宛名に千年王国を
Case:1
厚い雲がかかっている
雨が降っている。
参列者は十人程度だが、全員屑だ。紅祢の両親と祖父母、数人の親戚達。そのほとんどがこそこそと話している。千葉県柏市の、小さな小さな葬儀場の前で。
「ほら、あの子。紅祢ちゃんと一緒に住んでたんですって」
「まだ高校生くらいでしょ?葬式に私服なんて」
「それが、高校辞めて東京に行ったって。それで紅祢ちゃんと知り合ったんですって」
「ロクな人間じゃないわね。だって見てよあの目、気持ち悪いわ」
「それに、警察の人が言ってたらしいんだけど」
「なによ?」
「バイト先の友達?だかが、紅祢ちゃんとあの子は付き合ってたとか、付き合うことになったとか………好きがどうの、とかだったかしら」
「女同士でねぇ。やっぱり高校辞めるような人間だもの、頭もおかしいわよ、そりゃ」
「真面じゃないわ。どうせ親もロクなもんじゃないでしょ」
「あの子の父親、酒浸りの無職ですって」
「やっぱりねぇ。蛙の子は蛙よ、あの子もお酒とタバコやってるって」
「犯罪者に誑かされたのね。紅祢ちゃんも可哀そうに」
「人を見る目がなかったのよ。だって、知ってる?紅祢ちゃん、フリーターなんてやってたんですって」
「早稲田に受かったって話だったじゃない」
「受かったのは本当だけど、入学蹴っちゃったんですって。理解できないわよねぇ。今時高卒でフリーターなんて、落ちこぼれもいいとこじゃない」
「底辺二人で傷を舐め合ってたのかしら」
「それがね、紅祢ちゃんが飛び降りたのは、あの子のDVに耐えかねて………って噂よ」
「最低じゃない。常識を疑うわ」
「警察もなにしてるのかしらね。あんな犯罪者、早く捕まえるべきよ」
ひそひそ、こそこそ、ぶつぶつと、ババァはいつでもどこでも五月蠅いらしい。常識がないのは自分達の方だと、何故気付けないのだろう。お前達の方が、よっぽど犯罪者めいているというのに。
スマホを取り出す。ラインを起動する。紅祢からの最期のメッセージに、『私も』とだけ返す。ポケットの中で、紅祢のスマホが震える。画面には私からのメッセージが表示されている。たった二文字が。しかし、それが既読になることは、もう二度とない。彼女が設定しているパスワードなど知らないし、知っていても、意味などない。
「………んでだよぉ」
情けは人の為ならず。良い行いをすれば、良い事として返ってくる。そのはずではなかったのか。普通になろうとした結果、返ってきたのが、これか。
────でも多分、やっぱり、ないと思うな
こういう意味だったのだ。徐々に青白くなっていくように見えた紅祢の表情と言葉は、私に助けを求めていたのだ。何年か後などないと。きっとあの時にはもう、紅祢はこうすることを決めていた。いや、或いはもっと前、深夜の公園で出会った頃か、東京に来た春の日には、すでに。
扉一枚、数メートル。結局あれが、
紅祢の両親は、紅祢に興味が無い。この葬儀だって、世間体を気にしただけなのだろう。葬儀場は『家族葬ホールひまわり』というらしいが、ふざけているのか、それとも皮肉っているつもりなのか。家族に関心が無い人間と、その環境が形成される原因になったともいえる親戚達が、家族葬を行うとは。
私は葬儀に呼ばれていない。つまり参列者ではない。ただ勝手に来ただけだ。しかし、この場にいる十人くらいの屑よりは、紅祢のことを知っている。
いや、知らなかった、のかもしれない。知っていれば、踏み込めていれば、紅祢はまだ、私の隣にいてくれただろうか。
十人くらいの屑。私も結局、そのうちの一人なのかもしれない。
バイト先で邪険に扱われていたらしい、と知ったのだって、警察が話していたからだ。彼女の最期のその後まで、何も知らないままだった。知らないままに私がいるから大丈夫と言ったところで、根拠の無い、暴力めいた励ましにしかならないというのに。
違和感はあった。それでもそれを放置した。気のせいだと思いたかったからだ。そして紅祢は、月すらまだかかっていない夜空から、蹴り飛ばされた小石のように、アスファルトに堕ちたのだ。
犯罪者。成程確かに、見殺しにしたも同然の私は、殺人犯なのかもしれない。
泣いたところで、後悔したところで、それにもう意味は無い。意味はもう、生まれない。
二〇二四年。
十二月三日。
午後三時三十分。
紅祢の残骸は、焼かれて骨だけになった。
彼女の遺骨は、市内の市民納骨堂に入れられるという。
紅祢の両親からも、親戚達からも、恨みの視線はなかった。ただ、尾鰭がついた私の噂話だけが、連中の興味の対象になっていた。
宛名に千年王国を
着信音で目が覚める。初めに視界に入ったのは、床に転がった大量の酒の空き缶だ。
十二月十日、火曜日。
紅祢の葬儀から、ちょうど一週間が経過した。
寝転んだまま、スマホを取る。画面には覚えのある番号が表示されていた。時刻は午前七時十一分。
『零?母さんだけど』
「………番号、覚えてたの?」
『警察から電話がきて、その時に聞いたの。事情も、少しだけ。………大変だったわね』
あれから二度程警官が来て、最近の紅祢の様子を訊かれた。話すような気力も無かったので「わからない」とだけ答えたが、ある意味ではその答えは正しかったのかもしれない。私は紅祢のことを、何も分かっていなかったのだから。
『こっちに戻す、って警察の人は言ってたけど、あんたはどうするの?』
「戻らない。そういう約束だったし」
『でも、警察からしたら、そんな約束関係ないわよ』
「一回戻るフリして、またどっか出てけばいいでしょ」
補導暦、逮捕歴があり、一度鑑別所にも入っている。最終的には不処分となったものの、やはりというべきか、警察は私を実家に戻したいらしい。
『でも、大事な友達だったんでしょ?あんたには思うところは沢山あるけど、そんな状況の娘を放っておく程、腐っちゃいないわよ』
「友達………」
そう、友達だ。友達のままだった。残ったのは、言っておけば良かったな、という後悔だけ。
紅祢の両親は、管理人に損害賠償を請求されたらしい。飛び降りの場合、その金額は大抵最低保証程度のものになるというので、然程でもないのだろう。
管理人は、私に退去を命じた。手続きや荷物整理などの期限は十五日。もうあと一週間もない。といっても元々家具などほとんどなかったので、しなければならないことといえば衣類の処分くらい。それももう終わっている。
「そっちはどうなの?」
『調停を進めてるわ。あんたの親権は、多分こっちになると思う』
「………そっか」
私が壊してしまった、両親の関係。東京でのことは父には話したのだろうが、あの程度では修復されなかったようだ。
「とにかく、手続きとかあるし、すぐには戻らない。今度連絡する」
『そう』
戻る、べきなのだろうか。少なくとも警察的、社会的には、そうするべきだと判断されている。ただ、それはもう、今の私にはどうでもいいことだ。
私が普通になろうとしたのは、紅祢がいたから。紅祢がいて、紅祢といたから、この前までの生活を壊したくなくて、普通を目指した。それを失った今となっては、もう、普通というやつに価値などない。
『ねぇ、零』
「なに?」
『ちゃんと食べてる?外には出てる?本当に辛くなったら、母さんに言いなさいね』
縁を切ったはずの、家族を壊した十七の小娘相手に気を利かせるというのは、どのような感覚で、どのような心境なのだろう。なんにせよ、今更母の手を煩わせる程、厚顔無恥ではない。
適当に相槌を打って礼のような言葉を付け加えて、通話を終える。
「外………」
母に言われた言葉で、この一週間の生活を思い返す。紅祢の葬儀が終わってから、夜中にコンビニに酒を買いに行く以外では、外出していない。衣類の整理もブックオフの出張買取で済ませた。食事も二日に一回カップ麺一つを食べるくらいだし、バイトも休んでいる。一日の大半を酔い潰れて過ごしている今の状態は、まさしく抜け殻と呼ぶに相応しいだろう。
愛してその人を得ることは最上で、失うことはその次に良いことらしい。愛は人生に没我を与えるが故に、人間を苦しみから救うのだと言う。サッカレーの言もトルストイのそれも、今の私からすれば糞食らえだ。いかに哲学的な言葉と思考で飾ろうと、安酒で喪に服す苦痛を和らげる手段など、無い。
生きる気力も、普通になる理由も喪った。それでも生きていくならば金は必要で、働かなくてはならない。
スマホを取り出し店長に通話をかけようとして、やはりやめる。今更普通に成ろうとしたところで、いったい何の意味があるというのだ。
鏡で自分の顔を見る。酷い表情だ。目の下には隈がこびり付いていて、瞼は半端に下がり、瞳は生気を宿していない。こんな状態でバイトに行ったとしても、「休め」と言われて終わりだろう。
部屋に閉じ籠って、一週間。忘れたがっているように感じてしまうので気分転換などしたくはないが、そろそろ一度、昼の街を歩いてみるべきなのかもしれない。
適当な服装で、髪型を整えることもメイクもせずに、外に出た。冬の朝は嫌味なくらいに青白く澄んでいて、冷たい空気が肺を刺してくる。屋上に出てフェンス越しに街を眺めると、視界が滲んだ。半日後か或いは半日前くらいのここからの景色に、紅祢は融けて消えたのだ。
私ももう、いっそのこと………と考えつつ屋上を後にして、階段を下りていって、代々木大山公園へと向かう。あの時紅祢は、人助けだと思ってまた脅迫されてほしい、と言った。きっとその言葉に裏は無くて、本当に助けてほしかったのだろう。
笹塚駅のホームに向かい、八時発の電車に乗る。私の顔があまりに血色が悪かった所為か、通勤通学時間で混んでいるはずの電車内で、私の周囲にだけ、微妙な空間ができていた。
新宿駅に着いたのが、それから五分後。東口から出て、いつかに紅祢と阿比留の三人で自転車轢き逃げ現場を眺めた場所を尻目に、新宿御苑へと向かう。二人して終電を逃して、一晩を明かした場所に。
日が落ちるまでの間に、この五か月弱で紅祢と行った都内の全てを回った。初めて出会った井の頭公園も、阿比留を見つけた歌舞伎町も、音葉の路上ライブを見た池袋駅東口も、その後三人で酒を飲んだ南池袋公園も、私と紅祢と阿比留と音葉で歩いた六号線も、四人で花火を見たあのビルも、縁を切るために母を呼んで三人で行った笹塚出張所も、いづみと出会った上野動物園も、いづみと再会した根津神社と旧安田楠雄邸庭園と須藤公園も、紅祢の誕生日にブレスレットを買いに行ったアガットも、ケーキを予約したキル・フェ・ボンも。
最後の目的地は、東京に来て最初に、一人で降りた場所である、東京駅だ。天蓋は
時刻は五時三十一分。駅前広場はそれなりに人がいて、中には暇を持て余した学生が自撮りをしていたり、定時退社ができたのであろう、居酒屋に向かうらしきサラリーマンの集団がいたりして、その全員を、ライトアップされた東京駅が見下ろしている。独りでいる私もきっと、その中に含まれているのだろう。
夜が、つまらない。
街の灯りも、くすんで見える。
生きる気力を失ったなら、生きる理由を喪ったなら、これからの私は、抜け殻のままで生きていかなくてはならないのだろうか。それとも私も、
今の私が、生きている理由。
まだ私が、死んでいない理由。
彼女が、死んだ理由。
分からない。脳味噌に霧吹きをかけたみたいに、思考が散漫になっている。
現実的になろうとした私。
現実逃避がしたかった紅祢。
決定的な擦れ違い。
私と紅祢の時間が重なることは、もう二度と無い。
それはきっと私に原因があって、だからこそ私には、受け入れられないのだ。
それなら、いっそのこと、もう────
「────────あれ、零だ」
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