第1章 第1話「風、遥かなる南の海」

沖縄本島の南端、糸城市。

 夏の陽差しが校舎のガラスに跳ね返り、蝉の鳴き声が響く午後――甘楽学園三年の神楽政斗は、誰もいない舞台の上で独り舞っていた。


 静寂を裂くように、彼の足が畳を打つ。指先は海風を掴むように滑らかに宙を描き、瞳はどこか遠くを見つめている。

 それは「かぎやで風」。かつて琉球王国の宴に捧げられた舞。

 政斗にとってそれは、祖父と共に受け継いだ“誇り”だった。


「……まだ、だな」


 ぴたりと動きを止め、政斗は額の汗を手の甲で拭った。

 来たる九月、彼は琉球舞踊で真喜志芸術大学の推薦試験を受ける予定だ。だがまだ、何かが足りない――そう感じていた。


「兄ちゃん、すっごーい! ほんとに琉球の王子みたいだったさ!」


 扉の向こうから聞こえる陽気な声。振り返ると、そこには中学三年生の妹・政未が立っていた。髪を金に染め、日焼けした肌を輝かせた“今風の黒ギャル”。けれどもその笑顔には、家族を大切にする温かさが宿っている。


「政未、お前こそまた授業サボって……」


「いやいや! あたい、ちゃんと用事で来たさー! 留学生の子、来たってよ! ホームステイする子!」


 政未の言葉に、政斗の目がわずかに丸くなる。


「……ああ。そういえば父さんが言ってたな。うちで受け入れるって……」


「んでさ、その子! なんと政斗兄ちゃんと同じクラス! よろしくね~って言いに来たってば」


 政斗はやれやれと肩をすくめながら、舞台を降りた。


 ――甘楽学園の玄関ホール。

 そこに立っていたのは、一人の少女だった。


 制服に身を包み、小柄な身体に整った黒髪を揺らすその少女は、まるで南国の風の化身のようだった。

 大きな瞳には緊張がにじみ、手には辞書と資料をぎゅっと握りしめている。


「……陳、美金……です。よろしく、お願いします……」


 初めての日本語は、たどたどしくも真剣だった。


 政斗はその姿に、ほんの少しだけ心を奪われた。



 その日の夕方、神楽家の食卓はいつにも増して賑やかだった。


「うわー! ほんとにベトナムから来たんだ!? すごーい!」


 政未が身を乗り出すようにして美金に話しかける。


「ええ……でも、まだ……日本語、むずかしい……」


 美金は小さな声で、懸命に返した。


 政成と広子、政斗の両親も温かく彼女を迎える。


「うちでの生活は心配いらんよ。美金ちゃんの国の文化も、いっぱい教えてくれるとうれしいさ~」


「お母さん、私、ベトナム料理も習いたい!」


「じゃあ明日はフォー作ろうね!」


 笑顔が広がる中、美金の顔にほんのり赤みが差した。


 政斗はというと、黙って箸を動かしながら、その様子を横目で見ていた。


(……何も言えないな。こっちが緊張してどうする)


 彼は不器用に視線を外し、咳払いひとつ。


「……美金。俺は神楽政斗。よろしく。わからないことがあったら、なんでも言ってくれ」


「……あ、はい。……政斗さん、ありがとう……」


 短い言葉のやり取り。それでも、その瞬間、二人のあいだに小さな風が吹いたようだった。



 美金はその夜、布団の上で小さく息を吐いた。


(ほんとうに……はじめての国、はじめての家……)


 フーコック島に残してきた家族の顔が浮かぶ。

 弟の劉楚、妹の清華と愛鈴。農作業に追われる母。寡黙だけど優しい父。

 貧しさを抜け出すため、そして何より「未来のために」と送り出されたこの留学。


「……頑張らなくちゃ……」


 小さくつぶやき、彼女は目を閉じた。


 一方そのころ、政斗はノートをめくっていた。

 舞踊の型を書き込んだそのページに、ふと美金の姿がよぎる。


(風……かぎやで風……)


 彼はふと呟いた。


「……そうか……“風”なんだ。あの子……」


 風は言葉を越え、人の心を揺らすもの。

 異国から来た少女が、彼の舞にも、心にも、新たな風を運んでくる。


 そして、二人の物語が、今――静かに始まろうとしていた。

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親日国シリーズ第1弾目作品『かぎやで風(ベトナム編)』 毛 盛明 @temeteni-

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