6.薄闇
大聖堂内に激しい物音と怒号が響き渡ったのは、ヨハンが書庫で調べ物をしていたときだった。
すぐに手にしていた本を戻し書庫を飛び出すと、数名の聖堂騎士を伴った団長トマスと鉢合わせた。
「団長、今の音は」
「神子様のお部屋からだ」
そのとき、再びの怒声と何かが激しく打ちつけられる鈍い音が届いた。音がした方向には、キリエの部屋がある。
ヨハンとトマスは共にキリエの部屋へと向かい、閉ざされた扉の向こうへ呼びかけた。
「神子様! 如何なされましたか!」
「神子様!」
声を張り上げてトマスと聖堂騎士が扉の向こうに問うが、返事はない。
居ても立ってもいられずにヨハンは扉を叩きながら、人前であることも忘れてその名を叫んだ。
「キリエ! キリエ! 返事をしてください!」
扉を開けようにも、内側から施錠をされており開かない。
緊急事態と判断したヨハンは、扉に体当たりをして突破を試みた。
トマスはヨハンの行動を咎めず、隣にいた聖堂騎士たちにも助力するよう指示を出す。男たちの体当たりを受け続けた古びた木の扉は、ほどなくして打ち破られた。
「キリエ!」
真っ先に中に飛び込んだヨハンが見たものは、既に誰の姿も消え失せた空間だった。本来の部屋の主であるキリエの姿も、そこにはない。
「……っ!」
視線を落としたヨハンは、ある異変に気づいた。
床に、真新しい赤い跡があった。それは歪な軌跡を描き、おそらくは引き摺られたであろうことを物語っている。
まさかとは思う。でも、他には考えられない。
「キリエ……まさか、怪我を……!?」
「それは本当か?」
トマスの問いを、ヨハンは咄嗟に肯定できなかった。しかし、否定する材料もない。
「本来、キリエは身体に傷を負っても、神子の力ですぐに癒えるはずなんです。でも……」
「今はそれを考えている場合ではない。神子様はお怪我をされている可能性がある、それは間違いないな?」
毅然としたトマスの態度に、ヨハンは頷いた。とにかく今はなんとしてもキリエを見つけださなければ。
「団長!」
別の聖堂騎士が息せき切って戻ってきた。その表情は焦燥に彩られ、トマスと目が合うなり報告を口にした。
「クレド大司教様が、どこにもおりません!」
「なるほど、ついに動かれたか」
トマスはヨハンと同じ推測をしていたらしい。大して驚いた様子もなく、大きく頷いた。
トマスは別の二人の聖堂騎士の名を呼び、凛然と指示を飛ばす。
「お前たちはすぐに王宮へ伝令に走り、神子様の行方がわからなくなった旨と、大司教クレドによって連れ去られた可能性があることを伝えろ。その後は王国騎士団の指示に従い動け」
「はっ!」
指示を受けた聖堂騎士二人はすぐに王宮へと向かって駆け出していく。トマスはヨハン以外の聖堂騎士たちに、大聖堂内を再度隈なく探すように指示を出した。
残されたヨハンは、トマスと二人で部屋の中をもう一度確認した。この部屋から消えたということは、おそらくどこかに何らかの仕掛けがあるはずだ。
「君にも心当たりはないか? 隠し通路や、大司教様が神子様を連れて行きそうな場所とか」
「いいえ……すみません」
「謝る必要はない。とにかく、手掛かりを探そう」
トマスはいつものように冷静な口調でヨハンを宥め促した。ヨハンはとにかく冷静になろうとするも、心からは焦燥が消えていかない。視界に床の血痕が掠めるたび、いったい何が起きたのか、何故こんなにも血が流れているのかと様々な憶測が錯綜する。
ヨハンが再び血痕を視界に捉えたそのとき、視界の隅で何かが煌めいた。
腰を屈めると、それは寝台の下で存在を主張するかのように光を反射する。
「鏡……?」
拾い上げたそれは、手のひらほどの大きさの鏡だった。鏡面には叩きつけられたかのような亀裂が走り、一部分は装飾ごと砕けてしまっている。
床に落ちた鏡の欠片を目で追っていると、ヨハンはあることに気がついた。寝台の下にも、血の痕が残っていることに。
あまりにも不自然な残り方をしている血痕にすぐさま思い至ったヨハンは、近くの床を手当たり次第に触れる。鏡の欠片に導かれるように探っていると、寝台のすぐ下に張られた床板が妙に冷たいことに気づいた。
その板を力一杯押した瞬間、周囲何枚かの床板が同時に沈む。それらを力いっぱい滑らせると、重い音とともに人一人が通れるほどの大きさの空洞が姿を現した。紛れもない隠し通路だった。
「でかしたぞ!」
探し求めていたものの出現に歓喜の声を上げたトマスは、ヨハンと共にその中を覗き込んだ。古びた縄梯子で地上と地下を行き来する造りになっており、石の壁と地面が続く一本道になっている。この先に行けば、キリエとクレドがいることは間違いないはずだ。
「ヨハン、先に行って神子様を探してくれ」
冷静に素早く思考を巡らせるトマスはヨハンに指示を出す。
「私は大聖堂に残っている騎士たちを集めてから向かう。お前は先にこの中に入って、神子様を見つけ次第救出してほしい」
「わかりました」
もとより一人でも向かう覚悟だったヨハンは、躊躇うことなく首肯した。
卓上に備え付けられている燭台に火を灯し、それを携えて向かおうとすると、不意にトマスが訊ねた。
「神子様のお名前は、キリエ様とおっしゃるのか?」
「え?」
「さっき名前を呼んでいただろう」
「……はい。名前で呼んでほしいと言われていまして」
トマスに指摘されて今更気がついた。焦燥が先に立ち、人前であることも弁えずに名を呼んでしまっていた。しかし、トマスはそれを咎めることはしなかった。
「美しい響きの名だ。あの方によく似合う」
そう言うトマスの表情は優しく穏やかだった。まるで自分たちの関係を見透かしているのかと思うほどに。
「一刻も早く見つけて差し上げろ。きっと君を待っているはずだ」
「……はい!」
頼もしい団長に叱咤され、ヨハンは地下の隠し通路へと身を踊らせる。
奥へと続く長く暗い道は、まるでヨハンを呑み込もうとしているかのようだった。
◇
苦しい。痛い。──寒い。そう思って目を覚ますのは、いったい何度目か。
鮮烈な痛みに、キリエは落ちかけていた意識を無理やり引き戻された。
「……いっ……、あああっ……!」
短剣に切り裂かれた肩の傷に歯を立てられる。痛みに悲鳴を上げ、逃れようともがくたびに、両手に嵌められた枷に繋がった鎖がじゃらじゃらと音を立て、溢れた血が足元にまだら模様を描いた。
「もはや血に力は残っていない、か……」
不機嫌に呟くと、クレドは手の甲で口元についた血を拭った。
大聖堂の自室で意識を失ったキリエが次に目を覚ましたとき、この薄暗い石牢の中で両手足を鎖で繋がれていた。両手に嵌められた枷は天井から垂れている鎖と繋がっており、両腕を頭上に掲げる体勢を余儀なくされる。足にもまたそれぞれ枷を嵌められ、鎖は地面を伝って壁と繋がっていた。
枷を嵌めた張本人は、目の前にいるクレドだ。
いよいよ本性を表した美貌の大司教は、キリエの身体に次々に短剣を突き立てその血を啜り続けた。しかし、今までのように傷はまったく癒えていかず、癒しを得られないことに苛立ったクレドによってまた新しい傷をつけられる。傷ばかりが増え続け、身体からはどんどん血が失われていた。
貧血を起こして意識を失おうにも、また新たな痛みを齎されて引き戻される。纏っている白い祭服は短剣に引き裂かれて襤褸のようになり、ところどころが血で汚れていた。気を失うことも赦されないまま、キリエはクレドの暴挙を一身に受け続けていた。
──なぜこんなことに……戒律を破ったせい……?
そんなことをぼんやりと考えていると、クレドの手に乱暴に顎を掴まれ、顔を上げさせられた
「なぜ自分がこんな目に遭うのかとでも言いたげだな?」
薄闇の中、クレドの暗褐色の瞳が剣呑に眇められる。氷のように冷徹な眼差しがキリエを射抜き、それ自体がまるで刃のようだった。
顎を掴んでいたクレドの手が滑り、今度は首筋を捕えた。急所である頸動脈のあたりに爪を立てられ、本能的に身体が竦んだ。
「そもそもお前は、あの戒律の意味を考えたことがあったか?」
公平でなくてはならない、私欲に走ってはならない、恋をしてはならない。
それらは神子が万人に等しく、正しく力を振るうための規律だとばかり思っていた。だが、クレドの口振りから推し量るに、どうやらその認識は間違っていたようだ。
「あの戒律を定めたのは私だ。お前たち神子の力が失われないように、な」
「ど……して……」
「どうして? 決まっているだろう。私が絶えず神子の血を啜るためだ」
ぐっと、首を掴むクレドの手に力が籠った。みるみるうちに気道を圧迫される苦しさにから逃れようとするも、身体の自由を奪われているキリエに抵抗するすべはない。
「そもそも神子の力は、純潔の身体にのみ宿るものだ。その肉体の純潔が失われたとき、力もまた消える」
遠くに聞こえるクレドの言葉を聞きながらキリエは一人得心した。昨夜に自分はもう、神子ではなくなった。彼は愛を捧げてくれただけでなく、宿命からも解放してくれたのだと。
しかし、キリエの首を絞めるクレドの力は徐々に力を増していき、言葉はいつしか罵倒へと変わっていた。
「お前は戒律を破ってあの聖堂騎士に抱かれ、神子の力を失った! 神子としての務めよりも、男に抱かれることを選んだ淫乱が!」
まともに呼吸ができず、息苦しさに涙が滲む。せっかく神子でなくなったのに、結局このまま縊り殺されるのか……そんな考えがよぎったとき、クレドの舌が目尻を這い、涙を掬い取った。
「……やはり涙にも力は残っていないか」
落胆の響きを含んだ言葉と共に気道を解放され、一気に取り込んだ酸素に激しく咳き込んだ。ただでさえ血が失われているところに酸欠も加わり、酷い目眩と吐き気が襲ってくるが、両手を鎖に繋がれていて倒れることすら赦されない。
どうやらクレドはまだ諦めていないようだ。キリエが神子でなくなったことを知りながらも、血が駄目ならば他の部位から、なんとしても力の残滓を啜り取ろうとしている。
何故クレドはこんなにも執拗に神子の力を求めるのだろう。ただ癒しを受けるのではなく、まるで身体の一部を奪うような形で。
疑問はさまざま浮かんでくるが、キリエにはもう考える気力も体力も残っていなかった。
「気乗りはしないが、仕方ない」
嘆息混じりのその声は、どこか吐き捨てるような色を帯びていた。
クレドは右手をキリエの祭服の裾に入れ、無遠慮に奥へと侵入する。そのまま脚の間にあるものに触れられ、キリエは振り解こうともがくが、自由を奪われている身体で敵うべくもない。
「勘違いをするな。私が欲しいのはお前の種液だ」
脚衣を脱がされ、萎え下がった陰茎にクレドの指が絡む。クレドはキリエの種液に神子の力が残っている可能性に賭け、果てさせたのちに口にするつもりなのだろう。その光景を想像するだけでも悍ましく、全身に怖気が走る。
種液を求めて陰茎を扱くその手に快感を覚えるはずなどなく、嫌悪感しか湧いてこない。
「や……やめ、て……」
「あの聖堂騎士にもこうして慰められたのだろう? お前の愛する男……ヨハンと言ったか? 彼奴の手と思って果てればいい」
もう二度と、あの男に抱かれることはないのだから。そう冷淡に吐き捨てたクレドは、無慈悲な動きで手を上下させる。
「や、だ……、いやぁ……っ……!」
抵抗して身体を捩ろうとするたび、鎖が重く擦れる音だけが鳴り響く。
どうかこの音に気づいて。助けに来て。脳裏に浮かぶ男の幻影に向かってそう願うが、冷酷な声がそれを打ち砕く。
「諦めろ。この牢の存在を知るのは私とあの御方だけだ。誰にも辿り着けやしない」
絶望が、キリエの心を侵していく。
万が一種液に力が残っていたなら、牢に繋がれたままこうしてクレドに陵辱される日々が続いていく。
力を得られなかったときはおそらく、クレドはキリエを用済みと判断し、持っている短剣で殺すのだろう。クレドがキリエを生かしておく理由はもはやないのだから。
どちらに転んでも、その先で待ち受けているのは絶望の闇。
ヨハンと対等に愛し合うことができる。この身体ならそれができるはずなのに、クレドはそれを絶対に赦そうとしない。
凍りついてしまったかのように、もう涙すら出ない。
「強情な……さては後ろの方が具合がいいのか」
一向に快楽を兆さないキリエに業が煮えたのか、クレドは陰茎を解放するとさらに奥の方へと手を伸ばす。
クレドの手が後孔を弄り、指を沈めようとした──そのときだった。
「キリエ──!」
薄闇の向こうから響く聞き慣れた声。
キリエの名を呼ぶ、たった一人の男の声が届いた。
◆
蝋燭の小さな灯りだけを頼りに、ヨハンは足早に地下道を駆ける。この道に飛び込んである程度は進んできたはずだが、相変わらず変わり映えのしない一本道が続いている。
絶えず足を進めながら、ヨハンはこの道に既視感を覚えていた。初めて来た場所のはずなのに、空間を造る石の質感にも、そして肌に触れる空気にも覚えがある。
「もしや、王宮への地下通路……!」
数日前、キリエに随伴した際に通った王宮と大聖堂と繋ぐ地下通路。それと造りが似通っていることに気づく。その昔、王族が王宮から脱出するために造られたと言い伝えられ、現在は神子が王宮に通うために用いられているこの地下通路は、その秘匿性ゆえに大聖堂関係者にも必要最低限……大聖堂裏手から続く通路の情報しか与えられていない。
しかし、クレドはそれとは別にこの通路を知っていた。それがはたして何を意味するか──そんな思考がヨハンの脳裏をよぎったそのとき、奥の方から何かが反響する音が耳に届いた。
少しずつ近づいてくるその音は、金属が擦れるそれに似ている。ひっきりなしに響くその音に重なり、うっすらと声が聞こえてくる。
「……ろ…………この牢の存在を知るのは私と……………辿り着けやしない…………」
近くにいる。そう直感した瞬間、ヨハンは思惟をかなぐり捨てて駆け出した。
薄闇に慣れた目が迷うことなくヨハンを導く。頻りに届くその音はまるで助けを求める悲鳴そのものに聞こえた。
音と声がやがて明確になって届いた瞬間、ヨハンは声を上げていた。
「キリエ──!」
角を曲がった瞬間、開けた空間に出た。同じく石造りの半円状の広い空間を分断するように鉄格子が組まれたそれは、まさに石牢だった。
開きっぱなしになっている鉄格子の扉の向こうに、人が繋がれている。天井と壁からから伸びる鎖に両手足を捕らわれ、ほっそりと華奢な身体に纏う祭服に血を滲ませている。
あまりにも痛々しいその姿を目の当たりにし、駆け寄ろうとしたヨハンを、冷酷な声と刃が押し留めた。
「そこを動くな、聖堂騎士」
キリエの喉に短剣を突きつけたクレドは、ヨハンを真正面から迎えた。
鎖に繋がれ血に汚れたキリエの惨状を目の当たりにしたヨハンは、激情のままにクレドに喰ってかかった。
「大司教……やはり貴方が!」
「よくここを見つけたものだ。さすがは聖堂騎士、鼻が利くと褒めておこうか」
不遜に微笑む大司教クレドは、もはやヨハンの知る人物ではなくなっていた。
キリエを盾にされては身動きの取れないヨハンは、その場から毅然とクレドを睨み据えた。
「キリエを離してください」
「聞けない相談だ。私はまだ神子に用がある」
「トマス騎士団長が、間もなく他の聖堂騎士たちを率いてここに来ます。貴方一人で聖堂騎士団を相手取るのは分が悪いのでは?」
「脅しのつもりか? 神子がこちらにいるというのに」
短剣を閃かせ、クレドはその刀身でキリエの顎をくいと持ち上げてみせた。
クレドはキリエを盾にこの場を切り抜ける魂胆のようだ。その態度は悠然としていて、まるで揺るがない。
このままでは動けない。どうにかクレドの隙を突くべく、ヨハンは薄闇の中で全神経を集中させる。
「貴方がキリエの身体から血を啜っていたことについては、私とトマス騎士団長も知っています。このことを王国に報告すれば、貴方もただでは済みませんよ」
「今度は王国の名を笠に着て脅すか? だが生憎、王家は私の味方だ。少なくともこの五十年余りはな」
五十年という歳月にあらゆる疑念が首を擡げる。
なぜ王家がクレドの味方をする保証があるのか。そしてその間、なぜクレドは若い姿を保っていられているのか。
ヨハンを睥睨していたクレドは、その瞳をキリエへと移した。喉笛に据えた短剣は離さないままに、うっそりと微笑む。
「その美しさも成れの果ても、私が世話してきた神子たちの中で、お前はもっとも私に似ているな」
「どういう……ことです?」
疑問の声を上げたのはヨハンだった。
クレドはくつくつと喉の奥で笑うと、再びヨハンを睨み上げた。
「ここに辿り着いた褒美に教えてやろう。──五十年ほど前、かつて私も神子だった」
「なっ……!?」
思いがけない真実に、ヨハンは勿論、キリエもまた驚愕しているようだった。しかし、これだけではなかった。
「だが力を失った。この神子と同じく、身体の純潔を失ったことによってな」
「身体の、純潔……」
「思い当たる節があるようだな?」
クレドに問われ、ヨハンは言葉を失った。クレドの言葉を信じるなら、キリエはヨハンと身体を繋げたことによって、神子の力を喪失したということになる。
そして、かつて神子であったクレドもまた同様にして、神子の力を失ったと。
クレドは再びキリエに視線を移し、己の過去を語り続けた。
「私を憐れんだ当時の大司教と国王は、私を司祭の座に据え、新たな神子の世話係に任じた。初めて世話をした神子は活発な子どもで、毎日身体中に傷を作っていた」
薄闇の中で、クレドの瞳が冷たく光る。語られる過去の顛末を物語るように。
「転んで擦り剥いた神子の膝を拭いながら、私は考えた。──どんなに傷ついてもすぐに神子の身体を再生するこの血を飲めば、私にも力が戻りやしないか、と」
聞きながら、すうっと頭の芯が冷えていくようだった。
ヨハンもキリエも知っている。クレドが神子の血を躊躇なく啜る人物であることを。
「指で拭い取ったその血は、驚くほどに甘美だった。力こそ戻りはしなかったが、もともと神子であった私にはわかった」
神子を死神へと変貌させたもの。
かつて神子と崇められた大司教は嗤笑する。
「神子の身体に流れる聖なる血は、不老の妙薬。この血によって神子の身体は無傷を保ち、口にした者には若さと健康を与えるのだと」
これが、大司教クレドの若さの正体。
神子たちの血と命によって贖われた、偽りの美。
「貴方は自らの若さと美しさのために、神子たちを犠牲にしてきたのか!」
「あの御方に再び振り向いていただくためならば、私はどんなことでもする。若さと美しさを保ち続ける私の噂は、きっと届いているはず」
ヨハンの咎めなど意に介さず、クレドは強い言葉と眼差しで睨み返す。
世話を任された神子たちを犠牲にしてまで若さと美しさに執着するクレドの目的が、未だに見えない。
「貴方は、いったい誰を待っているのですか?」
「お前などに聞かせる理由はない」
クレドは冷たく跳ね除けると、再び強く短剣を握り締め、キリエの喉笛に刃を据えた。
「話しは済んだ。神子が目の前で殺されたくなければ、ここから去れ」
「できません。愛する人を置いていくなど、できるはずがない」
「ふ……神子と恋仲であると、聖堂騎士自ら認めるとは。──だが」
クレドは右手で短剣を据えたまま、左手をキリエの祭服の裾へと忍ばせる。その瞬間、キリエが悲痛な声を上げた。
「やっ……、あぁ……っ!」
「キリエ!」
クレドの意図を察したヨハンは、すぐにでもキリエを救いに飛び出そうと身構える。だが、またしてもクレドの冷酷な声が押し留められる。
「動くな」
短剣を閃かせながらクレドはキリエの下肢をまさぐり続ける。クレドは目の前でキリエを陵辱することによって、ヨハンの戦意を削ぐつもりのようだ。
「神子の身体は前では達せないように、お前に躾けられているようだな?」
「貴様……!」
「愛しい神子が辱められる様なぞ、見たくあるまい?」
勝ち誇った表情を浮かべるクレドに、ヨハンは奥歯を噛み締めるしかない。
いったいどうすれば……逡巡していたそのとき、小さな声が聞こえた。
「こんなことをしても……意味なんてない……」
声の正体は、キリエだった。気力も体力も限界にきているのだろう、その声は小さく途切れ途切れで掠れている。
しかしキリエは静かにクレドを見据え、訥々と語り続けた。
「僕の身体には、もうどこにも神子の力なんて残っていない……本当は貴方もわかっているでしょう……?」
「……それを確かめているのだ。そのために、お前の種液を」
「貴方と同じように、僕も神子だったからわかる……僕の身体にはもう……神子の力なんて少しも残ってない……」
逆上を誘われるがまま、短剣を持つクレドの手が震えてくる。
これ以上言い募るのは危険だと叫ぼうとしたとき、クレドの絶叫が石牢に響き渡った。
「黙れ!」
クレドが短剣の刃を押し込んだ。
走り出しそうになったとき、キリエが一瞬だけこちらに目を配せた。
あと少しだけ待って。そうすれば──。
「……!」
そういうことかと、ヨハンはキリエの意図をようやく理解した。
「確かに僕と貴方は似ているのかもしれない……けど、一つだけ絶対に違っていることがある」
微かに雑踏が耳に届く。その瞬間、ヨハンはいつでも動けるように身構える。
キリエは望みを捨てていない。そして、ヨハンを信じてくれている。
ヨハンもまたキリエを信じて、見届ける。
「僕は貴方みたいに、誰かの命を犠牲にしたりなんかしない……貴方の美しさは偽物だ……!」
「黙れええええ!」
激情のままにクレドが短剣を振り翳した刹那、大きく隙が生じたその身体にヨハンが体当たりを仕掛けた。受け身を取り損なったクレドの身体は大きく突き飛ばされ、その拍子に手から離れた短剣が床に落ちる。
すぐさま短剣を遠くへと蹴り飛ばしたヨハンは、丸腰になったクレドを床に抑えつけながら声高に叫んだ。
「トマス騎士団長! こちらです!」
「間に合ったか!」
聖堂騎士たちを従えたトマスが姿を現した。聖堂騎士たちが持つ松明によって辺りが明るく照らし出される。
クレドの身柄をトマスに任せると、ヨハンは一目散にキリエの許へと駆け出した。
「キリエ!」
キリエの両手を拘束している枷を外すと、支えを失った身体はたちまち崩れ落ちた。
ヨハンはその細い身体を両腕で受け止め、そのまま強く抱きしめる。ようやく感じることができたそ体温と感触に、一気に安堵がこみ上げる。
「遅くなってすみません……」
「……ん、ううん……」
ヨハンの肩口に顔を埋めたキリエが小さく首を振る。ヨハンの衣服を掴むその手はかたかたと震えていて、どれほど心細い思いをしていたかがそれだけで伝わってくるようだった。
しかし、それでも尚キリエは気丈に振る舞う。
「来てくれるって、信じてた……ヨハンならきっと気づいてくれるって……」
「貴方の鏡と血が教えてくれたからです。それよりも、怪我をしているのでは?」
「うん……治らなく、なっちゃった……」
「早く地上に戻って手当てをしましょう。今頃も王宮も動いているはず……」
言いかけていたそのとき、ヨハンの胸にかかる重みが増し、衣服を掴んでいたキリエの手から力が抜けた。
「……っ! キリエ!」
ぐったりと力を失うキリエの身体を支えながら、ヨハンは何度も名前を呼ぶ。
薄暗い石牢に、応えのない呼び声が虚しく響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます