第3話 宮前恵茉 前編
翌日も祥子はうつむいて過ごした。できる限りひとに顔を見られないように、斜め下を見つめて時間が経つのを待った。
しかし一回校舎内で祥子をめぐる痴情のもつれで乱闘騒ぎが起こったことが知れ渡ると、学校という狭い空間の中では逃げきれない。
すれ違った見知らぬ生徒たちが「ほら、あの人が藤牙さん」「えー、そんなふうには見えないけど」とひそひそ話をしているのがわかる。
目立たないように生きていこうと思っていたのに、この一ヵ月くらいですべてが台無しになった。
とはいえ、高校は、小中学校よりも偏差値や進路で区分けされているだけ、生徒の中身が均質である。おとなしい祥子が通う進学校で、そこまで大きなトラブルが表面化することはない。時々後ろ指を指されることに耐えられれば、誰かが特別に何かしてくるわけでもなかった。
それに、文芸部の三人はそれでも変わらなかった。高校に入学してから知り合った少女たちだが、濃密な時間を共有して友情をはぐくんできた仲だ。彼女たちは祥子を守るようにつるんでくれた。特に古春は気を遣って、トイレまで付き添ってくれた。
三人に囲まれながら、祥子は天に祈った。このまま何事もなく済んでほしいと、つつがなく日曜日の蓮の試合の観戦まで終わってくれれば寺でも神社でも手を合わせに行くからと、そう考えながら放課後になった。
今日の文芸部の活動場所は二年三組の教室だそうだ。先輩からその旨の連絡を受け取り、古春と二人で一年生の階の廊下に出て移動を始めようとした。
その時だった。
「ちょっと、藤牙さん」
不機嫌そうな声音で話し掛けてくる女子生徒が現れた。祥子は心臓が止まりかけた。
振り返ると、そこに立っていたのは、
もしかして、お前は男たらしの嫌な女だと言われて、いじめられるのではなかろうか。
祥子はばくばくと拍動する心臓を感じながら、恵茉に向き合った。すぐにでも逃げ出したかったが、不自然なことはしたくない。
「話があるんだけど」
「わたしに?」
「そう。藤牙さんに」
どう考えても好意的な感じではない。とげとげしい何かを感じる。
そこで、ふと、祥子は、ひとつ気づいた。
とげとげしいオーラだ。
恵茉から悪いものを感じる。悪いオーラだ。妖魔が放つような気だ。かすかに焦げ臭い匂いも漂ってくる。
勇気を振り絞って、恵茉と真正面から向き合った。
祥子は眼鏡の奥で目を丸くした。
恵茉の左耳から、蟻のようなものが出てきた。いくら小さいとはいえ、普通肌の上であんなものが動いていたらすぐに気づいて払い除けようとするものだと思うが、恵茉は気づいていないようである。
蟻のようなものは、祥子に見られていることに気づいたらしく、祥子のほうを見た。
その頭部は人間の肌の色をしていて、赤い唇でにやりと笑った。
『ショウコチャン、ショウコチャン、カワイイネー』
悪いものだ。悪い妖魔が、恵茉に取りついている。
まずい。
指先が震える。
『ショウコチャン、ワルイオンナダネー』
恵茉は気づいていないのだろうか。古春はどうなのだろうか。
恵茉も古春も一般人だ。
一方祥子は特別な退魔師の父を持つ霊能力者で、この前目覚めた結果このようなものが見えるようになった。
自分が、なんとかしないといけない。
「あの」
古春が声を出した。
「わたしも一緒に行っていいかな」
そう言い終わるかどうか、食い気味に恵茉は拒絶した。
「
恵茉の耳から、また蟻型の妖魔が出てきた。これで二匹目だ。二匹並んで頭をゆらゆらと動かしている。
「古春」
祥子は声が震えそうになるのを抑えながら古春に言った。
「先に文芸部のほうに行ってくれないかな。わたし、宮前さんとちょっと話をしてから行くから」
古春が不安げな顔をした。祥子を心配してくれているのだろう。こういう時ににこりと笑って安心させることができたらどんなにいいかと思うが、祥子にそういう能力はない。
「大丈夫」
口ではそう言っていても、顔色はきっと悪いだろう。
「門脇さん」
恵茉がたたみかけるように言う。
「藤牙さんもこう言ってるんだし、行きなよ」
祥子と恵茉の二人に言われて、抵抗する気がなくなったようだ。古春が頷き、「またあとでね」と言いながら廊下の向こうのほうへと駆け出した。
その後ろ姿を見送って、ふたたび恵茉のほうを見た時、祥子は背中に悪寒が走ったのを覚えた。
恵茉の両耳から、次から次へと蟻型の妖魔が湧いてくる。もはや二、三匹という数ではなかった。行列を作って黒い線となった妖魔が、恵茉の両耳から黒い筋を二本作って胸へと蠢いていた。
祥子はごくりと唾を飲んだ。
『ショウコチャン、ショウコチャン』
冷静に考える。
自分には妖魔の祓い方がわからない。父は教えてくれなかった。古春を守るため、恵茉を救うために恵茉と二人きりになる道を選んだが、この先どうやって対応したらいいのか、見当がつかない。
祥子の名を呼んで合唱する妖魔の群れを見る。恵茉は気づいていない顔をしている。
「ついてきてくれる?」
だが、ここまで来て目を背けるわけにもいかない。
「わかった、けど、ちょっと部活の先輩にも一言言っておくね」
恵茉はそれを疑わなかったようだ。目を逸らしながら「すぐ済ませて」と言っただけで、止めることはしなかった。
祥子は急いで制服のポケットからスマホを取り出した。LINEの画面を開き、晃を選択する。
『学校に妖魔が出た
今すぐ私の学校に来て』
それだけを送って、ポケットにスマホを戻した。
「もう大丈夫」
「じゃ、行こうか」
そう言い終わった瞬間、恵茉は祥子の手首をつかんだ。痛かった。十六歳の女の子の握力とは、こんなものだろうか。恵茉はテニス部でラケットを握るから、と自分に言い聞かせてみたものの、恵茉の耳からは相変わらず蟻型の妖魔が湧き出ているのが見えているので、やはり尋常ならざるものの存在を感じてしまい、恐ろしかった。
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