鏡
『人が随分減ってきたから、インフラを維持するためにも残った人を都市部に集めましょう』
そういう政策が実施されたのは、俺がまだ高架橋下に捨てられたエロ本と散らばったティッシュの意味をまるで知らないガキのころだった。少子高齢化が進み人口減少がどうにもならなくなった末の苦肉の策だったらしい。
それ以降、人は大体二種類に別れた。都市部で豊かで安全で平穏に暮らす奴と、そこからはみ出す奴。後者は色々な事情はあれど大半は後ろめたいことを抱えていたり社会に馴染めなかった人間なので、残された町に住む人間ってのは大抵ロクでもない。例えば自動車の部品泥棒で生計をたてていたような俺も当てはまる。
かつての社会の残骸と化した土地はいつしか外側と呼ばれるようになった。都市の外側、法と秩序の外側、そして理解の外側。
ごく偶に、何を血迷ったのか普通の感性や倫理観を持つ人間が都市から外側にやって来たりするが、社会の形を失い治安も悪化した土地で生きていくのは難しいらしく、しばらくすれば姿が見えなくなることがほとんどだった。
外側でまともな人間に出会ったらそいつは都市住まい。そういう思考がすっかり出来上がっていた俺は、逆算して
乗っている車は外側に住む人間の物にしては立派だし、なにより観静はわかりやすいぐらい余所見運転をしながら景色を眺める。観静の視線が道路から五秒以上逸れる度、前を向くか車を止めろと苦言を呈するのが癖になった。
今だってそうだった。茂みから飛び出してきた猪の親子が横切るのを待っている間、俺は暇を潰したくて口を開いた。
「ただの風景がそんなに珍しいのかよ」
「建物の残骸はあるのに人がいない。そういう景色を見るのは初めてなんだ」
「……年齢は?」
「二十三。都市生まれの都市育ちで外側にくるのは初めてでさ。そういえば
「二十七」
「見た目通りだな」
最後尾を歩いていたウリ坊が茂みに飛び込むと観静はアクセルを踏んだ。風鈴屋があった山間部から離れ、今は建物が比較的ある廃墟群にきている。観静曰く探し物があるらしい。
車を止めてくるのは、光の消えた信号機なんかではなく獣達だった。
「なんで外側に来たんだ。右目に奇妙なもんを見せるためって言ってたがそうなった経緯だってまるでわからん」
俺の質問に、観静が軽く笑った。
「触陽は変わってるよな。前に俺の右目が元に戻るのかどうか聞いてきたけど、普通その前にそっち聞いてくるだろ。それか右腕の心配かだな」
「生きてく要領が悪いんだよ。だからこんな目にあってる」
「そうか。それじゃ大体俺も似たようなもんだよ。生きてく要領が悪いから右目を取られて外側に来る羽目になった」
「取られた右目が何になるってんだよ」
観静はどう説明すべきか悩んでいるようだった。小瓶に眼球を入れて持ち運ぶ理由がやはりあるらしい。なんとなくでやってる奇行ではないようで心底安心した。
「触陽は都市に行ったことは?」
「近くまでなら、盗品を金に換えるのに行ってるが……」
「近くって言っても中と外じゃ大分違う。都市の中は徹底的に安全で平穏なんだ。あそこに異常な現象や人は存在しない。良いことなはずなのに、それが退屈に感じる人間もいる。そして退屈紛れに刺激的な映像を求めたところで、所詮それは作り物でしかない」
俺は観静の言葉に眉を顰めた。先が読めたからだ。
「要は欲しがる人間がいるんだよ。退屈なぐらい平和な場所では起こりえない、作り物じゃない刺激的な映像を。その需要に応えて金を得ようとした団体が思いついたのが、俺が今やってること。本来であれば観るに適さないような事象を、加工編集のしようがない眼球に収めさせる。それも見る人間の先入観が入り込まないように体から切り離して」
観静は疲弊が滲んだ小さなため息を吐いた。
「色んな映像を溜め込んだ眼球は
「眼球から映像を取り出せるわけ……」
ないだろと言いかけて、俺はそこで言葉を句切った。綺麗に途絶えた右腕が視界に入ったからだ。一度切り取った右腕をくっつける方法や、右目から取りだした眼球をみずみずしくしかも偶に動くような状態で保存する技術がある以上ありえない話ではない。
「危険な仕事投げられるわしかも右目取られるわで嫌になるよ。せめて見慣れない風景でも見ないとやってられない」
「俺も同じようなうえに周りは見飽きた景色なんだがどうすりゃいい」
「誰かと一緒に見れば変わって見えるかもしれないだろ?」
俺は観静の軽口に舌打ちだけを返した。観静はこの返しが気に入ったらしく笑っている。先のことなんて考えたくないから無理矢理笑っているようにも見えた。
景色の見え方が変わるかなんてのは知ったこっちゃないが、強がらないとやっていけない気持ちはよくわかる。冷房によって作られた快適な車内の気温が一時の慰めのようにも感じた。
ふと気になったのは、カバンの中に収まっている観静の目玉のことだ。景色で気を紛らわすことができる持ち主とは違い、あの小瓶中からロクでもないものを見ることしか出来ないらしい。なぜそれが気になったのかはわからない。自分の胸中を探せば答えは見つかるだろうと思ったが、早々に諦めた。
「目的地に到着しましたー」
観静は無いナビの変わりにそう言うとハンドルを切る。二台分しかない車駐めの前に律儀に駐車すると、狭い駐車場は大分窮屈になった。
目の前の建物に掛かっている看板は大半の文字が掠れていて読めないが、かろうじて理と室の文字だけが残っている。派手な菓子みたいな色合いのサインポールが、回ることを忘れ玄関を塞ぐようにして倒れていた。
捨てられた理容室の窓や玄関には思い出が踏み荒らされるのを拒むように板が寄りかかっていた。観静が入り口の板をいきなりどかそうとしたので止め、周囲や建物内に人の気配が残っていないかを慎重に探った。しゃがみ込むと前に垂れてくる髪が邪魔だった。
「やばい奴がいたら車がきた時点で逃げてくんじゃないか?」
「やばい奴に常識は通じない。バールだの金槌だのを持ちながら空き家に入ったのに、何も着てない仙人みたいな爺さんに蹴り倒されたこともある」
「その爺さんはどうしたの?」
俺は黙って探索を続けた。全裸の爺さんに驚いた拍子に持っていた物を手放してしまい、しかも蹴り倒されたときの頭の打ち所が悪くてしばらく蹴り続けられた話はしたくなかった。
観静は返事をしない俺の顔を覗き込んでくると色々と察したらしく、苦笑を浮かべ追求してくることはなかった。
物音や誰かが生活している痕跡はまるで無かったので、入り口の扉を押す。つっかえ棒のようなものはあったが、片手だけの力でも難なく開いた。
店の中には紅葉のような形をしたツタが侵入してきていて、窓ガラスやカウンターを覆っていた。鏡の前に置かれたリクライニングチェアや道具が置かれたワゴンにはまんべんなく埃が積もり、待合室に置かれた本棚では漫画雑誌の上をアリが歩いていた。
「床屋に探し物ってなんだよ」
「大した物じゃない。でも欲しいかと思ってさ」
「カツラか?」
俺はカウンターに置かれていたマネキンの頭部を指差した。生首と見間違えそうになる頭部には焦げ茶色の毛髪がふんわりと被さっている。
「髪の心配は別にしてないかな。それにダニとか嫌だし」
観静は薄く笑いながら自分の日に焼けたような髪を撫でた。
よく見れば観静のボディバックのチャックは開いていた。誰かに見られる心配がないからか、チャックは小瓶が落ちて来ない範囲で大きく開いており、例の目玉が窺える。
店内は薄暗く空気は湿っぽい。首筋に張り付いた髪を片手で払っていると、目玉の緑がかった虹彩が俺の方を向いていることに気がついた。妙に潤いのあるそれはあいさつでもするみたいに俺を数秒間見つめたあと、文字通り目を逸らし店内を隈なく観察していた。
「おっと、」
店の奥に進もうとして足を止めた。シャワーヘッドが備え付けられている洗面台のスペースに、無数の鏡が散らばっている。朱塗りの手鏡や割れて破片だけになったものが床に散らばり、壁にはそれこそ理容室にあるような鏡や姿見が掛けられている。
「なんで鏡がこんなに……」
俺の後ろで観静が呟く。店の一角で無数の鏡がお互いを映しあっている光景は異様だった。合わせ鏡になった鏡の内部には無数の世界が連なっている。どこまでも寂れて薄暗い店内が続いていき、果てが見えない。
今現在いるこの場所以外にも空間があるかのように脳が錯覚してしまい一瞬目眩がした。
「大丈夫か?」
観静が肩を支えようとしてきたが断った。目眩はすぐに収まった。
「ここの床屋だけの物じゃないんだろうな。なんでこんなに持ち込まれたんだ」
「きっと自分の家に置いておくのは嫌だったんたんじゃないか」
観静は鏡を見ながらそう呟く。同情しているかのような声色には悲哀が滲んでいた。随分と辛気臭い顔をしていて、どうにも胸がざわついた。
「嫌がられたんだろ。だから捨てられたんだ」
泣きそうな顔の観静がゆっくりと瞬いた。片方だけの目、左目からは涙こそ出てないものの充血しているように見える。
肩を小突こうとしたが、俺は動きを止めた。
「誰も見てくれないんじゃ意味がないよな。お前はどう思う?」
鏡が捨てられている一角を見て観静が聞いてくる。
俺は観静の言葉を無視し目を瞑った。数回声を掛けられ、声は次第に喚き声に、そして悲鳴に変わっていくが構わず目を瞑り続ける。やがて声はぱったり聞こえなくなり、目を開くとそこに観静はいない変わりにカビが付着した姿見が置かれていた。
「俺だってどこに行きたいのかよくわかんないだけどさ……」
困惑しているかのような観静の声に慌てて振り向く。観静はドレッサーの鏡に向かって手を伸ばしているところだった。
「でも急にどうしたんだよ、ふ」
観静が鏡に対して俺の名前を呼ぶ前に、体当たりした。不格好に床に倒れた観静は呻きながら起き上がろうとするが体を押さえつける。ボディバックから小瓶が転がったので見てみれば、瞼のない目玉は依然として鏡の方を向いていた。急いで掌で覆う。
観静は何度か腹を拳で殴ってきたが、痛みを堪え押さえつけた。後方から喚き声が聞こえてくる。その声を聞いて観静は何かを察したのか動きを止めた。
喚き声は悲鳴に変わっていき、そして予想通りぱったりと聞こえなくなった。
あの鏡は、見る人がいるから鏡像を作り出すのかもしれない。
目玉の入った小瓶を拾い上げ観静に押しつける。顔を蒼くし床に転がる観静を無理矢理立たせ、俺達は店内をあとにした。
「痛えんだよクソ……こっちはもう二十後半だぞ、手加減しろよ」
「ごめん、でも助かったよ」
車に乗り込んでから観静に殴られた腹を擦る。骨に響くほどではないが、青痣ぐらいにはなりそうだ。
観静は倒れたサインポールが見えなくなるまで車を走らせてから路肩に止めた。
「吐きそう?」
「そこまでは酷くない……おい、なんだそれ」
覗き込んできた観静の手首には茶色いヘアゴムが巻き付けられていた。手ぶらで戻ってきたと思っていたが、どこかのタイミングで持ち出していたらしい。
「髪が邪魔そうだなって思って」
「もしかして探し物ってそれか」
「そう。同行者兼案内人の福利厚生には気を使った方が良いだろ?」
「……さっき思いっきり殴られたけどな」
ため息を吐きつつ観静からヘアゴムをひったくる。左手でヘアゴムを持ちつつ髪を束ねようとしたが、指の隙間からこぼれ落ちていき早々に諦めた。
「あちゃ、流石に厳しそうか」
「片手じゃあな」
「どれ、貸してみろよ」
俺は迷ってから、ヘアゴムを観静に手渡した。髪が何回か強く引っ張られる。やめておけばよかったと後悔した。
「一応は出来た」
あまり期待しないでルームミラーを覗くと、血色と目つきの悪い自分の顔と、不格好ながらも一応はまとまっている髪が映った。鏡像が勝手に喋りだすことはない。
「初めてにしては良い方でしょ」
「すぐ取れそうなんだが」
「ご愛嬌ということで。それとさ、道案内を頼みたい」
「……どこまでだ」
俺は内心疲れていたが、ヘアゴムの分ぐらいは働いてやろうと思った。
観静は苦笑しながらアクセルを踏んだ。
「俺も触陽も臭い。大分臭い。ひとっ風呂浴びれるところまで」
クーラーの風量が強まるとあっという間に車内は汗臭くなった。ルームミラーは相変わらずありのままの光景を映し出いている。
汗臭いなら隣で運転している奴は間違いなく人間だろう。そのことに安堵しながら、俺は余所見運転を始めた観静の脇腹を小突いた。
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