7.真実


 大司教クレド逮捕の報は瞬く間に国中に広がり、全国民に衝撃を齎した。

 神子は王宮にて保護され、グロリア大聖堂は王国騎士団の管理の下に全面封鎖。聖堂騎士団もまた王国騎士団の傘下に置かれ、大聖堂に仕えていた小間使いたちには一年分の俸給が支給されたのち無期限の暇が言い渡された。

 クレドの身柄が拘束されて一日が経った頃、聖堂騎士全員が王宮の謁見の間に招集された。御年七十歳を超える国王自らが真実を伝えたいとの申し入れを受けたものだった。

 若かりし頃は弟の第二王子と兄弟揃って美男との呼び声高く、国中の女性たちの視線を惹きつけた国王は、高齢となった今尚整った容貌と威厳で人気が高い。

 玉座に座した国王は跪いた聖堂騎士団を一瞥すると、神子を救出した騎士たちへの労いもそこそこに、神妙な面持ちで真実を語り始めた。

「クレドはおよそ五十年前、当時第二王子であった我が弟と肉体関係を持ち、それにより神子としての力を失ったのだ」

 ──第二王子は才気に溢れた優秀な人物で、その人望の厚さと実直な人柄で将来を嘱望されていた。

 一方で神子として大聖堂に入る前のクレドは、孤児の少年少女によって組織された窃盗団に属し、来る日も来る日もその日の食べ物を盗む日々を送っていたのだという。

 少年時代から容姿に優れていたクレドは、複数の人買いに目をつけられていた。クレドが十歳の頃、そんな商売人に襲われ拐かされようとしていたところを救ったのが、都を警邏していた当時十六歳の第二王子だった。この直後にクレドが神子であることが判明し、彼はそのまま大聖堂に引き取られることになったのだという。

 二人は八年後、神子と王子という立場で再会した。美しく成長したクレドと、かつてクレドの窮地を救った第二王子は親密になり、急速に仲を深めていった。

 都の地下に巡る地下通路の存在を知っていた第二王子は、代々の神子たちの居室から繋がる通路をクレドに教え、夜毎かの石牢で逢瀬を繰り返した。その結果が、皆の知るところだ。

「我が弟が神子と肉体関係を持ち、それがきっかけで神子が力を喪失したなどと知れ渡れば、王家全体の評判を落とすことになる。それを隠すため、当時の国王であった我が父は、弟を総督として辺境の地へと左遷した上で、二度とクレドと会わぬよう厳命した。神子としての力を失ったクレドには、第二王子と恋愛関係にあったことは他言無用と念押しした上で、大聖堂での司祭の地位を与えて次代の神子の養育を任せた」

 この瞬間、ヨハンの中ですべてが繋がった。

 クレドがかの石牢で頻りに呼んでいた「あの御方」とは、この第二王子のことだろう。第二王子……現在の王弟が今も存命ならば七十路に差し掛かる年齢、クレドも本来六十過ぎの年齢ということになる。クレドはかつての恋人のため、自身の美貌を保つべく神子たちの血を啜り続けていたのだと推測できる。

「陛下は、クレドの容姿が変わらないことにお気づきでしたのでしょうか?」

 そう国王に疑問を投げかけたのは、聖堂騎士団長のトマスだった。

 国王は首肯したのち、渋面を浮かべたまま口にした。

「気づいていた。クレドは大司教になる際、自らと神子以外の聖職者たちをすべて大聖堂から追い出したのだ。傲岸な振る舞いを見かねて何度か警告したのだが、件のことを盾にされ跳ね除けられ、ついにこちらから手出しすることができなくなっていた」

「左様でございましたか……」

「思えば、私が即位した段階ですべてを公にすべきだったのだ。クレドの横暴に甘んじず、立ち向かうべきだった。今更悔いても遅いが……」

 すべての調和が崩れだしたきっかけは、かつて神子であったクレドと王子の恋にあった。しかし。それを赦されざるものとはヨハンには思えなかった。

 キリエと惹かれ合った今だからこそわかる。神子もまた一人の人間。だからこそ心を持っていて、それゆえに恋もする。

 二人は互いに惹かれ合っただけであって、決して罪を犯したわけではない。しかしクレドは引き裂かれた恋人との再会をこいねがいながら、禁断の果実に手を出してしまった。

 これがキリエと自分であったならどうしていただろうとヨハンは考える。はたして同じことをせずにいられただろうか、と。

 答えの出ない自問自答を繰り返している中、悔悟を口にしていた国王は決意を表した。

「事態がこうなった以上、もはや隠し通すことは不可能だろう。近々国内外に、私からすべて打ち明ける。全責任を私が負う覚悟だ」

 大司教の逮捕。

 王家の過ちとその隠蔽。

 国民の心の拠り所が、崩れていく。

 プラエネステ王国の混沌の時代の幕が、静かに上がろうとしているのをヨハンは感じていた。


 ◆

 

 謁見の間を辞したヨハンは、整理のつかない頭のまま、王宮内のある一室へと向かっていた。

 絢爛豪華な装飾が施された棟の最奥、人通りのもっとも少ない場所にあるその部屋の扉を視界に捉えると、中から中年の男性が出てくるところだった。髪に白いものが多く混じった彼は長く王宮に仕える侍医であり、数多くの弟子を世に輩出した名医である。

 侍医はヨハンの姿を認めるなり、丁寧に会釈をした。

「これはヨハン殿、お戻りでしたか」

 国内一と呼ばれる名医であるにもかかわらず、彼はどこまでも気さくで朗らかだ。そんな彼の柔らかな態度に、暗澹としていたヨハンの気分も少しだけ浮上する。

「神子様の様子は?」

「これといって変わらずです。引き続き、ゆっくり休ませて差し上げましょう」

「……そうですか」

 挨拶もそこそこに、中へと入ろうとしたヨハンを、侍医は引き留めた。

 ヨハンが振り返ると、侍医は真剣な表情で告げる。

「貴方のお耳に入れておきたいことがあります。──神子様のご容態について」

 すうっと、頭の芯が冷えていくような気がした。


 ようやくの思いで部屋の扉を開き、のろのろと中へと入る。背中から凭れるように扉を閉めると、瞑目し、深く息を吐いた。

「…………」

 まるで鉛に塞がれたかのように胸が重い。苦しいのか、悲しいのか、感情の判別がつかない。

 自らの身体を引き摺るようにしてヨハンは部屋の奥、天幕に仕切られた向こう側へと足を踏み入れる。そこには広々とした寝台の真ん中で、静かに眠るキリエの姿があった。

 石牢で意識を失ってからというもの、以来キリエは一度も目を覚ましていない。あれからすぐに王宮へと運び込んだのちに先ほどの侍医によって傷の治療が施され、失血による貧血と極度の緊張による過労と診断されていた。

 それだけならまだ良かった。先ほど侍医は、新たな見解をヨハンに伝えた。その内容は、ヨハンの胸を重く塞ぐものだった。

『脈拍が弱く、体温も低いまま戻る様子がないことから、身体の衰弱が進んでいると思われます。気の毒ですが、この先そう長くは生きられないかと……』

「……っ」

 削られた命は、元には戻らない。

 昏々と眠り続けるキリエの白い相貌を見つめながら、ヨハンは現実に打ちのめされた。痛みと苦しみをひたすら耐えてたこの少年が、いったいどうしてこのような目に遭わなければならないのかと、聖堂騎士の身でありながら、あまりに理不尽な神の采配を呪いたくなる。

 もっと早くに身体の傷に気づけていたなら、クレドの蛮行を止められたのかもしれない。もっと上手く立ち回れていたなら、キリエはここまで傷つかずに済んだのかもしれない。

 だが、どれほど神を呪っても、自らを悔いても、状況は変わらない。

 今できることは、キリエの傍で目覚めを待つことだけだった。

 呆然自失としたままヨハンが控えていると、扉の向こうから久しく耳にする声が聞こえた。

『ヨハン、いるかしら?』

 よく通る女性の声。王宮の中でヨハンの名を知り、こうして気軽に呼びかけるのは一人だけだ。

 ヨハンが扉を開けると、その向こうには複数の従者を従えた栗色の髪の貴婦人の姿があった。

「やっぱりあなただったのね。神子様の傍についている騎士の名を聞いて、もしやと思っていたの」

 王太子妃エミリアは、慈愛に満ちた笑みを浮かべてそう言った。


 ◇


 エミリアに誘われ、ヨハンは城内の中庭にある東屋を訪れた。

「王太子妃殿下、お身体の具合はよろしいのですか」

「まだ安静にしているように言われているけど、気分転換にこうして外の空気を吸うようにしているの。それよりも、そんな呼び方はよして。今は私的な時間なのだし、わたしたちいとこ同士じゃない」

 エミリアはそう言ってヨハンを促した。

 つい先日、第一子となる王子を出産したばかりのエミリア王太子妃は侯爵家出身の姫。彼女の母親は子爵家出身であり、現子爵の姉──ヨハンの伯母にあたる人だ。

 エミリアが侯爵令嬢だった時代に何度か対面したことがあるが、彼女はヨハンたち兄弟を実の弟のように可愛がってくれた。姉がいたらこんな感じだったのだろうと、兄とともによく話していたものだ。

 そんなエミリアは今や次期王妃であり、世継ぎの王子の母親だ。

「今ではあまりにも立場が違いますから」

「もう。あの可愛かったヨハンも、すっかり立派な聖堂騎士なのね」

 令嬢時代から変わらない屈託のない口調でありつつも、洗練された振る舞いは完璧な貴婦人のそれだ。

 侍女が手際よく茶と菓子を用意すると、エミリアは「ありがとう」と優しく微笑んだ。侍女が恭しく微笑んだところから、彼女が従者たちから慕われていることが察せられる。

 エミリアは茶を一口含むと、居住まいを正してヨハンに向き直った。

「殿下から話しは聞いているわ。大司教が、まさかあんなに酷いことを神子様にしていただなんて……」

 殿下とはエミリアの夫である王太子のことだ。

 エミリアの言葉に、ヨハンは何も言えなかった。産後間もないの女性の耳に入れるにはあまりにも衝撃的な内容だったに違いないのに、貴婦人を気遣う余裕すら今のヨハンにはない。

 しかしそれでも、エミリアは態度を変えることなく話し続けた。

「神子様は今どう過ごされているの?」

「昨日からずっと眠っています。過度の疲れと、怪我による貧血からくるものと侍医が」

「そう……私も神子様に助けていただいた身だから、話を聞いて気が気じゃなかったの。早く良くなってくださると良いのだけど……」

 キリエを案じるエミリアの言葉を聞きながら、ヨハンの脳裏には先ほどの侍医の言葉がよぎっていた。

 先は長くないであろうキリエの命。自分にはいったい、何ができるのかと。

「ヨハン」

 思案するヨハンの意識を、エミリアが再び呼び戻す。

「何か思い詰めているようだけど、大丈夫?」

「……そんなに、顔に出ていましたか」

「わたしも最近気づいたのだけど、あなたは表情というより、目に本心が出るのよ」

「……従姉あね上には敵いませんね」

 ヨハンの様子を見て何かを感じ取ったのか、エミリアは侍女たちにはずすように指示した。彼女たちもヨハンの公的立場と、何よりも主人の血縁者であることをあらかじめ知らされていたらしく、すぐに下がっていった。

 人払いを済ませると、エミリアは再度ヨハンに向き直る。

 言葉で促すようなことはせず、エミリアは辛抱強くヨハンが口を開くのを待った。

「……わからなくなったのです」

 幾ばくかの沈黙を重ねて、ヨハンはようやく言葉を口にする。

 言い出したらもう、止まらなかった。想いが溢れるまま、衝動に突き動かされるまま、気づけばヨハンは本心を吐露していた。

「神子様をお守りするために聖堂騎士になったはずなのに、結局あの方を大司教から守りきれなかった。でもその反面、あの方が神子の役目から解放されたことに安堵している自分がいるのです」

 支離滅裂なことを口走っている自覚はあった。明らかに矛盾していて、そして神子に対して抱く感情は聖堂騎士としての忠義からあまりにも逸脱している。

 しかしそれでも、エミリアは優しく微笑みながら、黙ってそれを聞いてくれる。

「この先次代の神子様が現れても、私はあの方のお傍にいたい。聖堂騎士としてでなく、一個人としてあの方をお守りしたいと思ってしまう……あの方がいない未来が考えられないのです」

 胸の内を口にしながら、ようやく思考が纏まってくる。

 一緒にいられる時間は短いのかもしれない。それでも、自分はキリエの傍にいたいのだ、と。

「あなたは、神子様のことがとても好きなのね」

 一頻りヨハンの思いを聞き届けたエミリアは、静かな語調でそう口にする。

 まるで胸の内を見透かされたような言葉にヨハンは驚きを隠せなかったが、エミリアは柔らかく微笑んで続けた。

「神子様のことが本当に好きだから、そうやって狂おしいほどに悩んでいるし、同時に悔やんでもいる。そうでしょう?」

「……はい、そうです」

「でも、あなたははっきり『傍にいたい』と口にしたわ。そう言えるということは、どうすべきか本当はわかっているんじゃない?」

「……そうかもしれません」

「なら、わたしが助言するまでもないわね?」

 息子を諭す母親のようにエミリアは言う。

「神子様がお目覚めになったら、さっきみたいに暗い顔を見せてはだめよ。神子様が不安になってしまうから」

「はい、気をつけます」

「あんなことがあった後だから国内も城内も慌ただしいけど、神子様はとにかく療養に専念いただくよう伝えてね。必要なものがあればいつでも言ってちょうだい」

「わかりました」

 胸に凝っていた錘が軽くなってきていたそのとき、侍女の一人が駆け寄ってきた。彼女は歓談中に立ち入ったことを詫び、王太子が急ぎの用向きでエミリアを呼んでいると告げる。

「まあ、どうしたのかしら」

「すぐに向かいましょう。お部屋まで送ります」

「ありがとう、お願いするわ。あなたも呼びに来てくれてありがとう」

 伝達に来た侍女にも丁寧に礼を尽くす従姉の姿に、次期国王の妃に選ばれるべくしてなった人だと改めて思う。

 大司教が逮捕された上、近く国王より長年に渡る隠蔽の事実が明かされることで、信心深き国民たちの心は大きく乱れることになるだろう。

 けれど、この人が王太子妃なら大丈夫。ヨハンはそう確信できた。


 エミリアを王太子の許へ送り届けて、ヨハンは再びキリエが療養する部屋へと戻っていた。

 相変わらずキリエは眠ったまま。怪我をしているため発熱を心配していたが、幸いその様子はなく、白い肌は依然としてひんやりと冷たいままだ。

 ただ待っていても埒が開かないので、ヨハンは寝台のすぐ近くの机に向かい、備え付けの便箋を卓上に広げ、ペンを手に取った。本来ならば時節の挨拶等を頭に書くべきだが、何分込み入った事情であることと、家族の誼で赦されると信じたい。

 用向きをしたためた便箋は十数枚に及び、折り畳んで封筒に仕舞うと結構な厚みになった。蝋で閉じた封筒の裏には自らの署名、表にはホーフハイマー子爵邸──ヨハンの実家の住所を記載した。

 ヨハンは呼び鈴で王城の使用人を呼ぶと、銀貨を一枚握らせた上でその手紙を至急記載の住所に届けてほしいと伝えた。使用人は快諾し、すぐに届けると言ってくれた。

 おもむろに窓の外を見れば、いつの間に陽が傾き始めている。暗くなる前に替えの蝋燭を取りに行こうかと思ったそのとき、部屋の扉が叩かれた。

『ヨハン、私だ』

 聞き慣れたその声は聖堂騎士団長のトマスのものだった。

 ヨハンが扉を開けると、その手には真新しい蝋燭を携えたトマスの姿があった。

「神子様の様子を見るがてら燃料を届けに来たのだが、入っても良いだろうか」

「わざわざすみません。どうぞ入ってください」

 ヨハンが招き入れると、トマスは静かな足運びでキリエが眠る寝台に近づいた。

「あれから変わりはないかい?」

「……はい」

 少し考えて、侍医から聞かされていることについては今は伏せることにした。

「侍医も、引き続き休ませて差し上げましょうと」

「そうか。悔しいが、今の我々にできることは、神子様の快復を祈るのみだからな」

 新しい蝋燭を受け取り、燭台で短くなっているものと取り替えながら、ヨハンはトマスから現在の聖堂騎士団の動向を聞かされた。

 グロリア大聖堂は当面の間王国騎士団の警備の管理下に置かれ、一般客の参拝は明日から再開する。現在空位の大司教の座には地方の聖職者を招き、任命を終え次第週に一度の典礼を再開する。但し、神子は不在の状態で。

 聖堂騎士たちについては今後、王国騎士団への復帰もしくは退役の選択を迫られる。どちらの道を選んでも、聖堂騎士団では禁じられていた結婚が解禁となるとのことだ。

「聖堂騎士団はどうなるのですか?」

「事実上、王国騎士団に併合されるものと私は見ている。此度の件は、元はと言えばクレドに権限が集中しすぎたあまり、国家が手出しできなくなったことで起きたことだ。陛下も王太子殿下も今後はそれを避けるべきとお考えのようでな」

 クレドの権力下で組織されていた聖堂騎士団を、国王の命令で動く王国騎士団に併合する。その上でグロリア大聖堂も王国騎士団の警備管下に置くことで権力のばらつきがなくなり、王国騎士団の戦力も増す。ヨハンも現在の国王の立場なら、同じようにするだろうと考えた。

「そうなると、今後キリエはどうなるのでしょうか」

「既にお力を失っている神子様を今のお立場に縛りつける理由はないだろう。このまま城内に保護されるか、王国の庇護のもと市井で過ごされるか、あるいはクレドのように聖職者に任じられるか……」

 だが、とトマスはヨハンを見据え、静かに訊ねた。

「君には何か考えがあるのではないのか?」

「……っ、それは……」

「先ほど廊下で手紙を持った使用人とすれ違った。何やら急いでいる様子だったが、あれはひょっとすると君が何かを用命したのではと思ったのだが、違ったかい?」

 豪胆さと柔軟さを併せ持った聖堂騎士団長は、観察眼も洞察力も鋭い。誤魔化すことはできないと判断し、ヨハンは正直に話した。

「……急ぎの相談で、実家に手紙を届けてもらっています」

「それは、神子様……いや、キリエ様に関わる相談か?」

「はい、そうです」

「……君とキリエ様の仲を詮索するつもりはないが、これだけは聞かせてほしい」

 口に出しはしないが、何らかを察しているらしいトマスは、真剣な眼差しで真正面からヨハンを射抜いた。

 聖堂騎士の身でありながら、キリエと関係を持ったことを咎められるのかもしれない。そして、それについて罰を下されるのかもしれない。かつてクレドの恋人であった第二王子のように。

 どんな罰でも甘んじて受け止めよう。そう覚悟を決めて、ヨハンはトマスに向き直った。

「君の忠義の心は『神子様』ではなく、『キリエ様』自身に向いていると考えて間違いないかい?」

「はい」

「それは一時の戯れではなく、この先ずっと──キリエ様の一生を背負う覚悟があると捉えて相違ないか?」

「──はい」

 答えに迷いはなかった。自分が聖堂騎士でなくなっても、キリエが神子でなくなっても、彼の傍にいたい。

 願わくば一番近くに、それこそ隣と言える場所に。

「その誓いを証し立てよと言えば、どうする?」

「それでしたらもう……」

 言おうとしたが、態度で示した方が的確だと考え、ヨハンはキリエが眠る寝台の傍らに歩み寄った。そしてその場に片膝をつくと、キリエの白くひんやりとした手を掬い取り、躊躇うことなく手の甲に唇を寄せた。

「もう既に、生涯の誓いを捧げています」

 ヨハンの証し立てを見届けたトマスは、納得したように頷いた。どうやらヨハンとキリエの関係を咎めるつもりはないらしい。

 では何故急にトマスがこんなことを言い出したのかと逡巡したとのとき、ヨハンの手の中の白い指が微かに震えたのを感じた。

 もしやと思い寝台の中を覗き込むと、キリエの睫毛と唇もまた僅かに動いていた。

「キリエ、わかりますか?」

 ヨハンの行動を見たトマスもまた血相を変えて寝台を覗き込む。

 キリエの意識が回復する気配を感じ取ったトマスは、ヨハンに「侍医を呼んでくる」と告げて部屋を飛び出していった。

 キリエと二人きりになってからもヨハンが辛抱強く名を呼び続けていると、やがて白い瞼がゆっくりと開かれた。まだ覚醒しきっていないのかぼんやりとしている様子だったが、何度か瞬くうちに碧の双眸がヨハンの姿を捉えた。

「ヨハン……」

 その声は小さく、掠れていたが、はっきりとヨハンの名を口にした。

 ようやく見られた瞳に、聞けた声に、一気に安堵が押し寄せる。

「良かった、目が覚めて……」

「ここ……どこ……」

「王宮の客間です。今トマス騎士団長が侍医を呼びに行っています」

 話しているうちに少しずつ意識が鮮明になってきたようで、キリエは今がいつなのか、どうしてここにいるのかとヨハンに訊ねた。ヨハンはキリエの心労にならないよう最低限の回答に留め、今は何も気にせず養生するように諭した。

 そんな会話をしているうちに、トマスが侍医を連れて戻ってきた。

 侍医はキリエの脈拍や体温を見ながら、現在の体調についていくつか問診する。キリエは懸命に応えるもののまだ体力が戻っていないようで、徐々に呼吸が乱れていくのが傍目にもわかった。

 侍医にも当然わかっていたようで、すぐに問診を済ませた。

「後ほど消化の良い食事と一緒に、体力を補う薬を届けさせます。そちらを召し上がったら、またゆっくり休んでください」

 侍医はそう言って足早に辞去していく。トマスはというと、引き続きキリエの傍につくようヨハンに伝え、国王と王太子にキリエの意識が戻ったことを報告しに行くと言って退室していった。

 再びヨハンと二人きりになると、キリエはふっと息を吐いて目を閉じた。

「食事が届いたら起こしますから、それまで少し眠ってください」

「ううん、大丈夫。それよりヨハン、もしかしてずっと傍にいてくれたの?」

「……四六時中というわけにはいきませんでしたが、基本的には」

「そうだったんだ……ありがとう」

 キリエの表情が和らぎ、微笑みを浮かべた。その微笑に、ヨハンの心もまた軽くなるのを感じた。

「ねえ、気になることがあるんだけど……」

「なんですか?」

「……クレド様は、今どうしてる?」

 話さなくて済むものなら黙っているつもりでいたが、仮にも育ての親であったクレドの処遇についてやはり気になるのだろう。

 ヨハンは知り得る範囲で、少しだけ言葉を選びながら答える。

「大司教……いえ、クレドはあのあと王国騎士団によって逮捕され、今は城内に幽閉されています」

 クレドは今や大司教ではなく重罪人だ。そう思い直して、ヨハンは敢えてクレドを呼び捨てた。

 クレドの罪状は神子への暴行と傷害、そして殺害未遂。神子の命に関わる罪がもっとも重いとされているこの国で、神子の一番近くにいた大司教がそれを犯したということになる。

 つい先日、伯爵夫人の画策によりキリエが襲撃される事件があったが、その後首謀者である夫人と下手人たちはすべて極刑に処され、伯爵家は爵位とそれに伴う権限をすべて剥奪された。通例に則れば、クレドにもこれらと同等もしくはそれ以上に重罰を課せられるだろうとヨハンは見通しているが、心身ともに疲弊している今のキリエにそれらを伝えるつもりはなかった。

「幽閉されている場所や今後については、私にもわからないのです」

「……そっか」

 キリエはそれ以上訊こうとはせず、思いに耽るように天井を見つめていた。

 やがてその瞳からは大粒の涙が溢れ、細い肩が震えだした。

「キリエ……」

 痛々しい姿になんと声を掛ければ良いのかわからずにいると、キリエは嗚咽混じりの声で懇願した。

「ヨハン……抱きしめて……」

 言葉で応える間もなくヨハンは寝台に腰を下ろし、縋りついてくるキリエを抱きしめた。何も言わずただしゃくり上げて泣く小さな背中を、黙って撫でることしかできない。

 キリエがクレドに対して何を思っているのかヨハンにはわからないが、無理に聞きだすつもりもなかった。キリエが話したくなったときに聞ければ良い、そう思って落ち着くのを待った。

 今は泣きたいときに泣いて、泣き疲れたら眠って、そうやって傷を癒していくとき。キリエの安寧のためならヨハンは何度でもこうして抱きしめる──そのために自分は傍にいるのだから。

「ずっと、貴方の傍にいます……」

 キリエの涙が止まるまで、ヨハンはその身体を抱きしめたまま背中を撫で続けた。

 これが、初めて二人きりで過ごす夜だった。


 翌日、国王自らの口から、五十年前の王家の過ちの事実が全国民と国外に齎された。

 五十年間の秘匿の責任を負う形で、国王は退位を宣言。同時に若き王太子の即位が言い渡された。

 プラエネステ王国に、新たな時代が訪れようとしていた。

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