ex.黎明(前編)

 都から離れた、ホーフハイマー家別邸地。

 いつも通り静かで穏やかな朝を迎えながらも、キリエの心は波立っていた。

 今キリエの目の前にいるヨハンの姿は、愛馬を従え、一分の隙もなく正装を纏った王国騎士のそれだ。聖堂騎士団時代のそれよりも飾りが多く華やかな装束は、元来ヨハンに備わっている貴族としての品性と、騎士としての実直さの両方を際立たせ、彼をより妙なる存在に仕立て上げているようだ。

 無意識に見惚れていたキリエの隣で、使用人夫妻の夫であるフェリクス氏が頭を垂れた。

「道中、お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 氏の言葉に合わせて、隣に立つ妻のセシル夫人もまた一礼する。

 夫妻の姿を見たヨハンは頷き、「留守を頼む」と一言口にした。

 ヨハンはキリエに視線を移すと、優しく目を細めた。

「私が留守の間も、くれぐれも無理はしないでくださいね」

「大丈夫だよ。それより、ご家族の皆さんと騎士団の皆さんに、よろしく伝えて。それと、今回は行けなくてごめんなさい、って」

「必ず伝えます」

 ヨハンは決然と頷くと、迷いを振り払うように背を向ける。

 キリエがその背中を名残り惜しく見つめていると、次の瞬間、再び振り返ったヨハンによって抱きしめられていた。

「……っ」

 夫妻が見ているのに、と咎めることはできなかった。同じように離れることを惜しんでくれたことが嬉しくて、キリエは言葉もなく瞑目する。

「なるべく早く帰ってきます」

 耳元にそっと注がれた言葉に、無言で頷き返す。

 たった三日間離れるだけなのに、それがこんなにも苦しい。

 自分はいつから、こんなに寂しがり屋になったのだろう。

「……気をつけて、早く帰ってきて」

 それは、キリエなりの精一杯の虚勢と、ほんの少しのわがままだった。

 ヨハンはくすりと笑って、「はい」と約束してくれた。

 腕が解けて、二人は見つめ合う。それから微笑んで、キリエは伝えた。

「行ってらっしゃい、ヨハン」

「……行ってまいります」

 決然と告げたヨハンは、再びキリエに背を向け、馬上の人となる。

 愛馬の腹を蹴って駆け出したその姿が見えなくなるまで、彼が振り返ることはなかった。



 キリエがヨハンの伴侶としてホーフハイマー家別邸に移り住んでから、二ヶ月が経った。

 王国の首都から離れたこの地はとても静かで、陰謀や憎悪とはかけ離れた時間は、長きに渡って傷つけられたキリエの心と身体をゆっくりと癒していた。

 ホーフハイマー家に長く仕える使用人夫妻のフェリクス氏とセシル夫人は、元神子であるキリエに対しても必要以上に気を遣うこともなく、あくまでヨハンの伴侶として迎えてくれた。

 グロリア大聖堂の聖堂騎士であったヨハンは、王国騎士団の第七騎士団長トマスの配下へと立場を転じながらも、部隊には所属せず、元神子であるキリエに仕える特別な任についている。しかしそれはあくまで表向きであり、二人の関係を知るトマス騎士団長の采配により、二人を誰にも邪魔されない環境へと送り出す大義名分を仕立て上げられたものだ。

 ヨハンとキリエは、内々に婚約を交わしている。様々な事情が絡み合って、今は王国内も国民感情も以前と比べて乱れ、荒れている。爵位のある貴族であるホーフハイマー家も例外ではなく、当主である父を筆頭に後継者であるヨハンの兄もまた、即位したばかりの若き国王を支えるために奔走しているのだという。

 それらが落ち着いた頃に正式な結婚の手続きを行ない、式を挙げる予定だ。それまでの間、二人は穏やかに、それでいて満ち足りた時間を過ごしていた。

 そんな二人の元に、一週間ほど前、都の実家にいるヨハンの父から手紙が届いた。用件は大きく三つの要請だった。

 一つは、現国王即位後初となる叙任式への出席。

 二つは、ホーフハイマー家がこのたびの叙任に際して伯爵位を得ることになったため、それに付随する夜会への臨席。

 そして三つは、ヨハンの兄・テオバルトの婚約が決まったことによる両家の晩餐の場への出席だった。

 これらの用向きのため、ヨハンは今日から三日間、単身都に戻ることになっていた。当初はキリエの同行も検討されていたが、未だ療養中の身体への負担と、かつて神子であった彼が突如姿を現せば混乱を招きかねないという憂慮から、今回はこのまま使用人夫妻とともに別邸でヨハンの留守を預かる判断となっていた。

 キリエを置いていかなければならないヨハンは相当気を揉んでいたようで、此度の三日間についても最短で帰還できるように調整をした結果であるらしい。

 出立の前夜であった昨夜に関しては、常にキリエの体調を気遣う普段の姿からは一転、狂おしいほどの熱と欲望を以て翻弄した。

 ──とはいえ離れがたかったのはキリエも同様で、求められるがままに喘ぎ乱れてしまったわけなのだが、これは当然、二人だけの秘め事だ。



 ヨハンを見送ったキリエは、いつものように書庫に籠もって勉学に励んでいた。

 幼い頃から大聖堂に閉じ込められていたキリエにとって、外の世界を知る唯一の手段が本だった。あの頃よりも格段に多くの蔵書を齎されたキリエは、渇いた大地が恵みの雨を甘受するかのように読み耽り、その姿を見ていたフェリクス氏が手の空いている時間を使って講義をしてくれるようになっていた。

 そんな今日の講義は、ホーフハイマー家の歴史についてだった。

「現在のホーフハイマー家の祖は、四百年ほど前にプラエネステ王国の属国となった、ラウム公国の諸侯です。大公家の縁戚として、国の安定に尽力した一族でした」

 現在ではそのホーフハイマー家も、プラエネステ王国の爵位を得て、王国の治世を担う貴族の一柱だ。為政者を支え続ける血筋は、連綿と受け継がれている。

「ホーフハイマーという氏族名もそうですが、当家に生まれた子女たちには、ラウム語を語源とした名前が与えられることが慣習となっています」

「ということは、ヨハンの名前もラウム語から?」

「その通りです。【恵み深き人】、それがヨハン様の名前に込められた意味です」

「【恵み深き人】……ヨハンにぴったりだ」

 愛する人の名前に込められた意味を知り、キリエの胸は温かくなる。強くて優しくて、そして恵み深い、誰よりも大切な人。

「以前ヨハン様と行かれていた温泉地も、統治前はラウム公国の国土にあたり、当時からプラエネステ人も多く訪れていたと言います。現在もラウム人の子孫たちが多く暮らしていることから、ホーフハイマー家の祖先はこの地に別邸を構えたと伝えられています」

「そういう繋がりがあったんだ」

 ちょうど先月頃、キリエはヨハンと二人でその温泉地に泊まりがけで赴いたことがある。都とは異なる雰囲気の風情ある街並みは、もしかするとラウム公国時代の名残りだったのかもしれない。

 ヨハンと二人きりで過ごした、かの地での思い出のあれこれが脳裏をよぎり、頬が熱くなりだしていたときだった。

「ところでキリエ様は、ご自分の名前の意味をご存知ですか?」

「え?」

 フェリクス氏の問いがキリエの虚を突いた。そんなこと、考えたこともない。

「いいえ。知りません」

「やはりそうでしたか。音の響き自体は現在の公用語ととても似ておりますが、お名前の由来となりそうな言葉に心当たりがなく、不思議に思っていたのです」

 そう言われて、キリエの中で以前ヨハンに言われたことが思い出された。

 地理や歴史に詳しいヨハンによると、鳶色や暗褐色などの濃い色合いの髪の人が多いこのプラエネステ王国で、淡い金色を帯びたキリエのような髪はとても珍しいのだという。もしかすると、キリエは外国の血を濃く引いていて、その影響が外見に出ているのかもしれないという見立てだが、あくまでも推測の域を出ない。キリエとしては、ヨハンがこの容姿を気に入ってくれているなら、それで十分だった。

 キリエは自身の両親を知らない。しかし、両親が何者なのかを探るつもりも、ましてや行方を探すつもりもない。──先が長くないことがわかっているのだから、顔も名前も知らない誰かを探すよりも、ヨハンとの時間を大切にしたかった。

 それでも、自分がいったいどこから来たかが気にならないと言えば、嘘になる。

 王国内では珍しいとされるこの容姿と名前が、出自を探る手掛かりになるかもしれない。

 キリエはこのとき初めて、自身のことを知りたいと思った。



 フェリクス氏の講義が終わり、書庫に残ったキリエは、さっそく自身の起源の手掛かりを探し始めていた。

 目を通している書物には、プラエネステ王国近隣諸国に関する地理や歴史、文化などが大まかに記述されている。王国のことですら未だ知らないことだらけなのに、さらに外の国だなんて、いったい世界はどれほど広いのかと眩暈がしそうだった。

 本の記述を辿りながら、ひとまず自身の特徴と当て嵌まりそうな国を探す。淡い金色を帯びた白銀の髪と、碧色の瞳を持つ人々の国。碧色の瞳に関してはともかく、白銀の髪についてはどの項目を見ても求める答えは見つからなかった。

 この本に記載されている国は、あくまでもプラエネステ王国の近隣だけだ。もしかすると、他の本に手掛かりがあるかもしれない。

 キリエは本を閉じ、別の本を求めて立ち上がった──そのときだった。

「随分集中されていましたね」

「ひゃっ!?」

 本を抱えたまま素っ頓狂な声を上げてしまった。そんなキリエに、いつの間に入室してきていたフェリクス氏は優しく微笑んだ。

「失礼致しました。驚かせるつもりはなかったのですが」

「いえ。僕こそ、気づかずにごめんなさい」

「とんでもない。勉強熱心なのは感心なことです。……ですが」

 続く言葉にキリエは身構えるが、氏の口から出てきたのは、咎めでも叱りの言葉でもなかった。

「休むことも大切ですよ。一息つかれませんか?」



 フェリクス氏に促されるまま食堂にやってくると、厨房から盆を携えたセシル夫人が出てくるときだった。

「ちょうど焼き上がったところですよ。どうぞ出来たてを召し上がってください」

 そう言って卓上に置かれたのは焼き菓子だった。しかし、いつも夫人が供してくれるものとは少し異なる色と風合いである。

 不思議そうにしているキリエに、夫人は優しい微笑みのまま「食べてみてください」と促す。

 言われるがままに口にしてみると、ほろりとした食感と口溶けの良い甘みの中に、ふんわりと広がる香りがあった。それは決して厭なものではなく、むしろ不思議と癖になる清々しさがある。

「美味しい……!」

「まあ、良かった。実は、お庭で採れた薬草を生地に練り込んであるのです。これなら普通のお菓子よりもキリエ様のお身体に良いと思って」

 キリエの身体を気遣って作ってくれたものだと知って、その優しさに胸が温かくなった。

 庭園で栽培されている数々の薬草は、キリエがこの邸に入るにあたって新しく植えられたのだと聞いている。中にはこうして調理に使えるものもあり、夫妻は日々のお茶や食事に取り入れる工夫を凝らしてくれていた。

「ありがとうございます。セシルさんの作るご飯とお菓子、いつも本当に美味しいです」

「まあ嬉しい。キリエ様は何を作っても喜んでくださるので、私も次は何を作ろうかと考えるのが楽しくて」

 お世辞など抜きに、セシル夫人の作る家庭料理はどれも絶品で、特に魚の香草焼きは今やキリエの大好物だ。

 少女のような無邪気な微笑みを見せるセシル夫人は、「それに」と言葉を続けた。

「キリエ様がいらしてから、ヨハン様は本当によく笑うようになったと、夫とも話しているのですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。きっとヨハン様、キリエ様と一緒にいられて、とても幸せなのでしょうね」

 ──それを言うなら、僕の方が。

 その言葉は、胸が閊えて音にならなかった。

 来る日も来る日も溢れんばかりの愛を注がれて、それを祝福してくれる人たちがいて、キリエは今とても幸せだ。

 かつての力を失った今のキリエには、政治的な影響力も後ろ盾もなく、残されたものといえばヨハンへの恋心と、傷だらけの冷たい身体だけだ。

 もはや一人では生きていけないキリエはヨハンと夫妻に甘えるばかりで、何も返せない。それなのに夫妻はこんなにもキリエに心を砕き、ヨハンはキリエと同じように幸せだと言ってくれる。

 ──きっと、僕の方が幸せ者だ。

 この想いを今すぐに伝えたいのに、ヨハンがここにいないことを思い出し、途端に切なくなった。

「キリエ様、如何なさいましたか?」

 黙り込んだキリエを心配したのか、フェリクス氏が訊ねてきた。

 思惟を戻されたキリエは左右に首を振り、努めて明るい声を出した。

「あの、よかったらヨハンが小さかった頃のことを聞かせてくれませんか。ヨハンに訊いても、いつもはぐらかされちゃうので」

「あらあら、ヨハン様ったら恥ずかしがっているのですね」

「喜んでお話ししますとも。長くなりそうなので、始める前にお茶を淹れてきましょうか」

 茶目っ気たっぷりなフェリクス氏の言い方に、キリエは思わず笑ってしまう。

 心優しく、とても仲の良い夫妻の姿に、キリエは知らないはずの両親の面影を見出していた。


 ◆


 別邸から馬を走らせ、ヨハンが都のホーフハイマー本邸に到着したのは夕方頃だった。

 今夜は兄・テオバルトの婚約相手である侯爵家との晩餐会を控えており、邸の中はその準備のため何やら慌ただしい雰囲気だ。

 そんな中、最初にヨハンを迎えてくれたのは、淑やかに着飾った母だった。

「おかえりなさいヨハン。元気そうでなによりよ」

「ただいま戻りました、母上。相変わらずお綺麗ですね」

「まあ、いつの間にそんな気が利くことを言うようになったの?」

 神子への信奉心が強いヨハンの母は、同時に貴婦人には珍しい茶目っ気の持ち主でもある。父は母のそんな飾らない人柄に惹かれたようで、貴族には珍しい恋愛結婚を果たした二人は、今でもとても仲が良かった。曰く、黒い評判の絶えなかったかつての伯爵の血縁である上に庶子ではないかと周囲から噂されていた母を、父は一貫して令嬢として扱い、大恋愛の末に堂々と妻に迎えたのだという。

「でも、そういう褒め言葉は愛する方のために取っておきなさい。それとも、とうに実践済みかしら?」

「はい。今朝も出立前に伝えてきたところです」

「まあ、真面目な堅物だとばかり思っていたのあヨハンが、まるで別人みたいね!」

 大仰に言ってみせる母の表情は嬉しそうだ。

「こうやってお話ししていたいところだけど、実は今朝、王宮騎士団の使いの方が見えられたのよ」

「用向きは?」

「ヨハンが戻ったら、トマス騎士団長に顔を見せに来てほしいとのことよ」

「ありがとうございます。夕食の時間までに必ず戻ります」

 久しぶりの帰邸もそこそこに、ヨハンは再び馬上の人となった。



 叙任式を明日に控えた王宮もまた、慌しい喧騒に包まれていた。

 生後まだ間もない王子の眠りが妨げられていないことを願いながら、ヨハンは王国騎士団の控えの間へと向かった。

「ヨハンじゃないか! 久しぶりだな!」

「元気そうだな。神子様のご様子はどうだ?」

 控えの間では、聖堂騎士団時代からの仲間たちが久しぶりの再会を喜んでくれた。

 彼らには元神子……キリエとヨハンの関係を未だ知らせておらず、あくまでも大聖堂時代からキリエと親交のあったヨハンが、引き続きキリエに仕えているものと認識されている。

「キ……神子様は今回大事を取られているが、お元気にお過ごしだ。騎士団の皆さんによろしく、と言伝を預かってきている」

「神子様……!」

「我々のことを覚えてくださっているだなんて……!」

 言伝を伝えただけで感激しきりの仲間たちの姿を見ながら、実は自分とキリエは婚約を交わしている仲であると伝えたらどうなるのだろうかと考えようとして、やめた。少し考えるだけで途方もなくて、酷く疲れそうな気がする。

「トマス騎士団長は執務室か?」

「ああ、この時間ならまだいらっしゃると思うぞ」

 教えてくれた仲間に礼を言って、ヨハンはトマスの執務室へと向かう。

 騎士団の控えの間から続く細い廊下を半ばまで進み、向かって右手──七を意味する旧字が刻まれた扉を四度叩いた。

『入りなさい』

 応えを確認してから扉を開き入室する。ヨハンの姿を見るなり、トマス王国第七騎士団長は破顔して迎えてくれた。

「ヨハン、久しぶりだな。着いたばかりで疲れているだろうに、呼び立ててすまない」

「騎士団長も、お変わりないようで何よりです」

 ヨハンが都を出てから、頻繁に報告書や手紙の文面で連絡を交わしていたが、こうして顔を合わせるのは実に二ヶ月ぶりだ。

 ヨハンとキリエの関係を知る数少ない人物の一人であるトマスは、今も昔もヨハンにとって頼りになる上官だ。

「母より、使いの方をわざわざ寄越してくださったと聞いています。火急の用件でしょうか?」

「君に渡しておきたいものがあることと、内密に伝えておきたいことがあってね。君と二人で話せる時間を取れるのは、この三日間で今しかないだろう」

 そう言ってトマスは、ヨハンに座るよう促した。指し示した椅子と対面する位置に腰を下ろしたトマスを見て、ヨハンも同様に腰を下ろした。

「キリエ様はお元気にされているかい?」

「はい。毎日とても熱心に勉強をされていて、調子が良い日は遠出をできるようになっています。この間は一緒にカッチーニ湖に行きました」

「……いつも届いている報告から察してはいたが、相変わらず仲睦まじいようで何よりだよ」

 何故か苦笑いを浮かべているトマスを不思議に思いながら、ヨハンはひとまず頷いた。何かおかしなことを言っただろうか。

「おっと、君は今夜用事があるのだったね。なるべく手短に済ませよう。まずはこちらを」

 そう言ってトマスは、手のひらほどの大きさの木箱をヨハンに手渡し、開けてみるように促した。

 言われるがままにヨハンが蓋を持ち上げると、そこには白い百合の花を模した徽章が凛然と鎮座していた。

「渡すのがすっかり遅くなってしまったが、明日に間に合って良かった。叙任式ではこれを着けて参列するように」

「ありがとうございます。謹んでお受け致します」

 王国騎士団の所属部隊を示す徽章は、通常ならば旧字体の数字が刻印されたのものが渡される。しかし、この白い花を模したものは特別だった。

 白い花は神子を象徴した表現であり、白い百合に関してはキリエを表している。

 元神子であるキリエの現在の所在については、ごく一部の関係者以外には伏せられている。そんなキリエの状況を国王に報告する際などに、白百合の表現を用いて奏上するのだという。

 この白百合の徽章は、すなわちキリエに仕える者である証だった。

「それから、君に伝えておきたいことがある。──現在の国民の状況についてだ」

 低くなったトマスの声色に、ヨハンは誇らしく思う気持ちを切り替えて耳を傾けた。

「国王陛下が神子制度撤廃を宣言してから二ヶ月が経ったが、依然として神子の復帰を願う声があることが事実だ」

「そうでしょうね。衛生環境と医療の発展を陛下が宣言されているとはいえ、二日や三日で成せることではありませんから」

 古今東西、変革には痛みを伴う。

 若き新国王ジャン一世の評判は、芳しくないのが現状だ。エミリア王妃との婚姻譚など誠実な人柄で知られ、もともとの人気が高かった分、人々の落胆はあまりにも大きいと聞く。

「キリエ様についても、大聖堂時代からお姿を知る民も多い。気の毒だが、当面の間は都にお連れすることは避けた方が賢明だろう」

 それに関してはヨハンも同意見だった。キリエ自身の気持ちやその力の有無に関わらず、必要以上に彼を衆目に晒すことは避けたい。神子の復帰を望む人々が未だ多い中、それによって彼を傷つけてしまうならば、尚更。

「こんな状況だから、式を挙げるならば都ではなく別邸にしておきなさい。まあ、君のことだろうから、私が言わずともそのつもりでいただろうが」

「はい、キリエの体調のこともありますから、いろいろと落ち着いた頃に別邸で挙式するつもりです。その際は、団長もお越しいただけますか?」

「もちろん喜んで行くとも。招待を楽しみにしているよ」

 トマスがいなければ、ヨハンとキリエは今のように一緒にいられていなかっただろう。ヨハンにとってトマスは、公私共に頼りになる上官であり、人生の大先輩だ。この恩義には一生を懸けて報いていこうと、改めて心に誓う。

「久しぶりに話せてよかった。そろそろ戻った方が良いのではないか?」

「帰る前に、お訊きしたいことがあります」

「なんだい?」

 トマスと話せる機会があったら必ず訊こうと決めていたが、いざ口にしようとすると声が詰まった。

 深く息を吐いて気持ちを鎮めてから、ヨハンは静かに、低めの声色で訊ねた。

「あれから、クレドがどうなったのかをご存知ですか」

 その名を聞いた途端、トマスの眉がぴくりと顰められた。

「それは、キリエ様が知りたいと仰ったのかい?」

「いえ、あくまで私個人の疑問です」

 クレド──グロリア大聖堂の元大司教であり、キリエの育ての親。しかしそれは表向きの顔であり、その正体は養っていた神子たちの血を啜りながら半永久的な若さと美しさを得ていた元神子だ。

 神子の命を脅やかすことはこの国において最たる重罪。かつてクレド自らが定めた法に則れば、キリエへの傷害と殺害未遂で逮捕・投獄された彼は極刑に処されていてもおかしくはない。しかし、そういった報や噂は今のところ、不思議なことに届いてきていない。

 キリエの身体に夥しい数の傷をつけ、その血と命を自らの美貌の糧としていたクレドは、ヨハンにとっては生涯許すことのできない相手であると同時に、異なる結末を迎えた自分たちが映しだされているかのような存在でもあった。

 だからこそ知っておきたい。恋情に狂い、禁断の果実に手を掛けた、憐れな神子の末路を。

「……私も実際にクレドの姿を見たわけではない。あくまで人伝に聞いた話になってしまうが、それでも良いかい?」

「はい、構いません」

「わかった」

 トマスの表情が神妙さを帯び、眼差しが窓の外へと向けられる。そんなトマスに倣って、ヨハンもまた外を見遣った。

 宵闇が、空を塗り潰そうとしていた。


 ◇


 夫妻と三人で夕食を終え、沐浴を終えたキリエは、あてがわれている自室へと引き取っていた。

 先ほど無意識のうちにヨハンと二人の寝室へと入ってしまい、改めて彼が今ここにはいないことを思い知って切なくなった。そくそくと忍び寄ってくる寂寥感から逃げるように自室に来たが、心のどこかにぽっかりと穴が空いたような感覚は変わらなかった。

 この邸に来てからというもの、夜はずっとヨハンと一緒に過ごしていたため、あてがわれている自室の寝台を使ったのは本当に数えるほどだ。

「一人って、こんなに寂しかったっけ……」

 思わずそうごちるが、応えがあるはずもなく、広い部屋の中に溶けて消えていく。

 大聖堂で過ごしていた頃、子どもの時分から夜はいつも狭く古い部屋の中で一人だった。痛みが身体を苛んだときも、空虚に心を穿たれていたときも、一人でじっと耐えてきた。

 一人には慣れている。そのはずなのに。

「…………」

 半ば自棄になって、キリエは寝台の上に身を投げ出した。横になれば眠気が兆してくれるかと期待したが、皮肉にもその気配はない。

 寂しくて、そして寒い。

「ヨハン……」

 いつも優しく抱きしめてくれるあの温かい腕が、恋しくてたまらなかった。

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