観るに適さない事象
がらなが
まっさら
お前の人生は筒みたいだと酎ハイ片手に持っていたオヤジに言われたことがある。意味を聞いたら、もしくはまっさらだなと言われた。返答にはなってないが言わんとしていることはわかった。
そのオヤジはやがて酎ハイではなく消毒薬を持ち歩くようになり、数日後には姿が見えなくなった。
オヤジは一度だけ俺にこう言った。いつか必ずしっぺ返しがくるぞ、と。その時のオヤジは珍しく素面で、声がやけに真剣味を帯びていたから記憶に残っている。そうだろうな、と返しつつ俺は濡れたような黒い車体からナンバープレートとホイールを外した。酒を楽しみに生きる感性は持てなかったが、ブロックの上に乗りブレーキパッドが剥き出しになった車を目の前に狼狽える人を見ると少しだけ愉快だと思えた。
俺が車から盗む部品はその日の気分と状況によって変わった。ナンバープレートは大抵の場合必ず盗むが、サイドミラーは晴れの日にしか盗まない。牧場から逃げた家畜を見かけた月は何が何でも高級車のエンブレムを盗むようにした。
じゃあ今朝はというと、空っぽになった駐在所跡地で若い燕を見かけ、今日は何もしなくて良いと思った。
燕は嘴の先に足をばたつかせているアブを咥え、すぐに丸呑みにする。春先にこの駐在所跡地から巣立った雛なんじゃないかと思うと少しだけ呑気な気分になれた。
藍色のオフロード車を見つけたのは燕を見た三十分後だった。車体には所々泥がこびり付いていて洗い立てのように綺麗とは言えないが、傷は特に見当たらない。アブを食べていた燕の色とよく似ていた。
調べるとガソリンがきっちり入っていて、車が止まっているのは廃屋に備え付けられていたガレージだ。少し探せばすぐに携行缶は見つかった。
俺は持ち歩いている赤錆だらけの工具箱を持ち上げた。腹が減っていて偶には店のものでも食いたいと思ったから、俺は臓器みたいな色をした携行缶を掴み給油口を工具でこじ開けた。
後頭部に重たい衝撃を感じたのはその直後だ。視界が黒く染まるなか、ヘマをこいたことを悟った。意識を失う一瞬の間、アル中のオヤジの言葉が脳裏に蘇る。いつか必ずしっぺ返しがくるぞ、と。今日がそのいつかだったんだろうか。
どうせ死ぬのなら、昨日の晩にでもとびきり美味い物を食っておけばよかった。腹を満たしておきたっかったわけじゃない。ただ、満足しておけばよかったと思った。
「おはよう間抜けなガソリン泥棒。気分はどうだ?」
男が俺を見下ろしながらひらひらと手を振っている。男の背後にはクリーム色の天井が見え、ここが廃屋にあったガレージじゃないことだけがかろうじてわかった。それ以外は何もわからない。意識が未だに混濁していた。
工具箱を探すと傍のテーブルに置かれていた。
「あれ、まさか喋れないのか……? そうだとしたらマズいな。せっかく手間掛けたのに」
「……あの車の持ち主か」
「お、大丈夫そうだね。よかった」
男は眩しそうに片目だけを瞑ったままほっと息をついた。体に妙な違和感がある。関節は軋むし頭は締め付けられるように痛いし、体全体が酷いくらい重く感じる。ありえない臭いがした鯖の缶詰を一口食べて数日寝込んだ後の感覚とよく似ていた。
俺が寝かされているのはソファの上だった。安物の人工革は一部分が破け中から黄色いスポンジが飛び出している。
手を付き起き上がろうとして、俺は重大な事実に気がついた。右手がない。正しく言えば、目に優しくない柄をしたシャツの袖からは二の腕が覗き続いて肘もあるのだが、その先は途絶えている。途絶えた肘の先には縫合の跡があった。
「右腕は、」
「ごめんね、預かってる。俺の提案に乗ってくれたら返すよ」
「提案……? いや、まず無くなったもんをどう返すってんだよ」
「今はさ、一度腕を取って、それをまたくっつけてなんて簡単にできるんだよ」
男は未だに片目を閉じながら、指で鋏の形を作り裁縫ごっこでもするみたいに俺の腕の断面で指を動かした。鳥肌が立ち汗が噴き出す。首筋に髪が纏わり付いた。いつも適当に結んでいるはずの髪が解けているせいだ。
今すぐにでも男を殴りつけてここから逃げ出したかったが、足首を何かでソファの足に固定されていて叶いそうもない。
酷くイカれた状況の中で、俺の唯一と言って良いほどの長所が働いた。諦めが早いことだ。利き手は奪われ体の自由はほとんど無いに等しいこの状況で、目の前の男に逆らって逃げ出す手立ても気力もなかった。
「提案の内容は」
男は片方だけ目を少し見開いた。目の下には今までのふざけた態度には似合わない濃いクマが染みついていた。
「びっくりするぐらい話が早くて助かるよガソリン泥棒。俺はね、呑気に車に乗ってきて放棄された町の観光にきたわけじゃない。ありえないことを目に焼き付けてこいって言われてるんだ」
「……ありえないことなら今起こってんだろ」
「それは」
「人の腕を勝手に盗る奴がいるってこと以外でだよ」
俺は強がるように無理矢理笑いながら男の頭上を指差した。
男は恐らく俺を気絶させ腕を奪った後、どこかの空き家に連れて来たんだろう。辺りにはかつて家人の日常の一部であったであろう家具が埃を被り放置されている。
男の頭上の本棚に、燕が止まっていた。燕は嘴の先に黒い糸束を咥えている。よく見てみればその糸の根元、燕の嘴の中で、薄茶色の乾ききった石鹸のようなものが細かく蠢いていた。生き物の最後の抵抗に見える蠢くそれを、燕は呑んだ。嘴の先から黒い糸だと思っていた髪の毛がはみ出している。髪の毛はまっさらに色が抜け落ち、やがて灰が崩れるように朽ちていった。
黒く小さな鳥の、豆粒みたいな目が俺達をつぶさに見つめている。男と俺は少しも動けず鳥の視線を受け止めることしかできなかった。やがて鳥は鳥らしい鳴き声を一つだけ残して埃を散らしながら本棚から飛び立つと、割れた窓から外に出て行った。
「腹いっぱいになってたみたいで助かったな」
俺は浅く呼吸を吐いてからそう言ったが、男からの返事は無かった。鳥が居た場所を目を片方瞑ったまま「本当にあり得るんだ」とか「ちゃんと見ておくんだった」とか一人で呟いている。
「見てただろうがよ、目かっぴらいて」
男は我に返えると、今だソファから動けずにいる俺を見下ろした。その目には隠しきれない怯えが滲んでいる。
「俺が見ても意味がないんだ。ああいうものを目に焼き付ける役割はこっちだよ」
そう言うと男は体に巻き付けていたボディバックを開け、小瓶を取り出す。いつか民宿で見た、まりもが入っていた瓶と大きさはほとんど一緒だった。
ただ、瓶の中に満たされた液体の中で浮いているのは、もこもこしたまりもじゃなく眼球だった。神経が尾のように繋がっていて、白目の部分は白玉を想起させるほど濁りがない。黒目は幼子のもののようにみずみずしく、かなり色が明るかった。僅かに緑がかっているようにさえ思える。その色と同じ色の目を持つ奴を俺は知っている。俺の腕を奪った目の前の男だ。
「見ない方がいいものをこの目玉は見なきゃいけない。でも俺は臆病だし無知だ。だから同行者兼案内人が欲しいんだよ」
「なんだよそれ……」
男は瞑っていた右目を開いた。そこにあるはずの眼球はなく、窪みがそこにあるだけだった。
腕を奪われ、元に戻るためには正気とは思えない事象を見る手伝いをしろと脅されている。しかもくり抜かれた目玉付きときたもんだ。
小瓶の中で眼球は気まぐれに揺蕩っている。俺は口角が引き攣りシャツに脂汗が滲むのを感じながら、不思議とほんの僅かに高揚感を覚えていることに気がついた。
俺の数多くあるうちの短所の一つだ。俺は萎びたアサガオみたいな人間に弱い。軽薄そうに笑いながらも恐怖や疲労を滲ませる男からは、生きてく上で大事な芯が中途半端に折れかけている気配がした。
偶には自動車のパーツをくすねる以外のこともしてみたくなった。
「……腕を、腕を取り戻す以外で俺に実の入りはあんのか」
「そりゃもうたんまり」
「……わかった。同行しよう」
「ありがとう。心底助かる、本当に」
腕を取り返すためにへりくだって引き受けるのは、ほんの少しだけ残っている味噌っかすみたいなプライドが許さなかった。金に釣られた卑しい奴というていで仕事を引き受ける方がまだマシだと思い、できるだけそう見えるよう振る舞った。
「ガソリン泥棒、名前は?」
「
「別にどっちでもいいけど、俺の手伝いをしてる間は休業して貰うからな。途中でいなくなられたら寂しい」
「お前の名前は」
「無視か、まあいいや。
どこか自嘲気味に笑うと、観静はソファの足元にしゃがみ込んだ。傍のテーブルの上にに眼球が揺蕩っている小瓶が置かれる。悪意が少しも宿ってなさそうな眼球は、ロクでもない提案にまんまと乗った俺を哀れむように見ている。
足首に冷たい何かが当たりくすぐったい感触が触れた後、ようやくソファから足首が離れた。観静の手には切れた結束バンドがぷらぷらとある。出来るだけ腕があるほうに体重を掛け起き上がった。体の比重がいつもと違い落ち着かない。
「これからよろしく頼むな、触陽」
「その目玉が大事なら、出会ってすぐの人間がいるところでそんな風に堂々と置くな」
「触陽に限っては手出しできないだろ? 片方しか残ってないし」
観静は左手を差し出してきた。ため息を吐きながら差し出された手を掴むと人間と同じ体温で、洞窟の奥から吹き上げてくる風みたいな温度じゃなくてよかったと思う。
俺のささやかな安堵を見透かすことに成功したのか、まっさらな白目を持つ眼球が小瓶の中でくるりと回った。
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