなら結婚してやるよ"って。そいつ、どうしたと思う?」

 零を見て、鼻を鳴らして、その会社員とやらがどうしたか、とわたしに問う現。どう、と言われても困るのだが。

 どうしたんですか、と訊ねるわたしを見て、現は苦笑しながら答える。

「次の週に、大量に練炭買って来やがった。イカれてるよ。なにがイカれてるって、私と心中したいってトコだよな。他にもっといるだろうによ」

 付き合いが浅いどころか、つい先程始めて会った女だ。彼女のどこに魅力を感じて心中を決意したのかなど、想像もできない。しかし、共に死にたい程に好いている、という部分は理解できて、ほんの少しだけだが、共感もできてしまった。

 だからさ、と現が話の締めに入る。きっと、ここから先が、わたしに言っておきたかったことなのだろう。何故だかそう感じた。

「年明けたら、私は死ぬんだ。そいつと」

 死にたいという想いを、感情を、消すことはできない。一時的に薄れさせて、忘れたふりをするのが限界だ。

 この人も、わたしと同じ。ずっと、死にたいと思って生きてきたのだろう。その会社員をどう思っているのかは分からないが、最期を共にしても良い、という程度には、心を許しているらしい。

「不幸だとか悲劇だとか思うなよ。ってか逆だ。が終わるなら、これもハッピーエンドだろ」

「………それ、メリバっていうんですよ」

「え、なに?め、めりぱ?」

「メリーバッドエンド。本人達にとってはハッピーエンドかもしれないけど、周りから見ればバッドエンドのこと」

「へぇ。よく分かんねぇけど、本人が満足してんなら、やっぱハッピーエンドじゃねぇかな」

 それをメリーバッドエンドだ、と説明したつもりなのだが、理解してもらえなかったようだ。

「生きるのが辛いって、多分向いてねぇってことなんだろうな、生きんの。向いてねぇならもう、そうするしかねぇよ」

 こっからは辛くなるだけだぞ、と、零が近付いてくる姿を見て、現は忠告のような言葉で締める。言われるまでもない。二か月前から、理解していたことだ。




 京都から戻って、酒と煙草を捨てた。もう、酔う必要が無くなったから。

 わたしは零に、好意を抱いている。

 零もおそらくは、わたしに好意を抱いてくれている。

 それでも。

 わたしがしたいのは現実逃避で。

 どうしても"死にたい"が消せなくて。

 今日に至るまでの毎日は、それを忘れるためのものでしかなかった。

 分かっていたのだ。死ねば全てから解放されて自由になれる。その日が訪れる瞬間を、ずっと、心のどこかで待ちわびていた。そしてきっと、今夜がそうなのだ。

 だって、ねぇ────見てよ、零。

 今夜はきっと、月が綺麗だよ。

「キス………くらい、しとくんだったかな」

 ラインを起動して、零の名前をタップする。入力欄にたった一言だけ打ち込み送信してから、ブレスレットを外して、写真立てを手に取って、それらとスマホをテーブルの上に置き、そのまま部屋を出て、屋上へと向かう。

 結局、バーベキューはできなかったな、と、フェンスを乗り越えて縁に立つ。夜空には星は見えず、月もまだ出ていない。ただひたすらに、黒だけが頭上に覆い被さっている。アストライオスも、夜勤の灯りには無力らしい。それでも空気が澄んでいるのは、遥か彼方の上空の、地球と宇宙の境界線で、アイテールが熱冷ましがてらに息を吹きかけているからなのだろうか。

 零はまだバイトの最中で、スマホの画面を覗く暇なんてないだろう。だから多分、ロッカーの中で、画面が数秒光って、通知のバナーを表示しただけ。

 それでも、知っていてほしいから。伝えずにはいられなかったから。

 それが彼女の人生に重く圧し掛かり、生涯消えない呪いになることなど分かり切っていても。

 わたしという霊が彼女の記憶に住み憑いて、思い出を食べることになっても。

 それで彼女が苦しんでも。

 それでも。

「────────………ねぇ、零。わたしね、君のことが────」




  …---…




 『大好き』




  …---…




「………なんだ、これ」

 バイトが終わって、店を出て、今から帰ると電話をしようとスマホの電源スイッチを押すと、紅祢からのメッセージが表示された。入力されているのはたった一言、たった三文字。ただ端的に、無機質なまでに短く、愛を告白されただけ。

 返信しようか、いや、帰って直接「私も」と伝えるべきか。そんな、甘酸っぱくも見える悩みなど、生まれなかった。紅祢は、こういう言葉をメッセージで済ませる性格ではない。

 なら、これはいったい、なんだ。

 胸騒ぎがした。

 嫌な予感がした。

 絶対に違うと思いたかった。

 手首を切る頻度が増えて、様子も時折おかしいように見えて、京都から帰ってきたら、酒と煙草を捨てて、もう酔わなくていいからと答えた。彼女の精神が不安定になっていることなど、とっくに知っていた。初めて出会ったあの夜から、彼女がずっと死を想って生きてきたことなど、とうに分かっていた。冬の朝を彷彿とさせる彼女の表情を見れば、私でなくとも気付くだろう。

 だから、今週末にでもゆっくり話そうと、話したいと、そう思っていて。

 電車の中で、人目も憚らずかぶりを振る。何を考えているのだ、私は。これではまるで、紅祢に何かあったと………いや、紅祢がしたと、確信しているようではないか。

 そんなはずはない。

 そんなはずはない。

 そんなはずはないのだ。

 絶対に、有り得ない。あってはならない。

 笹塚駅のホームに降りて、構内から出る。何時もの道。何時もの帰り道。何も変わったところはない。普段通りだ。

 普段通り、のはずだった。

 アパートの前。植え込みの辺りにカラーコーンが置かれていて、ロープが張られている。何人か、明らかにアパートの住人ではない人間がいて、そこを眺めていたり、スマホのカメラを向けたりしていて、「なにがあったん?」とか、「飛び降りだってさ」とか、そんなことを話している。

 それを尻目に、階段へと向かう。足が重い。紅祢との家に帰りたくないと、初めて思った。

 六階に着いて鍵を取り出す。しかし、その動作は、すぐに止まることになった。

 警官が二人、玄関扉の前に立っている。その二人が私の姿に気が付いて、近付く私を待つような姿勢をとった。

「あの、ウチになにか用ですか」

 違う。

「切刀 紅祢さんの、同居人の方ですか?」

 違う。

「そう、ですけど。なんですか」

 違う。

「最近の切刀さんに、何か違和感や変化はありましたか」

 絶対に違う。絶対に、そういう話じゃない。そういう話であってはならない。あっていいはずがない。

「すみません、疲れてるんで」

 警官の体を押し退けて、鍵穴に鍵を入れて回して、玄関扉を開いて、靴を脱ぐ。人の気配がない。玄関に彼女の靴が無い。紅祢はきっと、まだバイト中なのだ。そうに決まっている。

「電話………帰り、何時か聞かないと」

 夕食を作って待っていてやらないと。そうだ、この前確か、ハンバーグが食べたい、とか言っていた気がする。材料はあるし、今夜はそれにしようか。

 スマホを取り出してラインを起動して、通話をかける。コール音がする。同時に部屋のテーブルの上から、着信音が鳴った。

 バイブレーションが響いて、紅祢のスマホがずずずとテーブルの上を動いて、床に落ちる。スマホが置かれていたそのすぐ横には、誕生日に買って贈った私とお揃いのブレスレットと、いづみに撮ってもらった写真が、無言で横になっていた。

「大変申し訳ないのですが、少々お話を聞かせていただけないかと………」

 警官二人が、部屋に入ってくる。

 思考が纏まらない。

 呼吸ができない。

 動悸が収まらない。

 言葉が上手く、出てこない。

 だって、これは、この状況は、どう考えても。

「ぁ………の。紅祢、は」

 違うと言ってくれ。

 買い物かなにかで出かけたら事故に遭って、少し怪我をしただけで、数日入院すれば大丈夫だと、そう言ってくれ。

 だって、そうでないと、このたった三文字は、まるで………遺言、のように、なってしまうではないか。

 数秒の沈黙ののち、警官の一人が、目を閉じて軽く頭を下げて、言った。

「────────………お悔み申し上げます」

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