第2話. イエティ皇宮


「ああ。」


奇妙な匂いがする。

洗面所の水で目を洗ったが、景色は変わらなかった。

相変わらず醜い毛むくじゃらがじっとこちらを見つめている。

突然、衝動が湧き上がった。あの目をえぐり取りたいという邪悪な衝動が。被害を受けたわけでもないのに、なぜか不快になる顔つきだった。


「ご主人様?大丈夫ですか?」


いや、違う。被害はあった。

あの毛むくじゃらは見た目に似合わぬ服装をしていた。

フリルだらけのメイド服──つまりメイドイエティだ。しかも声がきつく、女性らしいようだった。


ちなみに彼女がイエティだと聞かされた。彼女で合ってるのかよく分からないが、とにかくそうらしい。視覚的なショックと奇妙な呼び方が相まって、悪い衝動が沸くのも当然だった。


「うぐっ。どうして俺がご主人様なんだ?」


冷たい水を飲み干してから言った。

むしろ罵りたくなる気分だ。もちろん、そうなったら本気で相手にするつもりだ。ちなみに俺はテコンドー四段で、本気を出せば学生時代の悪夢を乗り越えられる実力を持っている男だ。


「え?ご主人様がご主人様じゃないなら、じゃあ何なんですか?」


問いに問いで返す毛むくじゃら。

彼女の名前はアリスという。名前が可愛くて余計腹が立つ。とにかくアリスは皇帝の命令で俺の世話をする従者だそうだ。つまりご主人様は当然のことらしい……いや、どう考えてもおかしい。なぜなら──


「じゃあ、ここにいる住民はみんなお前みたいなイエティなのか?」


「はい!ここはイエティの国ですから。私たちはイエティ皇国に生まれたことを誇りに思っています!」


「ああ。」


持っていたコップを落とした。

よく見るとコップにもイエティの紋章が刻まれていた。突然、ある記憶が頭をよぎった。


寝る前に読んでいた小説。起きて直面した衝撃的な光景に忘れていたが、すごい設定だった。手が震える。つまり俺は──俺は……。


「ご、ご主人様?大丈夫ですか?」


「触るな!それに出ていけ!」


「……は、はい……」


ドンッ、ドンッ。

足音が響く中、俺は目を瞑った。

終わった。本当に。


「くそ……」


まもなく恐ろしいことが起こるのだ。


アリスは追い出されたはずなのに、すぐに戻ってきた。

少し落ち着いていた俺は、再び彼女の顔を見て嫌な気分になったが──仕方ない。


今、俺がいる場所──『貴賓室』は、すべて皇帝の好意によって用意された部屋らしい。

つまり、皇帝の命令には絶対服従というわけだ。


ごくり。

唾を飲み込む。危機はすでに目前まで迫っていた。


「……うわぁ……」


部屋を出た俺は、あまりに現実離れした光景に思わず声を漏らした。


白、青、赤。

色とりどりの毛むくじゃらたちが目を輝かせていた。

もちろん、その視線の先にいるのは俺だ。なぜかって? 俺だけが“毛むくじゃらじゃない”からだ。


胸を撫で下ろす。

もし俺があの見た目で憑依していたら、舌を噛んで即リタイアしてたかもしれない。


そう、俺は憑依したのだ。

陰謀と策略、そして狂気が渦巻く雪山の国──イエティ皇国に。

ちんちくりんなドワーフの姿で。しかも皇帝の“貴賓”として。


「……」


彼らは、まるでパンツのようにぴったりしたホットパンツを履いていた。

……うん、それだけである。だからこそ、匂いが余計に強烈に感じられるのかもしれない。


そして、彼らの俺に向ける視線は決して優しくなかった。

当然だろう。

彼らにとって、俺は“ライバル”だ。皇帝の寵愛を奪いかねない、新たなライバルが現れたのだから。


「カルマ様……」


横から名前を呼ぶ声がした。

カルマ──それが俺の名前だ。ネーミングセンスがダサいとは思うが、仕方ない。主人公の名前なのだから。


右を見ると、別のイエティがいた。

彼の名前はルクス。アリスと共に俺を案内している同行者の一人だ。


「なんだ?」


「い、いえ……何でも……」


呼んでおいて「何でもない」とか。どういうことだよ。

まあ、気持ちは分からないでもない。

彼の毛は白い。

白いイエティは、このカラフルな異形たちの中でも最下位ランクの存在だ。例えるなら“平民”。

ちなみに青いイエティは魔法使い、赤いイエティは貴族だ。


「なあ。」


「は、はい?」


「ここに“敵隊長”はいないんだよな?」


「はい。その方々は今、お忙しいとのことです。」


「そうか。ありがとう。」


そのまま城内を歩きながら、俺は思考に沈んだ。

──敵隊長。

この宮殿で警戒すべき存在、それが奴らだ。

赤いイエティの中でも最高位の武官たちで、今の俺では到底敵わない実力者たちだった。


もちろん、最も注意すべき存在は皇帝だ。

その圧倒的な武力もそうだが──なにより、“特異な趣味”を持っているからだ。


「おや、いらっしゃいましたか。」


やがて正門前で、青いイエティが俺たちを出迎えた。


「大魔導師様に謁見いたします!」


ルクスとアリスがひざまずき、頭を垂れる。無理もない。

彼は青いイエティの中でも最上位。魔法使いの頂点に立つ存在だからだ。


「……」


俺は首をかしげて、追放の意思を示した。

周囲に動揺が走る。ルクスもアリスも、おろおろしながら俺を見つめていた。

だが、撤回はしない。イエティ皇国の大魔導師──ドゥナール。

こいつは卑劣なやつなのだ。


……というか、存在しないし。


「はい。下がります、カルマ様。」


無礼にも関わらず、彼は表情を変えなかった。

当然だ。

今の彼にとって、俺に媚びへつらうことが生き残る道なのだから。

彼の首輪は、すでに俺の手にあるようなものだ。


……まあ、その首輪を引っ張る気はないが。


――ボンッ!


まもなく、貴族たちの元に向かったドゥナールは、盛大に水を弾けさせ、廊下を水浸しにした。


「うわああっ!!」


ドン! ドン!

全身びしょ濡れになったイエティたちは、悲鳴を上げながら逃げていく。

──一種の八つ当たりだな。

どうせ全員、皇帝に“汚された”奴らばかり。ああやって洗ってやるのも、むしろ妥当かもしれない。


そう──今、俺が向かっているのは“禁断の領域”だ。

“女人禁制”の地。ケツを捧げなければ生き残れない、そんな場所だった。


「到着しましたわ。」


“禁断の領域”の目前に到着したアリスは、足早にその場を離れた。

皇帝に見つからないようにするためだ。

皇帝自身もこの場所の必要性は認めているが、視界に入れば常識外れの処罰を下されるという。


緊張で喉が鳴る。俺はもう一度唾を飲み込み、扉を開いた。


「……すげぇ……」


思わずまた、感嘆の声を漏らしてしまった。


雪山の宮殿。

聖フェンサリル城は、まるでコーンのように山の頂上にそびえ立っていた。

雪山の雪が太陽の光を反射して宝石のようにきらめき、その下にはいくつもの山脈がまるでこの頂を支えるように連なっていた。

それぞれにも当然、城はあるのだろうが──まだ解放されていないらしい。

当然か。

あそこにいるのは地方の山脈貴族たちで、皇室との仲は非常に険悪らしいからな。


ドン……ドン……!


そんな絶景の下には、無数の赤いイエティたちが整列していた。

彼らは観客であり、舞台の主役は──俺の隣にいた。


毛をすぼめたルクス。

今日の主役は、こいつだ。


「それでは──儀式を執り行う!」


俺たちも列に加わったその時、壇上に現れた皇帝が、厳かに宣言した。


彼の姿は、他の雪男たちとは一線を画していた。

全身は漆黒の毛に覆われ、身長は約3メートル。

その顔立ちは、同族の中でも次元が違うほどの醜さを誇っていた──。



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