3.忠誠
神子・キリエと共に王宮を訪ねた翌朝、ヨハンは仲間の聖堂騎士と共に大聖堂とその周辺を巡回していた。
神子が住まう王国の都ともなると、諸外国と比べて治安は保たれている方だ。しかし神子はその神秘性や政治的有用性から、良からぬことを考える者たちの標的になることも珍しい話ではない。
数十年前の記録によると、当時権力の中枢にいた貴族を神子が癒したことへの反発として、敵対派閥の一門の策謀により神子が殺害される事件が発生している。その事件を切っ掛けに、神子は現在のように大聖堂の奥に隠され、守護を担う集団──聖堂騎士団が結成された。
そんな聖堂騎士団には、こまめな巡回が義務付けられている。
まずは早朝、大聖堂の中を騎士団全体で細かく確認する。毎日多くの人々が祈りに訪れる大広間を初め、一般客が入れない裏口や中庭に至るまで、隅々まで警戒を怠らない。
それらを終えてようやく大聖堂の門扉を開き、その上で周辺の巡回、大聖堂の警護、裏手の警護の三組に分かれる。周囲の巡回の組が帰参して、ようやく朝の巡回を終える手筈だ。
今朝のヨハンは、大聖堂周辺の巡回の任に就いていた。
石畳が敷き詰められた道を歩いていると、子どもから老人まで、多くの信心深き民たちからの激励を受ける。そんな民たちに誠意を持って応えながら大聖堂の周囲を一周し、異常がないことを確認して中に戻った。
大広間でヨハンたち巡回組の帰参を待っていた聖堂騎士団長トマスに巡回完了を報告し、今日一日の動きについての確認をしていたとき、その場にいる聖堂騎士たちが突如としてざわめきだした。
「おい、あれって……」
「いやまさか」
「どうしてこちらに?」
動揺する聖堂騎士たちの視線が向く先を、トマスとヨハンもまた見遣った。
そこには皆が驚くのも納得の人物が、扉の影からこちらの様子を窺うように佇んでいた。
「キ……神子様?」
ヨハンに気づかれたキリエは、扉の隙間からひょっこりと顔を覗かせ、はにかむような笑みでひらひらと手を振ってきた。
状況の理解が追いつかずに固まっているヨハンの隣で、トマスが鷹揚に応えた。
「これは神子様、どうなされましたか」
「ここに来ればヨハンに会えるかなと思ったんだけど……もしかして、邪魔した?」
「いいえ。ちょうど巡回を終えて戻ってきたところですよ」
トマスは軽くヨハンの背中を叩き、キリエの方へと押しやった。
突然の神子の登場に唖然としている聖堂騎士たちを視線で律し、トマスはキリエに笑顔を向けた。
「私たちはこれにて失礼を致します。ヨハンは置いて行きますので、どうぞゆっくり御用をお申し付けください」
「うん、ありがとう」
トマスが騎士たちを連れて引き上げていき、大広間にはキリエとヨハンの二人が残された。
ヨハン以外の聖堂騎士たちの前で気を張っていたのか、キリエはほっと肩の力を抜いた様子で向き直った。
「本当に僕、邪魔してない?」
「大丈夫ですよ。それよりも何か御用ですか?」
ヨハンの問いに、キリエは首を左右に振った。
「会えるといいなと思って覗いただけなんだ。それに、みんな朝早くから何をしているのかも気になっていたから、陰からこっそり見てた」
大聖堂の主である神子のキリエが隠れる必要はまったくないはずなのだが、先ほどのように気を遣わせてしまうことに引け目を感じているのかもしれないとヨハンは推察した。
神子という唯一無二の存在であるキリエを、ヨハンは昨日まで清廉で高潔な人物であるとばかり思っていた。
しかしいざ相対して話してみると、その素顔は年相応の天真爛漫な青年だった。
きっとその本来の気質は、神子として相応しい振る舞いを求め、傅く人々によって封じられてしまっていたのだろう。ましてや今まで、年嵩の小間使いや聖堂騎士ばかりに囲まれていたことを思えば、年齢の近い者と密接に話す機会も殆どなかったであろうことも想像に難くない。
比較的年齢も近く、親しみやすく感じてくれているのなら、“神子の騎士”であると同時に、 “キリエの友人”でありたいとヨハンは思っていた。
「ここでは参拝者が来るかもしれませんから、中庭に移りましょうか」
「うん」
ヨハンが誘うと、キリエは嬉しそうに笑って頷いた。
中庭への道すがら、そして中庭に着いてからも、キリエはヨハンに些細な質問を繰り返した。
「ねえ、ヨハンの家族ってどんな人たち? 兄弟はいる?」
「父と母と、兄が一人います。兄は将来家を継ぐため、父の下で働いています」
「ヨハンは家を継がないの?」
「私は次男ですから。それに、もともと先代の神子様によって救われた家系なので、私が聖堂騎士になることについて家族からは反対されなかったんです」
他の貴族にこんな話をすると、大抵は「兄を支えるつもりはないのか」だの「結婚はしないのか」だの踏み込んだことを言われて煩わしいことこの上ないのだが、良くも悪くも世俗に疎いキリエは、ただ頷きながら熱心に聞き入っている。私見を挟まず、ただ頷いてくれるその姿勢は、ヨハンにとって心地良かった。
「ヨハンとお兄さんって、やっぱり似てる? 仲はいいの?」
「兄弟仲は悪くないですよ。ただ、兄は私と違って見目も華やかで人当たりが良いので、あまり似ていないと思います」
すると、キリエは突如口を噤み、じっとヨハンを見つめ返した。
「……どうしました?」
黙って見つめられる居た堪れなさにヨハンが声を上げると、キリエは小首を傾げた。
「ヨハンって、自分のことを人当たりが悪いって思ってるの?」
「え?」
「だってそう言っているように聞こえたから」
予想だにしなかった問いに、ヨハンは返答に窮した。
キリエはふっと微笑むと、ぽつぽつと語った。
「僕ね、今までいろんな人を癒しているうちに、その人がどんな人なのか、少し見ただけでなんとなくわかるようになったんだ。この人は親切な人だなとか、この人は澱んでいてちょっと苦手かも、とか」
それが神子だからこそ持ち得る能力なのかはわからないけど、とキリエは笑う。
キリエはもう一度ヨハンを見つめ返し、はっきりとした口調で言った。
「昨日ヨハンに会ったときもすぐにわかった。優しくて誠実な、頼りになる人だって。……だから少し、甘えちゃったんだけど」
それを聞いてヨハンは、昨晩のキリエが自らの不調を押して引き留めてきたことを思い出す。あの行動にそんな思惑があったとは。
「ええと、つまり何が言いたいかっていうとね、ヨハンは全然人当たり悪くなんかないし、むしろ凄く優しいし、頼りにしているから……」
「ありがとうございます。言いたいことはなんとなく伝わってきていますよ」
「……本当?」
「はい」
ヨハンが微笑んで頷くと、キリエはぱっと笑顔の花を綻ばせた。
そんな他愛のない話をしていると、小間使いの一人が歩み寄ってきた。
「神子様、大司教様がお呼びです。お話しがあるとのことで、お部屋に参られるようにと」
「クレド様が? なんだろう……」
大司教と聞いた途端、キリエの表情が強張ったのをヨハンは見逃さなかった。
昨夜、王宮から帰還するなりすぐに呼び出されたときもそうだった。育ての親であるはずのクレドに対して、キリエがこんなにも張り詰めている理由が、ヨハンにはわからない。
そんなヨハンの憂慮に気づかないまま、キリエは小間使いにすぐに向かうことを伝えた。
「ごめんね。僕行かないと」
「私のことは気になさらず。巡回のとき以外はだいたい宿舎にいますので、いつでも呼んでください」
「ありがとう。それじゃあ、また」
キリエは立ち上がると、小間使いに導かれるようにして去っていく。
姿が見えなくなるまでと思いその背中を見送っていると、視線に気づいたのかキリエは振り返り、手を振った。
そんな無邪気な行動が愛しくて、ヨハンもまた振り返すと、キリエは嬉しそうに微笑んだ。
宿舎に帰還したヨハンを出迎えたのは、鼻息を荒くした同僚の騎士たちだった。
「ヨハンお前、いつの間に神子様とあんなに親しくなっていたんだ!?」
「神子様のあんな表情、初めて見たぞ!」
「どういうことか説明しろ!」
同僚たちの勢いに圧倒され呆然としているうちに、ヨハンは中央に設られた円卓へと引っ張られ座らされた。
部屋の隅々から視線が向けられている気配を感じる。どうやらキリエがヨハンを探して訪ねてきたことは、聖堂騎士団全体に知れ渡っているらしい。
なんだか尋問されるような心地だが、別段後ろめたいことはない。そう思い直したヨハンはひとまず同僚たちに付き合うことにした。
「いつからだ。いつから神子様と親密になったんだ?」
「昨日。神子様が王宮に行かれた際に随従したことが切っ掛けだ」
「昨日? たったの一日であんなに親しくなったのか!?」
「まあ、いろいろあってな」
キリエが具合を悪くしたところをヨハンが介抱した点については、内密にすることを約束しているため伏せる。しかしそれが騎士たちをさらにやきもきさせたらしい。
「いろいろってなんだよ。気になるだろ!」
「二人だけの秘密にすることを神子様と約束している。これは神子様の沽券に関わることだから、俺からこれ以上は言えない」
きっぱりと断言してみせると、さすがの騎士たちも押し黙った。関心を捨てきれていないのは明らかだが、どうやら神子への忠誠心の方が勝ったようだ。
「……わかった。お前がそこまで言うなら、これ以上は訊かない。でも、もう一つだけ訊いてもいいか?」
「答えられることなら」
「実際に話してみて、神子様ってどんな方なんだ?」
騎士の一人のその問いに対し、全員の目の色が変わった。好奇というより、期待や羨望の気配が強い。
「どんな方か、と訊かれると……」
ヨハンはキリエを思う。
咄嗟に脳裏に蘇ったのは、昨夜の縋るような眼差しと、先ほどまで見ていた無垢な笑み。
「無邪気で素直な方だ。好奇心が強く、人を気遣う優しさもお持ちで」
それでいてどこか寂しそうで、常に居場所を求めているような危うさがある……そう口にしかけて、呑み込んだ。
「へえ……無邪気で素直な方、か」
ヨハンの言葉を反芻する聖堂騎士が、何やらにやついている。
「なんだ、その顔は」
「随分と神子様に心を許されているものだと思って」
「それは、俺がこの大聖堂の中で比較的神子様と年齢が近いからであって」
「でも、悪い気はしないだろう?」
「……っ、それは……」
ヨハンは思わず口籠る。キリエの素顔を知った今、崇敬や忠誠以外の気持ちも芽生えていることは否定できない。
たとえば、寂しい思いをさせたくないとか。
たとえば、あの無垢で可憐な笑みをもっと見てみたいだとか。
「堅物だとばかり思っていたが、お前もやはり人間なんだな」
「……うるさい」
にやにやと笑う同僚を否定できず、ヨハンは目を逸らした。
◆
その日の夜、大聖堂が間もなく一般参拝の刻限を迎えようとしていたとき、来訪者の姿があった。
来訪者は仕立ての良いドレスを纏い、銀細工の首飾りを身につけた婦人だった。
婦人は今にも門扉を閉じようとしていた聖堂騎士の一人に声を掛けた。
「もし、神子様にお会いできないかしら」
「本日の一般参拝は終わりだ。神子様への御用は、典礼のときに願いたい」
「癒しを求めているのではありません。……王太子妃殿下のご容態について、神子様に伺いたいことがありますの」
瞬間、聖堂騎士の表情が怪訝に強張った。
王太子妃の許に神子が通っていることは、内部の人間しか知り得ない機密の筈。それを知っていて、わざわざ尋ねてくるこの婦人はいったい。
「……貴様、何者だ」
聖堂騎士の低い問いに、婦人は悠然と答えた。
「伯爵夫人にございますわ」
突然の伯爵夫人の来訪を受けた大聖堂には、夜に似つかわしくない困惑の空気が漂っていた。
中庭でヨハンと談笑していたキリエにもその報は齎されたが、世俗に疎いキリエは何故皆が渋面を浮かべているのかが理解できずにいたため、ヨハンは気が進まないながらも説明をした。
「現在懐妊している王太子妃殿下……エミリア妃は侯爵家出身の姫です。王太子殿下のお妃選びの際、そのお相手として多くの姫たちが妃候補に選ばれていましたが、王太子殿下は一切目移りすることなくエミリア妃を妻にと望まれたそうです」
「なんだか素敵だね」
確かにこれだけを聞けば、王太子が一途に一人の女性を愛し、仲睦まじい夫婦になったという美しい話だ。
そんな美しい話を妬む者の話をキリエに聞かせなければならないことに、ヨハンの胸は重くなる。
「伯爵夫人もまた、かつて自身の娘を王太子殿下の妃にしようとしていた一人です。ご令嬢を王妃にすることにとりわけ執心していた方なので、おそらくエミリア妃のご懐妊を最もおもしろく思っていない人物と思われます」
エミリア妃は侯爵の父と子爵家出身の母親との間に生まれた令嬢だ。その清楚な美しさは決して目立つものではないものの、内から滲み出る気品と芯が強く聡明な気質はまさに絵に描いたような理想の姫君とかねてより評判だった。王太子は社交の場で初めてエミリアと言葉を交わしたときから彼女を想い続け、そして長い初恋を実らせて妻に迎えたという話は、今や国内では有名な語り種だった。家柄も人柄も申し分なく、結婚後も王太子と仲睦まじい夫婦生活を送る彼女は国民からも慕われ、将来の王妃として期待を寄せられている。
一方で伯爵家の令嬢は『社交界の薔薇』と名高い美女だ。王太子より二つ年上の彼女は、豊満な身体つきと目鼻立ちのはっきりとした美貌であり、幼い頃より妃となるべく教育されてきたがゆえの非常に高い矜持の持ち主でもあった。
しかし、伯爵家は先代より不倫や横領といった黒い評判が絶えず、それは三人の息子たちも同様だった。
本来家督を継ぐ筈だった長男は王家筋の家との婚姻が決まっていた令嬢に手を出した関係で家を追われ、次男に関しては当時の神子に懸想し深夜に大聖堂に侵入しようとした罪で逮捕されている。
結果として爵位を継いだのは、上に立つものとしての教育をまともに受けていない三男──それが現在の伯爵家当主。だがこの三男もまた、伯爵家に仕える使用人の女に手を付けており、爵位を継ぐことが決まった頃には女の腹に子どもがいた。伯爵が半ば押し切られる形で妻に迎えたこの女こそが、今大聖堂に来ている伯爵夫人であり、生まれた子どもが言わずもがな妃候補に名を連ねていた令嬢だ。
……と、こういった背景があったりするのだが、こんな俗な話でキリエの耳を穢したくないヨハンは、伯爵夫人がエミリア妃の懐妊をおもしろく思っていないという端的な事実のみを伝え、残りは胸の内に仕舞ったままに留めた。
「そんな夫人が、わざわざキリエに王太子妃殿下の容態を伺いたいなどと……私には何か企んでいるとしか思えません」
「ねえ、僕がお城に癒しに行っていることは秘密になっているはずなのに、どうしてその人は知っているの?」
「大方、夫である伯爵から聞いたのだと思います。伯爵は文部卿……文官たちを束ねる立場にあるので、頻繁に城に通っていますし」
「伯爵の仕事ぶりは優秀ですが、代々受け継がれている素行の悪さと口の軽さは困ったものですね」
ヨハンとキリエの会話に割って入るように、些か嘆息混じりの声が届いてきた。
声の主は、クレドだった。自室で執務に当たっていたらしく、祭服は普段よりも簡素なもので、暗色の長い髪は後ろに束ねられ、指先にはインク汚れが付着している。
クレドは二人の傍に歩み寄ると、苦笑いを浮かべながらキリエを見遣った。
「神子、王太子妃殿下の容態について伯爵夫人に話してもらえますか。癒しが効いているので何も心配はない、という具合に」
「猊下、それでしたら神子様をお出しするまでもなく、私が代理としてお話しします」
間髪入れずに名乗り出たヨハンに、クレドは左右に首を振る。
「気持ちはありがたいですが、おそらく神子自らが説明しないと納得しないでしょう。あの伯爵夫人のことですからね」
含みを持たせたクレドの意見には、ヨハンも同意せざるを得なかった。それをわかった上でヨハンは時間を掛けて夫人を説き伏せる覚悟でいたのだが、どうやらクレドは短期決戦で終わらせるつもりらしい。
夫人の人柄を知らず、ヨハンとクレドの思惑もよくわからずにいるキリエは、一人置いてけぼりのような心地で二人の意見を聞いていた。
一般参拝客のいない大広間では、伯爵夫人が一人佇んでいる。
ヨハンはキリエの護衛という形で随従し、伯爵夫人と相対していた。
「神子様。わざわざお出ましいただき、光栄ですわ」
伯爵夫人はキリエに向き直ると、優雅に頭を垂れる。
彼女は目線を戻すと、キリエの後ろに控えるヨハンに気づいたようだった。
「まあ、あなたは子爵家の。聖堂騎士になったという噂は本当でしたのね」
「……ご無沙汰しております、夫人」
子爵家の次男であるヨハンは、爵位のある家同士の繋がりの関係で伯爵夫人とはうっすらと面識があった。
一介の使用人から一転、伯爵夫人の身分を手に入れた彼女は夫の伯爵よりも地位への拘りが強く、矜持も高かった。自身によく似た娘を溺愛し、最高の教育を与えた上で時期王妃にと目論んでいたものの、王太子に見向きもされることなくエミリアが選ばれたときの狂乱ぶりは見るに堪えないものであったことを、ヨハンはよく覚えている。
「夫人。参拝の刻限も過ぎておりますので、手短に御用件を伺えますか」
あくまで事務的に、淡々とヨハンは切り出す。
伯爵夫人は「そうでしたわね」と微笑むと、わざとらしく眉を下げて尋ねた。
「主人から、王太子妃殿下のご体調が思わしくなく、頻繁に神子様の癒しを得ながら過ごされているという話を聞いてから、居ても立ってもいられなくて……。どうしても状況を伺いたくて、失礼を承知でこうして人のいない時刻に神子様を訪ねてきましたの」
夫人の用件を聞くなり、キリエは傍らに控えるヨハンを見上げた。
視線を受け、ヨハンは無言で首肯する。それを見たキリエもまた頷き、視線を夫人に据えた。
「王太子妃殿下に癒しを与えているのは本当です。でも、癒しの効果は間違いなく出ているので大丈夫ですよ」
中庭でヨハンやクレドと打ち合わせた通り、キリエは言った。
伯爵夫人は安堵したように微笑むと、首飾りの銀細工に触れた。
「まあ、神子様がそう仰ってくださるなんて、きっと本当に大丈夫ですわね」
夫人の白い指が、思わせぶりに銀細工を掴み上げる。その細工はよく見ると、側面に細い溝があり、中は空洞になっていた。
夫人の意図に気づいたヨハンは咄嗟に動き、自らの背にキリエを庇う。夫人が本性を現したのはその直後だった。
「ガキが余計なことをしてくれちゃって」
夫人が銀細工を口に咥えた瞬間、ピィー!と甲高い音が大理石の空間に響き渡った。
刹那、大聖堂の門扉と中庭に続く左右の扉が乱暴に開け放たれ、それぞれの武器を構えた黒装束の男たちが大広間に押し入ってきた。
「これが貴女の目的か!」
ヨハンの威圧にも臆せず、伯爵夫人は嫣然と微笑む。
夫人は黒装束の男たちに目を配すと、ヨハンの背後に庇われたキリエを見遣った。
「そのガキが神子よ。さっさとやってちょうだい」
夫人の声に従い、黒装束の男たちは武器を手に一斉にキリエを見据えた。
キリエが息を呑む気配がヨハンに伝わってくる。すぐにキリエを連れて、この場を離脱しなくては。
状況を把握しきれていないうちに、二人の背後で鎖が重い音を立てた。キリエ目掛けて飛んできたそれをヨハンは振り向きざまに剣の鞘で叩き落とす。
「キリエ、中庭まで走れますか?」
周囲が聞き取れないほどのごく近い距離で、ヨハンは素早くキリエに問う。この状況で冷静さを失わないヨハンに安堵したのか、キリエは落ち着いた態度で頷いた。
「うん、走れるよ」
「必ずお守りします。絶対に私から離れないでください」
そう言ってヨハンは左手でキリエの手を取る。初めて触れるキリエの手はか細く、そしてひんやりと冷たかった。
キリエを庇いながら短剣を持って突っ込んできた男を躱すと、ヨハンはキリエと視線を交わし、同時に走り出した。
向かって左側の扉の向こうには、聖堂騎士団の宿舎がすぐ近くにある。扉に差し掛かる直前、ヨハンは空いている方の手で胸元に隠し持っていた警笛を取り出し、高らかに鳴らした。
「賊の侵入だ! 聖堂騎士団、応戦せよ!」
ヨハンが叫び終えるより先に宿舎の扉が開き、中から飛び出してきた聖堂騎士たちが次々に黒装束の男たちを相手取った。その中には聖堂騎士団長トマスの姿もあり、自らも剣を振るいながら指揮と檄を飛ばしていた。
ヨハンはキリエの手を引き、最初に伝えた通り中庭に入った。居所が知られた状態でキリエを部屋に隠すのは、自ら袋小路に閉じ込めるようものだ。そのためヨハンはキリエの傍にいながら守護し、周囲を見渡せる中庭に入る形を取った。
しかし、周囲を高い塀に囲まれている中庭にも、既に黒装束の男たちは侵入していた。この大聖堂に地上の出入口は正門しかない。塀を上ってきたと考えるのが妥当だった。
ヨハンとキリエの前に、黒い人影が五本の鉤爪を振り翳しながら落ちてきた。ヨハンは腰に穿いていた長剣を抜き、鉤爪を受け止め弾き返す。
受け身を取った男は中空で体勢を立て直すと、地につま先を着けるやすぐに再びヨハンに襲い掛かった。動きのすべてが俊敏で無駄がなく、それでいてキリエを狙ってきたこの男は、どうやら今回の賊の中で一番の手練れのようだった。
男の武器は、ヨハンが見たことのない形状をしていた。五本の指のような鉤爪を両の手の甲に嵌めており、まるで肉食獣の手足のように鋭利で獰猛だった。この鉤爪に切り裂かれでもしたらひとたまりもないことは瞬時に見て取れた。
鉤爪と長剣が激しくぶつかり合い、そのたびに火花が散る。一撃一撃の重さに、攻撃を受け止めるたびにヨハンの腕には痺れが走る。
キリエを守りつつ男の素早い動きに翻弄されるヨハンは、防戦の一途を辿りつつあった。男もそれをわかっているのか、必要以上に攻撃の手を強めるようなことはせず、このままヨハンが消耗するのを待つつもりのようだった。
しかし、聖堂騎士団とて精鋭と呼ばれる集団だ。人数こそ多くはないが、その力は国内最高峰の集まりである。
「神子様、こちらへ!」
キリエを呼ぶ声の主は、聖堂騎士団長トマスだった。トマスの周囲には他の聖堂騎士たちもいた。
「キリエ、行ってください」
肩越しに視線を遣ると、不安げな表情のキリエと目が合った。ヨハンは安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。必ず迎えに行きます」
ヨハンがトマスに目線を向けると、頼りになる騎士団長は決然と頷く。ヨハンは男の鉤爪を思い切り弾き返し、叫んだ。
「行って!」
ヨハンが叫ぶと同時に、キリエはトマスのいる方へと駆け出した。キリエの方へと鉤爪を伸ばそうとした黒装束の男を、ヨハンは剣で撃ち返して阻む。神子を仲間に託した途端に身軽になったヨハンに驚いたのか、黒い装束から唯一覗く男の目に驚愕が走っていた。
歳若いヨハンが、国内最高峰と呼ばれる集団の聖堂騎士に選ばれた理由は、信仰心の篤さだけではない。撃ち込みの正確さ、身のこなしの素早さは、熟練の騎士たちにも劣らないものだった。
ヨハンは男が鉤爪を振り翳した一瞬の隙を突き、素早く身体を逸らした。一撃が重い男の鉤爪は、鋭利な弧を描いてヨハンが元いた虚空を切り裂く。
瞬間、がら空きになった男の脇腹に剣を突き立てた。身軽さを重視するその黒い装束には、いとも簡単に細身の刃が貫通した。
ヨハンは剣を抜き、男の振り向きざまの一撃を回避する。すぐに死に至るような傷ではないが、それでも確実に男の戦力を削いでいることに違いはなかった。
男の腹から流れた血が脚を伝い、地面を赤くまだら模様に染め上げていく。男は数撃の攻撃をしかけたもののすべてヨハンに撃ち返され、やがて力尽き、降伏するように膝をついた。
ヨハンは駆けつけた騎士たちとともに男から武器を剥奪し、その手足を拘束する。トマスに託していたキリエが声を上げたのは、それらを終えてすぐだった。
「ヨハン!」
飛びつく勢いで駆け寄ってきたキリエをヨハンは抱きとめる。キリエはぺたぺたとヨハンの腕やら胸やらに触れながら訊ねた。
「どこも怪我とかしてない? 痛いところはない?」
「幸いなことに無傷です。キリエこそ、怖い思いをしたでしょう」
「ヨハンが守ってくれたから大丈夫。本当に、怪我がなくてよかった……」
ヨハンの無事を確認し安堵したキリエは、ヨハンの胸に顔を埋めながら大きく肩の力を抜いた。その様子を見ていたトマス以外の聖堂騎士たちは、思っていた以上に親密な二人の姿に驚きを隠しきれないようだった。
トマスは数名の聖堂騎士を伝令として王宮に走らせ、残った者で手分けをしながら残党の確認や、捕縛した賊たちを一箇所に集めた。この中でわかったことであるが、黒装束の男たちは全員外国人で、中にはプラエネステ王国の公用語が通じない者もいた。
ヨハンは引き続きキリエの身辺警護を務め、万が一残党が襲ってきたときに備えていた。
程なくして王宮の騎士団が到着すると、彼らは神子の無事と大聖堂の被害状況を確認し、聖堂騎士団によって捕縛されていた賊を正式に逮捕・連行していった。その中には此度の首謀者である伯爵夫人も含まれている。
伯爵夫人は去り際、キリエとヨハンを険しい眼差しで一瞥した。その姿には貴婦人の優雅さは微塵も残っていなかった。
「……やれやれ、ようやく落ち着きましたな」
王宮騎士団を見送ったトマスは、大仰に肩の力を抜いてみせる。その瞬間、張り詰めていた空気が一転し和やかなものになった。
トマスはヨハンの背後に隠れるようにしていたキリエに向き直り、胸に手を当て首を垂れた。
「神子様におかれましては、さぞ恐ろしい思いをされたことと心中お察し致します」
「ううん、僕は大丈夫。皆が守ってくれたし」
健気に応える神子の姿に、聖堂騎士たちは畏敬の眼差しを向ける。ヨハンからキリエの素顔を聞いていた彼らもまた、神子に対する印象が変化したようだ。
キリエは傍らのヨハンを見上げ笑いかけた。
「ヨハンも、ずっと傍にいてくれてありがとう」
「いえ。貴方がご無事で何よりです」
そんな二人のやり取りを見ていたトマスは、ふっと表情を綻ばせた。
「神子様はヨハンを慕っておいでですか?」
トマスの問いに、キリエとヨハンは揃って目を丸くする。
キリエは何度か瞬くと、素直にこくんと頷いた。
「うん。凄く頼りにしてる」
「左様でございますか。……私から一つ提案なのですが、差し支えなければヨハンを神子様の近侍に任命しようかと考えております」
「団長?」
初めて聞くトマスの考えにヨハンは思わず声を上げる。トマスは笑みを浮かべたまま続けた。
「ヨハンを巡回や守衛といった通常の任務からはずし、常に神子様のご用命を最優先に動けるように致します。如何でしょう?」
問われたキリエが再びヨハンを見上げる。「いいの?」と目線で訊ねてくるキリエにヨハンは微笑んだ。
「……そうしてもらえると、嬉しい」
「承知致しました」
トマスは深く頷き、背後に控えている聖堂騎士たちを振り返った。
「全員宿舎に戻れ。明日からの配置を再度検討する」
「はっ!」
団長からの指示に、聖堂騎士たちは声を揃え従う。朗らかな振る舞いと性格のためなかなか知られていないが、トマスは国内でも五指に数えられる剣豪だ。それでいて指揮能力にも長け、聖堂騎士一人一人の人柄をよく把握しているため、部下からの信頼はこの上なく厚かった。
トマスはヨハンとキリエを見遣り、いつものように穏やかに微笑んだ。
「神子様、これにて御前を失礼致します。ヨハン、引き続き神子様を頼む」
「はい」
ヨハンが力強く返すと、頼りになる騎士団長はその場を離れていった。
先までの喧騒が嘘だったかのように、中庭にはいつもの静けさが戻ってきていた。
「大丈夫ですか?」
そう静かにキリエに訊ねるのは、この場にはもうヨハンしかいない。
キリエは一つ息を吐き、頭ひとつ分長身のヨハンを見上げた。
「うん。でも、ちょっと疲れたみたい」
「無理もありません。お部屋に戻りますか?」
「……もう少しだけ話し相手になってもらえると嬉しいな」
「かしこまりました」
気が昂っていて落ち着かないのはヨハンにもよくわかるため、無理に休息を強いるようなことはしない。すっかり二人の定位置になった中庭の長椅子に腰掛けながら、ゆっくりと語らうことにした。
「さっきは本当にありがとう。ヨハンがずっと冷静でいてくれて、凄く心強かった」
「お礼には及びません。キリエをお守りすることが私の務めであり、何よりも喜びですから」
「でも、ちょっと驚いた。ヨハンって強いんだね」
「幼い頃より鍛錬してきましたからね。こうしてキリエをお守りすることができて本望です」
「……かっこいいなぁ」
「え?」
無意識に口を突いて出た言葉の意味に、ヨハンの表情を見てキリエはようやく気づく。素直な心情が溢れたそれは決して悪いものではないが、意識するとなんだか気恥ずかしい。
「あ、その、変な意味じゃなくて、ヨハンは優しいし強くて、頼りになるし、だから……」
「……ふふ」
しどろもどろに取り繕おうとするキリエの隣から、小さな笑い声が上がった。
キリエが隣を見ると、普段冷静さを失わず、大きく表情を変えないヨハンが、肩を震わせて笑っていた。
「あの、ヨハン……?」
気を悪くしてしまったかと心配するキリエの懸念を払拭するように、ヨハンは笑いながら首を振った。
「ありがとうございます。かっこいい、と言われて嬉しくない男はいませんよ」
「……じゃあ、なんでそんなに笑うの?」
「すみません。慌てる貴方があまりにも、その……」
「その、何?」
「……可愛らしくて、つい」
「……!」
かあっと顔に血が上り、頬が熱くなるのをキリエは感じた。面と向かってそんなことを言われるのは初めてだ。
顔を赤くして俯くキリエを見たヨハンは、一つ咳払いをして居住まいを正した。
「可愛いだなんて失礼でしたね。すみません」
「ううん……いやじゃないよ」
可愛いと言われて、何故こんなにもどきどきするのかがキリエにはわからない。でも、ヨハン以外の人に可愛いと言われても少しも嬉しくないだろうと思うのが不思議だった。
「キリエ」
キリエが悶々と考えていると、ヨハンが静かな口調で呼んだ。熱の冷めないままキリエが顔を上げると、いつものように冷静で真っ直ぐなヨハンの瞳と視線がぶつかった。
ヨハンはキリエの足元に跪き、恭しくキリエの手を取る。頬は未だ熱を帯びているにも関わらず、細く白い指はひんやりと冷たいままだ。
「ヨハン……?」
突然の行動に理解が追いつかず、キリエが疑問符を浮かべていると、ヨハンは優しく微笑む。それでいていつも冷静な瞳には強い意志と決意が宿っている。
「私が貴方の正式な近侍になるのは、明日からになります」
「うん」
「その前に、お伝えしたいことがあります。よろしいですか?」
まっすぐに見つめてくるヨハンの眼差しに抗えないまま、キリエは無言で頷く。
「私はほんの数日前まで、貴方を清廉で高潔な方であるとばかり思い込み、そのように接していました」
「でも、実際はそんな人じゃなかったでしょ?」
「そうですね。でも、本当の貴方の素直なお心と人柄に触れて、ますます惹かれている自分がいるのです」
ヨハンの言葉に、キリエはまたも驚きを隠せなかった。
物心ついたときからずっと、周囲には神子と崇め傅く人々がいた。神の子として、神の化身として相応しくあれと、育ての親──クレドから厳しく教え込まれ、自らの本心を律しながら生きてきた。
それなのにヨハンは、そうでなくて良いと言ってくれる。
「今日のようなことからお守りするだけでなく、貴方が心から笑えるようにお守りしたい。ですから、キリエ」
キリエの手を取るヨハンの手に力が篭もる。冷たい指先にヨハンの体温が移り、拡がっていく。
「貴方の近侍として、貴方の心ごとお守りすることを、どうかお許しいただけますか」
ヨハンの言葉一つ一つが、まっすぐにキリエの胸に届いて降りつもる。今日まで生きてきた中で、キリエにこんな言葉をくれた人はヨハンだけだ。
じんわりと胸が、目の奥が熱くなる。
考える理由などなく、キリエはただひたすら頷いていた。
「……ありがとう。嬉しい」
言葉に詰まってそれしか言えなかったが、ヨハンには十分伝わったようだった。
ヨハンはキリエの手に額を寄せ、瞑目する。
「貴方に心からの敬愛と忠誠を捧げます、キリエ」
誰も知らない、二人きりの忠誠の儀式。
再び視線を交わした二人は、言葉もなく微笑み合った。
◆
「……失礼します」
数刻後、クレドの使いから居室を訪ねるよう言伝を受けたキリエは、重い胸を抑えながら扉を開けた。
美貌の大司教は机に向かってペンを走らせていたが、キリエの訪いに気づき顔を上げた。
「ああ神子、来てくれたのですね」
「あの、お仕事中なら出直しますが……」
「書き終えましたから大丈夫です。出してしまうので、少し待っていてください」
そう言ってクレドは紙を銀色の封筒に収め封蝋で閉じる。
「あの手紙って、もしかして……」
「鋭いですね。先ほどの襲撃に関する、こちらからの嘆願書です」
「……何を書いたのですか……?」
きっと碌なことが書かれていないだろうことはわかっていたのに、訊かずにはいられなかった。
答えるクレドは、恐ろしいほどに淡々としていた。
「賊たちは全員極刑を。伯爵夫人についても同様に。そして現在の伯爵家からは爵位の剥奪を要求しました」
「極刑、って……そんな……!」
その言葉の裏に隠されている真意は、いくら世事に疎いキリエでもわかる。
言葉を失うキリエに対し、クレドは表情を崩すことなく続ける。
「奴らは神子の命を狙ったのですよ。当然の要求です。伯爵夫人もこの程度のことを予想できていないはずがありません」
「でも、僕は無傷です。ヨハンと、聖堂騎士団が守ってくれました」
「聖堂騎士団は神子を守る集団なのですから、貴方を守るのは当然の義務です。それに、結果がどうあれ伯爵夫人が貴方に害をなそうとした事実には変わりありません」
「でもっ」
「過去に起きた神子殺害の事件の際にも、首謀者とそれに加担した者は全員処刑されたことは、以前にもお話ししたでしょう?」
冷酷なまでに淡々と、クレドはキリエに現実を突きつける。
クレドの言うことや判断が間違っているとは思わない。けれど、自らの思惑が及ばないところで断罪される命がある事実の重さに、胸が塞いでしまう。
言葉を失い俯くキリエに、クレドは一つ嘆息した。
「もう少し自覚を持ちなさい。貴方は神子……普通の人間とは違う、特別な存在なのですから。良いですね?」
「……はい」
クレドに反発する言葉を持たないキリエは、大人しく首肯することしかできない。
所在なく立ち尽くすキリエを、クレドはそっと抱きしめる。──これがヨハンだったならどれほど心強かっただろうと、栓なきことを考えてしまう。
「今夜はいろいろあって貴方も疲れたでしょう。早く済ませて、今夜はもう休みましょうね」
そう言ってクレドの手が、キリエの祭服の合わせに掛かる。
祭服を脱がされると思った瞬間、キリエはクレドの腕から逃れるように身を捩っていた。
「……神子、どうかしましたか?」
「あ……」
驚いた表情を浮かべるクレドと目が合う。無意識に取ってしまった行動に、取り繕う言葉が浮かばない。
しかし、クレドは気を害した様子も見せずに微笑んだ。
「すみません、驚かせてしまいましたね」
「い、いえ……」
「大丈夫。すぐに終わりますから」
優しく囁きながら、クレドはキリエを離そうとはしない。どれほど言い逃れをしようと血を捧げない限り、クレドは決して毎夜キリエを解放しないのだ。
クレドの長い指がキリエの祭服を寛げ、膚を露わにし、何処からともなく取り出した小刀を鎖骨の下に突き立てた。冷たい刃が膚を引き裂く痛みは鮮烈で、キリエは堪えきれずに呻いた。
「──……っ!」
膚を裂かれ血を啜られる痛みと同時に、それらとは異なる痛苦がキリエを苛む。今まで感じたことのない類いのそれは、胸の奥あたりを強く締めつける。
「あ……あ……っ」
胸の痛みの正体はわからない。血と共に気力までもが流れて失われていくようだった。
それでも尚、脳裏に浮かぶ姿があった。キリエに敬愛と忠誠を捧げてくれた、優しい騎士。
──こうしてこの身を暴くのが、彼であればいいのに……
ぼんやりと浮かぶその思惟は、襲いくる深淵に溶けて消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます