風鈴

 首筋や背中に滲んだ汗が車の空調によって引いていく。吹き出し口が勢いよく吐き出す冷風を存分に浴びながら、俺は体を左に傾けドアにもたれかかった。


 俺の右手を奪った張本人はどことなく機嫌良さそうにハンドルを握っている。緑色がかった色素の薄い目は左しか使われてなく、朽ちた建物や看板を時折目で追いかけていた。


 俺も涼しい車内から眺める風景を無理矢理にでも楽しむことにする。そうしていればうっかり右腕を見なくてすむからだ。あるべきものをなくしてしまったそこを視界に入れてしまうと、気が滅入りそうになった。


 俺の手の切除を観静みしず本人がやったのか他の人間にやらせたのかはわからないが、そいつはよっぽど上手いことやったらしい。縫合跡が膿んでいるだとか熱を持って痛むだとかそういうのは今のところなく、額を掻こうとして指を動かす気で腕を上げると気持ち悪い違和感が腕全体に走るぐらいだった。


触陽ふよう、見ろよ」

 ハンドルを握っていた観静がやや興奮を滲ませた声で窓の外を指差している。後続車も対向車もまるっきりいないので、何に遠慮することもなく車は止まった。


「橋がひん曲がってる」

 俺は観静が指差している方を見た。運転席側の遠方に湖かと見間違うほどの川があるのだが、その上に掛っている橋のことを観静は言っているんだろう。本来なら対岸まだ伸びているものが橋というはずだが、その橋は中間地点の辺りから、熱で炙られ柔らかくされてから折られたかのように落橋していた。

 恐らく鉄板とアスファルトの残骸は川底に沈み藻や苔に覆われ、その上をアユやニジマスが素知らぬ顔で泳いでるんだろう。


 脳裏を過ぎった涼しげな風景は、観静が窓を開けたせいで車内に入ってきた熱気によってかき消された。


「老朽化で落ちたのか?」

「あれは違う。随分昔にあった地震でああなったらしい」

「揺れだけで? 凄いな」

 まっすぐと伸びているはずの橋が途中で消えているかのようにも見えるその光景は、なんとなく自分の腕の状態を想起させた。


「一応見せとくか」

 観静はボディバックを開け小瓶を取り出した。小瓶の中で揺蕩っている眼球は、橋の方に黒目を向けている。持ち主の左眼と比べ、随分とみずみずしい眼差しだった。





 車は再び走り出し中央線が消えかけている道路を進んでいく。小瓶はボディバックの中に仕舞われていた。

「その右目、いつか戻すのか」

 観静は残されている左目を一瞬だけこちらに向け、すぐ元に戻した。


「さあ? 俺もわからないんだよね」

「その言い草だと自主的にくり抜いたわけじゃないのか」

「そんなイカれたことするわけないだろ」

「まともな人間なら他人の右手取らねえよ」

「それもそうかもな」


 車は山間地域に伸びる道路を走っていく。目的地は観静が以前見かけたらしい“雰囲気のある外観の何かの店”だった。

 この辺りに住民はいないはずだ。都市部からも遙か遠く、それなのに立派な店があるというなら、覗いてみる価値はあるかもしれない。観静の右目に焼き付けさえなければならない“ありえないこと”があるかもしれないからだ。


 暇つぶし目的で、俺は何気なしに口を開いた。

「お前、目目連って知ってるか」

「何それ?」

「夜になると現われる妖怪だ。障子にみっちり目が生えてくるらしい。特に悪さはしないらしいんだが、今じゃ覗き見が目的なんじゃないかって思えてきた」

「もしかしなくて俺のせいだな」

 観静は少しも申し訳ないとは思ってなさそうに笑った。


 やがて道路際に一つの建物が見えてきた。藤色のお手製看板が立っていて、ご丁寧に駐車場が有ることが書かれている。観静はハンドルを切った。


 店の外観は絵本に描かれているような駄菓子家のようだった。古民家を再利用した建物なんだろうが、どこの柱も倒れてなく屋根に落ち葉が積もっているわけでもない。誰かが手入れしている証拠だ。

「頼んだよ、同行者」


 店の外にはアイスの冷蔵庫も画面の小さい筐体もない変わりに、風鈴がいくつもぶら下がっている。すだれがかかった軒下の向こう側で、人影が動くのがわかった。





「お客さんがくるのは随分久しぶりなもので、嬉しい限りですよ」

 老人が頬にえくぼを浮かべると、それに効果音を付けるかのように風鈴がか細い音を鳴らした。店内には風鈴が吊り下げられたり棚に置かれたりしていて、どうやら実益云々というよりも趣味として店を構えているようだ。


 ガラス玉は金魚が泳ぐものや線香花火の火花のような柄のもの、菊の花が描かれているものもあり、店内を音と色で彩っている。

「好きなだけ見てやってくださいね」

「ええ、楽しませて頂きます」


 観静は行儀良さそうな笑みを店主に返すと店内の風鈴と向き合い、ボディバックのチャックを開けた。

 外側からあの小瓶は見えないが、あの眼球はきっと幼子のような視線で店内を見ているんだろう。俺は水玉模様の風鈴が一瞬だけ眼球のように見え、目を逸らした。


 店の主人は、拍子抜けするほど普通の人物だった。白髪に覆われた頭部には白いタオルを巻き付けている。どこかの商会の名前が書かれたタオルは老人の汗を吸いひったりと湿っていた。

 店主は片腕の無い男と片目を瞑った男が店に入ってきても特別な反応は示さなかった。図太いのか、それともこんな辺鄙な場所に店を構えてるせいで妙な客に慣れているかのどちらかだろう。


「せっかく見事な物なのになぜこんなところで営業を? 客も入らないようでは気合いも入らないんじゃないですか?」

「ええ、確かに都市の方で店を開ければよかったんでしょうけどね、営業許可が下りなくて」


 俺は観静と店主のやり取りを聞き流しながら店内を歩き風鈴を眺めた。特に入り用はないのだが、案内人兼同行者である以上店の外で突っ立っているわけにもいかない。開けっぱなし入り口から風が吹き込む度、二人の声をかき消さんばかりの音が鳴った。


 観静はなかなかの聞き上手で、そのうえ表面上は愛想が良い。普段人と喋れていないであろう店主はすっかり気を良くしているようだった。

「確かにここじゃ見てくれる人はいないようなもんだし、泥棒も偶に入ってくるしで大変ではありますが、都市の方じゃ使えない窯がここじゃ使えるんで満足してるんですよ」

「窯?」

「ええ、自作のなんです」

「こだわりがあるんですね」


 ふと店の奥まで来たとき足が止まった。これまでの色鮮やかな風鈴と比べて毛色の違う物が現われる。

「……火?」

「それは特に気に入ってるものです」

 俺の独り言に店主が答える。どこか誇らしげな様子だ。


 軒先に吊されているような、透明なガラス玉に筆で色を付けた物と違い、この風鈴は全体が黒く透き通っている。

 黒曜石を思わせるガラス玉は窓から差し込んだ光を内部に取り込むと、無色透明な黒の内側に揺らめく緋色を作り出す。俺は暗闇の向こうで炎が燃えているのではないかと錯覚した。

 風が店の中に舞い込みじりじりと音が鳴ったが、涼しげな音とは思えず炎によって捻れた何かの音に聞こえた。ちっぽけな風鈴の異様な雰囲気が灼熱地獄を思わせ、得体のしれない恐怖を誘う。


 顎から首筋を伝った汗が、シャツに染みこんだ。

「触陽」

 観静の声で我に返る。隣を見ると観静もまた額から汗を垂れ流し、強がるような苦笑を浮かべていた。

 店主が立っているカウンターの奥には工房が見える。俺は店主に声を掛けた。


「工房って見れるのか」

「それはまた、どうして」

 観静が隣で僅かに身を硬くするのがわかった。この店に何かがあることは観静も気がついている。だから迷っているんだろう。危険なことに進んで首を突っ込みたいやつはそういない。


 観静の言葉をふいに思い出した。観静は自分のことを臆病で無知だと言っていた。なら、臆病であるがゆえに立ち止まってしまった背中を押してやるのが案内人の仕事なんだろう。


「あんまり出来が良いから作ってるところを見てみたくなったんだよ」

「ああ、いや、本当に嬉しいな。今日はもう火は落としてしまったんで作ってるところは見せられませんが、それでもよろしければ」

 店主が工房の方へと歩いて行く。観静は厳しくはない視線で俺を見てから短く息を吐くと、店主の後を追った。ボディバックのチャックは開いたままだった。





 工房で一番目を引いたのは巨大な窯だった。ガラス玉を熱するであろう炉の他に、二メートル弱ぐらいは奥行きのありそうなものが工房の中央に鎮座している。風鈴をどういう手順で作っているかを聞きながら、観静と俺はその存在感のある窯に気を取られていた。

 工房内は火が入っていた頃の熱が未だに残っていて絶えず汗が流れてくる。


「先程お話しした、手製の窯があれなんですよ」

 店主は俺達の様子に気がつき朗らかに笑った。

「あれは何に使っている窯なんですか?」

「風鈴の着色に使うガラスを作っています。先程お客さん達が見ていた風鈴のやつですよ。ほら」

 店主がずっしりと重みのある麻袋を持ってきて口を開いた。中では黒い風鈴よりも更に色の濃いガラスが艶やかに煌めいている。


「熱した風鈴本体に、このガラスを砕いた物をまぶして色を付けているんですよ」

「……そうなんですね」

 空返事をしながら観静は窯に近づいた。ぱっかりと開いた窯の入り口は巨大な生物の口のようだ。内部は当然ながら暗く、積もった灰と、ガラスを作った際に生じたのか黒い残骸が残っていた。

 残骸は、なんとなく複雑な形をしているようにも見えた。


「窯で作ったガラスはそこで取り出しています」

 俺は店主が指差す方を見た。胃が縮こまる感覚がして顔を顰めてしまったが、果たして店主には気がつかれてないだろうか。


 分厚い布が敷かれているそこには、黒焦げの球体、スイカよりも一回り小さいものとハンマーが置かれている。砕かれた球体の内部で、ガラスのごく小さな破片が光を反射していた。回収し損ねた物だろう。


 観静は神妙そうな顔で何も言わないまま俺より前に出て、窯と焦げた球体を交互に眺めた。

ボディバックのチャックは先程よりも開いている。目の前に被さった観静の頭部は、焦げて原型がわからない球体よりも丁度一回り分大きかった。


「ところでお二人はなぜこんな辺鄙なところに」

 観静は言葉を詰まらせている。店の風鈴の音がここまで届き、じりじりとガラスを擦る音が窯に吸い込まれていった。

「観光だよ。呑気なもんだろ? でもおかげで珍しいもんを見れた」

 店主は屈託無く顔を綻ばせた。

「嬉しいなあ……。私はね、どんな価値のないものでも艶のある美しい風鈴になれると、そう信じて作ってるんです」

「ああ、それは良い。手持ちがあれば何かしら買ってたんだがな、連れが最近無駄遣いしてしまって」

「構いませんよ。こうして見る目のあるお二方にお越し頂けただけで十分です」

「ああ、いえ……ありがとうございました」


 観静は青い顔のまま曖昧な笑みを浮かべている。閉じている右瞼が、怯えるように痙攣し震えていた。


 




 窓を開け忘れていた車内は熱した窯の内部のような熱さだった。エアコンが効き始め冷たい風が出てくるまで俺達は黙っていた。


「触陽が言っていた目目連って奴さ」

 観静の右瞼の痙攣が治まったのは店から大分離れてからだった。風鈴の感想は少しも言いたく無さそうだった。


「なんか逸話とか残ってんの?」

 観静が気分を逸らしたいと思っているのは空元気だとわかるような声色で伝わってくる。俺も気分が優れているわけではなく、冷風を浴びても熱さと、それとあの黒い風鈴の音が付きまとっているような感覚がした。

 俺は仕方がなく、あくびを交えながら出来る限り気の緩んだ怠け者の声を演じた。


「どこぞの商人が目目連に出くわしたんだが、わんさかと障子から生えてきた目玉を見た欲の強いそいつは目玉の何個かを取っちまって目医者に売りつけたらしい」

「ああ……。はは、やっぱ人間も馬鹿にできないな」

 観静は気分を変えることに失敗したらしい。疲れ切ったため息を吐き出してから、ハンドルを握り直している。俺は何もしていないものの、なんとなく申し訳なくなった。


 砕けたアスファルトの欠片を踏んだのか、車が少し揺れる。蜃気楼がアスファルトから伸び黒く歪み揺らめいていた。

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