4.傷痕

 エミリア王太子妃が無事に第一子となる王子を出産したのは、キリエとヨハンが王城を訪れてから四日後のことだった。

 世継ぎの誕生と、懐妊以来病がちだった王太子妃が健やかに過ごしているという報は国中に大々的に齎され、今や歓喜の坩堝と化した国内は祭り騒ぎの大賑わいとなっていた。

 国内が祝福に湧く一方でグロリア大聖堂にもまた、王子の誕生を祝い感謝の祈りを捧げる大勢の民たちが連日訪れていた。

 そんな様子を、キリエとヨハンは隠れた場所から覗き見るようにしていた。

「凄いね。典礼のときと同じくらいの数の人たちが毎日来てる」

「仲の良い王太子ご夫妻の待望のお子様ですからね。誰もがこの日を待ち望んでいたことでしょう」

 基本的に大聖堂の中から出ることがない神子であるキリエは世俗や風習に疎く、そのため此度の王子の誕生に関してもいまひとつの反応だ。

 しかし、キリエにとってより重要なのは、王子の誕生そのものではないとヨハンは考えている。

「王子はキリエが王太子妃殿下を癒したことで生まれることができました。きっとこの先、両殿下は王子にこのことをお伝えになられるでしょう」

「そうなのかな」

「きっとそうです。両殿下と王子をお救いになられることは、この国を救うことに繋がります。あなたはこの国の未来を救われたのですよ」

 熱っぽく語るヨハンを、キリエははにかむような笑みを浮かべながら見つめた。かつてならば知ることがなかったであろうキリエの朗らかな表情に、ヨハンは心が洗われるような思いだった。

「ねえ、書庫に行かない? 昨日の続きを教えてほしいな」

「もちろん喜んで」

 キリエに乞われるまま、ヨハンは並んで書庫へと足を向けた。


 ヨハンが正式にキリエの近侍に任命されてからというもの、キリエは時間が空けば頻繁にヨハンの許を訪れるようになっていた。

 崇拝と敬慕の対象である神子が、一介の聖堂騎士に過ぎないヨハンの名を呼んで傍に置こうとするその姿に、ヨハンの同僚である聖堂騎士たちは最初驚きを隠さなかった。

 キリエはキリエで、結果的にヨハンを独占する形になってしまい差し支えはないかと憂慮していたようだが、聖堂騎士団の好意的な反応を見て、嬉しそうに笑っていた。

「今度、聖堂騎士団の宿舎に行ってみたいな。皆と直接会ってみたい」

「わかりました。団長に私から話してみましょう。きっと皆、喜んで迎えてくれるはずです」

 そんな約束を果たしたヨハンが後日、騎士団の宿舎にキリエを連れて行き、大歓迎をされたのはまた別の話だ。


 国内が賑々しい空気に包まれたまま、週に一度の典礼の日が巡ってきた。

 王子誕生のめでたい風潮も手伝ってか、今日の典礼もまた前回を上回る数の人々が押し寄せていた。

 いつものように、キリエとクレドは典礼用の祭服を纏い、壇上に上がっていた。

 聖堂騎士たちもまた典礼用の正装に身を固め、祭壇の左右を固めるように騎士団長と副団長が立ち、残る騎士たちは大広間を囲むように整列していた。

 ヨハンの立ち位置は、祭壇を真横から見据える場所を充てがわれていた。神子の近侍であるヨハンをなるべくキリエの傍につかせるためにとの、騎士団長の采配だった。

 采配という名の心遣いをありがたく噛み締めながら、ヨハンは壇上のキリエに視線を注ぐ。華やかな祭服と細い冠を身につけたキリエは、神々しいほどの美しさだった。身じろぐたびに輝く白金色の髪と、抜けるような白い肌もまた、その神秘性を引き立てている。

 これほどの美しさと素直な心を併せ持つ人は、世界中のどこを探したっていないだろうと、ヨハンは心の底から思う。

「我らが主である神より、恵みと平安が、私たちにありますように」

 クレドの祈りの言葉を唱え、典礼が始まった。

「めでたきことに、つい先日、王子様がお生まれになられました。この喜ばしい報が齎されたのち、大変多くの方がこの大聖堂に訪れ、祈りを捧げていらしたのを目にしました。大変尊いお気持ちと行いだと、私はそのように思いながら、皆様のお姿を見ておりました」

 聞き取りやすい明瞭な声色でクレドは語る。大聖堂の中に朗々と響き渡るその声に、民たちは一心に耳を傾け聞き入っている。

 若々しい美貌だけではなく、見る者を惹きつけて離さない不思議な魅力がクレドには備わっていた。

 ふと、語り続けるクレドの隣に立つキリエの身体が、ふらりと揺れたようにヨハンには見えた。よくよく目を凝らすと、色白だとばかり思っていた頬からは、血の気が引いている。明らかに様子がおかしい。

 ヨハンはすぐさま、祭壇の門番を務める騎士団長トマスに目線を配せ、目が合うなり唇の動きだけでキリエの異変を伝えた。頼りになる騎士団長は、すぐに反応して祭壇の上を見遣る。

「今日は改めて、このプラエネステ王国の興りについて、お話ししたいと思います」

 ヨハンがキリエを祭壇から降ろす算段を練っていたのも束の間、キリエの身体が大きく傾いだ。突然頽れた神子の姿を目の当たりにした民たちから、どよめきと悲鳴が上がった。

「キリエ!」

 ヨハンの叫び声は、民たちの混乱の喧騒に掻き消されていた。半ば飛び乗るようにして祭壇に上がり、倒れたキリエに駆け寄った。

「キリエ、キリエ、どうしたんだ!?」

 ヨハンは抱き起こしたキリエの頬を軽く叩くが、紙のように白い瞼は閉ざされたままままぴくりとも動かない。

「神子様が倒れられた!」

「いったい何が起きている!?」

「王子様が生まれたばかりだというのに、不吉だわ!」

「皆さん、どうか落ち着いてください!」

 クレドが壇上から声を張り上げて民たちに語り掛けるが、この声もまた掻き消されてしまい、届かない。

 大混乱に陥り始めている民たちを宥めるために、聖堂騎士たちも動き回っていた。

「ヨハン」

 喧騒と混乱の中、ヨハンの耳に毅然と名を呼ぶ声が届いた。騎士団長のトマスだ。

「神子様を部屋にお連れし、傍につけ。ここは我々がなんとかする」

「わかりました」

 沈着冷静を崩さないトマスの態度に、ヨハンの思考もまた落ち着きを取り戻した。今はとにかく、キリエを休ませなければ。

 ヨハンはキリエを抱え上げ、足早に大広間を後にした。背にした大扉越しに、混迷の声を聞きながら。


 ◇


 キリエの部屋は大聖堂の中でも大広間からもっとも離れた位置にある。

 何度も二人で時間を過ごした中庭を横目に通り過ぎ、途中すれ違いざまに悲鳴を上げた小間使いに、水差しと水を張った桶と手巾を用意するように伝え、ヨハンはキリエを部屋に担ぎ込んだ。

 部屋の隅にある質素な寝台の上にキリエを下ろすと、ヨハンは改めてキリエの容体を確かめた。

 可憐な相貌からはすっかり血の気が失せてしまっているが、特に発熱している様子はない。しかし呼吸が浅く、脈拍が弱いのが気掛かりだ。

「う……」

 意識のないキリエが、何やら苦しそうに喘鳴を漏らした。どうやら祭服のまま横になっているせいで、呼吸がしづらいようだ。

 ヨハンはキリエの祭服の首元を緩めるため、上から釦をはずしていく。

 しかし、露わになったキリエの膚に、ヨハンは絶句した。

「……っ! なんだ、これは……!」

 瞬きも忘れて、ヨハンはそれに見入る。

 露わになったキリエの膚……胸や肩の辺りには、数えきれないほどの傷痕があった。

 それも、ただの傷痕ではないことは、剣や応急手当てを心得ている聖堂騎士のヨハンには、一目瞭然だった。

 真っ直ぐに皮膚を裂くこの傷は、鋭利な刃物によるものであって、事故による傷とは考えにくい。となると、意図的につけられた傷と考えるのが自然だった。しかし、誰が、何の目的で、そしてこのような夥しい数を?

 思考に耽っていると、先ほどの小間使いが指示通りに三つの道具を揃えて持ってきた。

 それらを受け取りながら、ヨハンは典礼の現状について訊ねた。

「大広間の状況について、何かわかるか」

「未だ混乱が収まっていません。大司教様が手を尽くしておられますが、時間が掛かりそうです」

 王子誕生の祝賀に国中が湧いている中で、典礼中に神子が倒れたなどと知れ渡れば、信心深いプラエネステ王国の民たちによってあっという間に国中に焦燥が広がるだろう。流言による被害を最小限に抑えるためにも、クレドは集まった民たちを説得する必要がある。

 ヨハンは小間使いを下がらせ、ひとまずキリエの額と首筋、そして傷だらけの胸元を拭う。しかし、キリエは目を覚さない。

 ならばとヨハンは、水差しの水を数滴キリエの頬に落とすと、ようやく白い瞼が震えた。

「キリエ、わかりますか?」

 ヨハンが呼び掛けると、キリエは瞼を持ち上げ、しばらくぼんやりと虚空を見つめていた。

「ヨハン……僕、どうして……」

「典礼中に突然倒れたのです。そのため急遽こちらにお運びし、お部屋に失礼しています」

「そう……僕、倒れちゃったんだ」

 大して驚きもしない様子で、キリエは嘆息混じりに呟いた。

 思いのほか冷静な態度のキリエにヨハンは驚いていたが、努めて平静は崩さずに振る舞った。

「気分はどうですか? 水でしたらここにありますよ」

「……もらってもいい?」

 キリエが上体を起こすのを手伝い、ヨハンは水差しの中の水を杯に移し、キリエに差し出した。

 杯の中が空になる頃合いを見計らい、ヨハンは引っ掛かっていた疑問を口にした。

「キリエ、あなたを休ませるにあたって、祭服を少し緩めさせていただきました。その際に見えたのですが……」

 それだけを聞いてすぐに意味を理解したのか、キリエの表情が一瞬で強張った。手に持っていた杯を落とすのも構わず、ヨハンに見られた後だと知りながらも、慌てて胸の前に祭服を掻き合わせる。

「その身体の傷はなんですか。殆どが古い傷のようですが、新しいものもいくつかあるように見受けました」

「……っ、これは……」

 自らの身体を掻き抱くようにしながら、キリエはヨハンから視線を逸らす。言うべきか、言わざるべきか、葛藤が碧い瞳に滲んでいる。

 ヨハンは立て続けに、もう一つの疑問を口にした。

「王太子妃殿下を癒した日の夜、あなたは大司教様の部屋に呼ばれ、その後中庭で動けなくなっていました。あの日の夜ことと、今回あなたが倒れたことには、何か関係があるのですか?」

「…………」

 キリエは唇を噛んで俯いていた。何か言いたげで、でも言えない。そんな思いが、キリエの態度から見て取れる。

「キリエ、私はあなたの力になりたいのです。話すことで少しでも楽になるのでしたら、どうか胸の内を聞かせてください。私はそれで、あなたを軽蔑したりしませんから」

 祭服を握りしめるキリエの手に、自らの手を重ねて、ヨハンは囁くように言った。強く握られていたキリエの手から、力が抜ける。

「……この、傷は……」

 震える声と唇で、キリエがおずおずと語り出す。一言も聞き漏らすまいと、ヨハンは神経を研ぎ澄ました。

「この傷は……毎晩クレド様に、血を差し上げるときに……」

「大司教様が? 血を差し上げるだなんて、まさか」

「クレド様は長いこと重い病気を患っていらして、ただの癒しでは治らない。だから、毎晩こうして皮膚を裂いて、血を飲んでもらうことで……」

「癒しを与えている、ということですか」

 最後を引き取って訊ねるヨハンに、キリエは頷く。まさかあのクレドが重病を患っていて、癒しのためにキリエの血を利用していたなど、まったく想像がつかない。

「大司教様のご病気とは、どのようなものなのですか」

「わからない。でも、僕の血がないと苦しくて眠れない、って」

「……いつから、そのように血を?」

「僕がこの大聖堂に引き取られたときから、毎日欠かさず。先代の神子からももらっていたって聞いてる」

 大聖堂の長であるクレドが、まさか神子の血を啜ることで癒しを得ていたなど、ぞっとしない話だ。そのために夜ごと膚を切り裂かれ、流れる血をクレドに差し出すキリエを思うと、胸が締めつけられる思いがした。

 すると、キリエは自ら祭服の前を寛げ、胸元を露わにした。本来ならば白く美しかったであろうその膚には、痛々しい無数の傷痕が刻まれている。

 これらすべて、キリエの育ての親であるクレドが血を啜るためにつけた傷だと思うと、ヨハンの胸中はやりきれなさとクレドへの怒りでいっぱいになった。

「……これが、昨晩の傷」

 胸にある傷を示しながら、キリエは言った。ヨハンが見てみると、確かに他の傷よりも痕が濃く、皮膚が盛り上がっている。しかし、一晩経ったばかりの傷にしては塞がるのがあまりにも早いように思えた。

 すると、ヨハンの考えを見透かしたように、キリエが答えた。

「神子には癒しの力の他に、傷や怪我の治りが早い特徴があるんだ。この程度の切り傷ならすぐに塞がって、一晩でここまで快復する」

 それは、ヨハンも知らなかった神子の真実だった。おそらく、この力があるために今までクレドの所業が表に出なかったのだろうと、ヨハンは推測する。こうも毎日傷をつけられているであれば、通常ならば化膿を起こす傷も出てきて、体調に異変が生じてもおかしくないはずだ。

 次から次へと驚きの事実が明らかになるが、まだ疑問が残っていた。

「あの日の晩、中庭で動けなくなっていたのは……」

「クレド様に血を分けた後だったから。癒しの力を使うと毎回疲れるけど、血を分けた後は特に」

 あの日は王太子妃も癒していたこともあり、かなりつらかったとキリエは苦笑する。

「でも、ヨハンが助けに来てくれたから、結果的に良かったのかもしれないね。あんなことがなければきっと僕たち、今みたいに話せていなかったもの」

 自嘲混じりに微笑むキリエを、ヨハンは思わず抱きしめていた。

 キリエがはっと息を呑む気配が、ヨハンの耳元を掠めた。

「馬鹿なことを言わないでください……あなたがこれまで負ってきた痛みや苦しみは、私と会えたことなんかでは癒されないはずです」

 初めから神子の力などなければ、キリエが苦しむことはなかった。そこまで考えて、ヨハンは自らの愚かさに気づく。

 神子の癒しによって命を繋いだ母から生まれ、神子に仕えるために聖堂騎士になった身で、いったい何を言えるというのだろう。あまりにも矛盾している。

 それでも、ヨハンは考えてしまう。どうすればキリエを、この呪縛から……神子の役目から解き放てるのだろうかと。

「……あのね、ヨハン」

 思考に耽るヨハンの思惟を、キリエの細い声が引き戻した。

「実はもう一つ、神子の力について、伝えないといけないことがあるんだ」

「え……?」

 腕を解いて解放すると、キリエはまっすぐにヨハンを見つめて口を開く。

「実は、神子の力は──」

 キリエが話そうとしたそのとき、部屋の扉を叩く音が遮った。

『神子、起きていますか?』

 訊ねる声と共に、扉が開く。そこには、美貌に焦燥を滲ませた大司教が立っていた。

「……っ、クレド様……」

「ああ良かった、目が覚めたのですね。とても心配していたのですよ」

 優しい声色で、クレドはひとまずキリエの無事に安堵していた。毎晩神子の血を啜っているとは思えない、優しく朗らかな微笑みで。

 クレドはキリエの傍らにいるヨハンに目線を向けると、労いの言葉を掛けた。

「貴方もご苦労でした。あとのことは私が引き取りますので、下がって結構ですよ」

「いえ、私は」

「クレド様、典礼はどうなったのですか」

 ヨハンを追い出されまいと、キリエは被せるようにしてクレドに訊ねた。そのとき、ヨハンには一瞬、クレドの瞳に冥い翳りが見えたような気がしたが、すぐにいつもの柔和な笑みによってかき消された。

「どうにか事なきを得られそうです。此度の王太子妃様のご出産にあたり、神子もまた力を尽くしていたため、その疲れが出たのだと話したところ、納得してもらえました」

 クレドの所業を知った今、ヨハンはその言葉を怪訝に思いながら聞いていた。真実は、夜毎キリエがクレドに血を捧げていることで負荷が掛かっていたことが原因なのではないか、と。

「きっと疲れが溜まっているのでしょう。今日は一日ゆっくり休みなさい。歩き回ったりしてはいけませんよ」

 クレドは柔らかくも強い口調でキリエに言うと、その傍から離れようとしないヨハンに視線を投げた。

「貴方も、宿舎にお戻りなさい」

「猊下、私はこのまま神子様のお世話を」

「先ほど言ったことが聞こえませんでしたか。神子はこれから休むのですから、侍る必要はありません」

「ですが」

「神子が休む前に二人で話すことがあります。はずしなさい」

 最後は殆ど追い出さんとするばかりの口調だった。

 ここで下手を打ってキリエの傍にいられなくなることを危惧し、ヨハンは従うことにする。

「……御用のときはいつでもお呼びください」

 クレドの前であることを考慮して、ヨハンはキリエに対しても敢えて臣下の振る舞いを取った。

 本当は行かないでほしい。そう訴えるキリエの眼差しに後ろ髪を引かれる思いで、ヨハンは神子の部屋を引き取った。


 ヨハンを部屋から弾き出し、彼の気配が遠のいたことを確認したクレドは、部屋に閂を掛けた。

 振り返ると感情の消えた相貌で寝台の上のキリエを見据え、淡々とした口調で訊ねた。

「近頃、あの聖堂騎士とよく一緒にいるようですね」

「は、はい……先日護衛についてくれたことを機に、歳が近いこともあって、よく話し相手になってくれています」

 キリエの弁明にも、クレドは表情を動かさない。歳の近い者との交流を喜ぶこともなければ、だからといって咎めるような気配もない。しかし、

「神子の戒律を忘れてはいませんね?」

 その名を聞き、キリエははっと息を呑み込んだ。

 公平でなくてはならない、私欲に走ってはならない、そして恋をしてはならない……神子に架せられた三つの戒律が、今更のようにキリエの心に重くのしかかる。

「今一度、自らを顧みなさい」

 典礼中の朗々とした声色とは打って変わった冷たい声で、クレドは吐き捨てる。

 するとクレドは懐から短剣を取り出し、さっと鞘を引き抜いた。

「……っ、や……!」

 何をされるのか瞬時に悟りキリエは身を引こうとするが、それよりも早くクレドに寝台の上に押さえつけられた。細身からは想像がつかない膂力で押さえ込まれ、キリエは身動きが取れない。

「いや……いや……! 放して!」

 必死にもがくキリエの首筋に、冷たい短剣の刃が据えられる。膚を裂かれる痛みと血を啜られる恥辱が一気に脳裏をよぎり、キリエは惑乱した。

「やはり、貴方はわかっていないようですね」

 足掻くキリエの姿を見て尚、クレドの声色は氷のように冷たかった。

 短剣の刃がキリエの首筋を裂いていく。ほとんど急所とも呼ぶべきそこを切り裂かれ、本能的な恐怖にキリエの身体は竦んだ。

 裂けた首筋から溢れた血をクレドの舌が舐め取り、音を立てて啜っていく。

「やっ……、やめてくださ……」

「前にも言ったでしょう? 貴方は神子、そこらにいるただの人間とは違うのです。そして、私を癒せるのは貴方だけ」

 唇が離れた刹那、再びあの冷たい感触が首筋に触れた。クレドはもう一度血を啜ろうとしているのだと悟り、キリエは氷の手で心臓を掴まれたような錯覚に陥った。

「お、ねがい……やめて……」

 震える声で懇願しても、クレドの手は止まらなかった。

 刃がキリエの首筋を滑る。血が、力が、溢れていく。

「────……っ!」

 もはや悲鳴すら上げる力もキリエには残されていなかった。血と共に流れていく力はすべて、啜られるままにクレドへと注ぎ込まれていく。

「いい子ですね……私の神子……」

 喜悦と恍惚を声色に滲ませて、クレドは執拗にキリエの首筋を蹂躙する。結局抗うことは叶わず、キリエはクレドに血を捧げていた。

「……っ……」

 ここにはいない彼の名前を唇で紡ぐ。助けてほしい、さっきのように抱きしめてほしい。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。

「…………っ……」

 もう一度その名を呟いた刹那、視界が滲み、涙が溢れた。身体がどんどん冷たくなって、意識が遠ざかっていく。

 流れていく血と失われていく力を感じながら、キリエは嗚咽を殺し、目を閉じた。


 ◆


 聖堂騎士団の宿舎に戻ったヨハンは、既に戻っていた同僚たちから神子の安否を訊ねられた。あれから無事目を覚まし、今日は一日ゆっくり療養する旨を伝えると、皆安堵で胸を撫で下ろしていた。

 落ち着いた頃合いを見て、ヨハンは騎士団長のトマスを呼び止めた。

「すみません、団長にお尋ねしたいのですが」

「なんだい?」

「大司教猊下が長いこと病を患っていることを、ご存じでしたか?」

 ヨハンが訊ねた瞬間、トマスは大きく目を見開き、左右に頭を振った。

「いや、初耳だ。誰がそんなことを?」

「……神子様です」

「なんと……!」

 よほど驚愕したらしいトマスは、最初視線を彷徨わせていたが、すぐに落ち着きを取り戻し、大きく息をついた。

「何故、神子様がそんな話しを君に?」

「はい。実は、神子様は通常とは異なる特別な癒しを毎晩猊下に与えており、その負荷によって今日倒れてしまったようなのです」

「なるほど……しかし、私も王国騎士団時代から猊下を存じ上げているが、ご病気という話しは一度も聞いたことがないな」

 そこまで聞いて、ヨハンはある違和感を覚えた。

 トマスは現在五十五歳。二十年前、三十五歳で聖堂騎士団に入る前は、十八歳の頃に入団した王国直属の騎士団で十七年間勤め上げた。そんなトマスは、王国騎士時代からクレドを知っているという。

 また、ヨハンが生まれる前に神子の癒しを受けた母によると、当時から大司教はクレドだったという。

 クレドの見た目は、せいぜい二十代後半から三十代に差し掛かるかくらいだ。クレドが若き美貌の大司教と呼び声高いことは王都の内外問わず有名な話だが、今聞いた話を加味して考えてみれば、明らかに見た目と年齢に差がありすぎることがわかる。

 そこまで考えて、ヨハンはふと先ほどのキリエが言っていた神子の能力を思い出す。神子には傷や怪我の治りが早い特徴がある、と。

 もしや、まさか、という憶測が脳裏をよぎる。しかし、確信するには材料が足りていない。

「ヨハン」

 渋面を浮かべて思考に沈むヨハンを、トマスの声が呼び戻す。

 ヨハンが顔を上げると、騎士団長が真剣な表情を浮かべていた。

「もしや君は、猊下を疑っているのか?」

「……っ、それは……」

 その通りだ。しかし聖堂騎士という立場上、違うなどとはとても言えない。

 返答に躊躇するヨハンの姿を見て確信したらしいトマスは、はっきりと明活に伝えた。

「君が優秀な聖堂騎士であり、そして神子様に心からの忠誠を捧げていることを私は知っている。それゆえに、君が何の理由もなしにそんなことを考えるとは思えない」

 そこまで言って、トマスは周囲を見渡して誰もいないことを確認し、小さくそっと口にした。

「猊下については、他の聖堂騎士たちにも注視するよう指示しておこう。何かわかったらすぐに知らせる」

「……! ありがとうございます」

 礼を述べるヨハンに、トマスは決然とした笑みを返す。この閉ざされた大聖堂の中で、ヨハンが心強い味方を得た瞬間だった。


 トマスの前を辞去したヨハンは、大聖堂内の書庫の扉を開いた。

 キリエと共に頻繁に訪れるようになったここで、最近は時間が許す限り歴史や地理の勉強をするのが通例となりつつあった。キリエは蔵書のほとんどすべてを読破しており、中でも歴史書や地理関係の書物が好きなのだという。

『本を読みながら、見たことのない場所を想像するだけで楽しいんだ。カッチーニ湖ってどれくらい大きいのかなとか、マレンツィオ山の空気はどれくらい冷たいのかなとか』

 本の中の挿画を見ながら笑っていたキリエの姿を鮮明に思い出す。キリエはヨハンがごく当たり前と思っていたことを知らない。神子という立場上、大聖堂から出られないのは仕方ないとはいえ、これではまるで籠の中の鳥のようだと思ったことも覚えている。

『では今度、私がお連れ致します。大司教様に遠出の許可を打診してみましょう』

『……そうだね。うん、行きたい!』

 ヨハンの提案に頷くキリエの笑みは何故か憂え気だった。思えばあのときからキリエは、今のようなことを予感していたのかもしれない。ヨハンが何も知らない間に──。

 負の思考に落ちそうになった意識を、ヨハンは頭を振って呼び戻す。今は目の前の調査が先だ。

 書庫というからには、この大聖堂に纏わるあらゆる記録……たとえば、歴代の大司教や神子について、そして神子の力についての記述が残っているだろうことを期待していた。

 キリエと共に何度も訪れた場所ではあるが、改めて見てみれば棚に収まっている本は、歴史や地理のほかに、国の興り、民間神話として語られる内容と大して差のない神子に纏わる伝承といった当たり障りのないものばかり。

 神子の住まう大聖堂にここまで記録が保管されていないのは、かえって不自然であるようにヨハンは感じた。

 記録が残っていない理由として考えられるのは、まず単純にそもそも残されていないこと。あるいは誰かに持ち出されているということ。そして、

「誰かが処分した……」

 それを呟いたとき、脳裏に浮かんだのはやはりクレドの姿だった。

 神子の、そしてキリエの血を啜る大司教。自身に不都合な記録を抹消するために処分をした可能性も十分に考えられる。

 念のため、残っている本を片っ端から開いて気になるところに目を通していくが、やはり得られる内容は似通ったものばかり。となるとますますクレドの所業が疑わしくなってくる。

 さてどうするか。次なる手段を考え始めようとしたそのとき、書庫の扉が開いた。

「ヨハン、ここにいたか」

 扉の向こうから現れたのはトマスだった。何やら緊張した面持ちで、ヨハンを見つけるなり一瞬だけ安堵した様子だった。

「団長、どうかしましたか」

「先ほど、宿舎に神子様の使いの方がいらした。すぐに神子様のお部屋に向かってほしいとのことだ」

 嫌な予感が、ヨハンの胸をよぎった。

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