第4話 宮前恵茉 後編

 恵茉は無言で足を進めていった。祥子は恵茉に引っ張られて抵抗することなく後ろをついていった。どこに行くのだろう。まったくわからなくて怖い。そうこうしている間にも、恵茉の両耳から這い出た蟻型の妖魔たちがこぼれ落ちた床の上で能天気に歌っている。この歌声は誰にも聞こえていないのだろうか。


 放課後の校舎内は静かだった。全授業が終わった後の普通教室には自主的に居残り勉強をする勤勉な生徒がちらほらいるが、恵茉と祥子には気づかない。祥子はこの校舎内で一人ぼっちになった気分にさせられた。


 二人はやがて廊下の中央にあるガラス戸から渡り廊下に出た。普通教室の棟と特別教室の棟をつなぐ通路だ。恵茉はどうやら特別教室棟に向かっているようだ。意外だった。特別教室棟には部活動をしている生徒がたくさんいるはずである。彼ら彼女らに気づかれはしないだろうか。恵茉の、あるいは恵茉に取りついている妖魔の目的は何だろう。


 恵茉に取りついている妖魔をなんとかしなければならない。

 けれど、どうやって、とまごついている自分にがっかりする。

 感じ取る力があるだけではだめなのだ。この力を使ってどうするかまで考えなければだめなのだ。


 晃に習っておくべきだった、と後悔する。彼は対魔協に所属する退魔師の中では抜群の成績を治めているらしい。最強、と呼ばれている彼に師事していたら、知能があまり高くなさそうな、恵茉の体を使って悪さをしようとしているだけの妖魔など、簡単に退治できたかもしれない。


 足手まといヒロイン、という言葉が頭に浮かんだ。平成の男性向け漫画によくいたらしい。口だけ出して、行動はするが、それが裏目に出て、主人公に助けてもらわないと何もできない。主人公パーティの足を引っ張るヒロインと自分の姿が重なった。


 恵茉は特別教室棟に入ってすぐ二階に上がった。一階は化学室や地学室といった理科系の教室が入っており、二階には視聴覚室や家庭科系の比較的よく使われる部屋があり、三階が音楽室や美術室などの選択科目系の階となっている。三階から吹奏楽部の管楽器の音が鳴り響いている。


 二階の階段をのぼりきると、彼女は右に曲がった。そちらにあるのは調理室と被服室だ。調理室から甘い匂いがする。料理部が焼き菓子を作っているのだろう。


 最終的に恵茉がたどりついたのは、家庭科準備室だった。調理室と被服室の間にある小さな部屋だ。授業の前後に家庭科の教員が使っている。放課後の今は無人だが、几帳面な女性教員二人が使っているだけあって、片づいていて綺麗だった。


 被服室からは手芸部の笑い声が、調理室からは甘い匂いがする。


 人間が、近くにいる。


 祥子の手首を離した恵茉が、被服室で使われているのと同じ木製の椅子を持ってきた。


「座って」

「どうして」

「いいから座って」


 恵茉から漂う負のオーラが強くなった気がした。蟻型の妖魔が心なしか大きくなっている。蟻型の妖魔たちの光り輝く一対の瞳が、祥子を見つめている。


 怖い。


 祥子は言われるがまま椅子に腰をおろした。誰か気づいてくれますようにと祈りながら、膝の上のスカートを握り締めた。


 恵茉の手が伸びた。


 その長い指先が、祥子の眼鏡のつるをつかんだ。


 祥子は驚いたが、何も言えない。ただ硬直して、恵茉がすることを見ていた。


 眼鏡をはずされる。乱暴に投げ捨てられる。床に雑に落ちる。


 どうしてこんなことをするのだろう。祥子の視界を奪うためか。その目論見ならうまくいっている。祥子の視力では恵茉の顔の細かい表情や家庭科準備室の周りの様子を把握できなくなった。


 恵茉が棚に手を伸ばして、何かを引き抜いた。その何かは最初よく見えなかったが、恵茉が右手に持ってそれを動かしたことにより察した。あの独特の交差した形状、じょりじょりという音からするに、裁ちばさみだ。


「何をするの」


 喉がからからに渇いていた。声が震える。


 恵茉が裁ちばさみを持ったまま、ゆっくり、近づいてくる。


 怖くて声も出なくなる。


 あんなので切りつけられたら、大怪我をする。


 恵茉の左手が、祥子の顔に向かって伸びた。


 人差し指と中指で、祥子の前髪を挟む。小指が祥子の額に触れる。


 右手の裁ちばさみが迫ってくる。


 吐きそうになるほどの緊張を感じる。


 裁ちばさみが、祥子の前髪をとらえた。


 じょき、じょき、という音を立てて、祥子の長い前髪を切り落とした。


「綺麗……」


 黒い髪が、祥子の制服のスカートの上に落ちていく。


「本当に綺麗。藤牙さんの顔……ほんとうにすき……」


 恵茉の声が、恍惚としていて、甘ったるい。


「藤牙さん……」


 粘着質な声で名前を呼ばれて、また違う恐怖を感じた。


「どうして顔を隠しちゃうの……? こんなに綺麗なのに……」


 完全に祥子の前髪を眉上で切り落とした恵茉が、そのうっとりとした表情が見えてくるのではないかというほどに、甘く優しい声でささやいてくる。


 右手で裁ちばさみを持ったまま、左手で祥子の頬を包んだ。


「藤牙さん、すき」


 顔が近づいてくる。ぼんやりとしか見えなかった恵茉の顔がやはり笑顔であることを確認できた。


「あんな野蛮な男子どもに譲るなんてありえない。あたしだったら藤牙さんを大事にできるのに。毎日お化粧してあげて、毎日髪の毛に櫛を通してあげて……ああ、髪の毛……綺麗な長い黒髪、つやつやでさらさら……」


 裁ちばさみを床に放り投げた。金属が木製の床の上で跳ねる音がする。


 その周りで、妖魔たちがきゃあきゃあと楽しそうに騒いでいる。妖魔たちが見たかったものが見られたのかもしれない。


『きーす、きーす、きーす、きーす』


 恵茉の右手が、祥子の耳の上から顎のあたりまでを手櫛で梳いた。背中に鳥肌が立った。


「ねえ、キスしてもいい……?」


 祥子はとっさに首を横に振ったが、声は出なかった。けれど祥子が拒んだことは伝わったらしく、恵茉は声を荒げた。


「なんでこんなに好きなのにわかってくれないの? あたしがレズだからキモがってるの?」


 次の時だった。


 ドアが勢いよく開いた。


 恵茉も祥子もドアのほうを向いた。


 入ってきたのは、白い体操服の上に緑のビブスをつけた男子たちだった。顔はほとんどわからないが、このいでたちはサッカー部だ。


「おい、恵茉」


 中でも背の高い少年がこちらに近づいてきた。距離が縮まるたびに顔のパーツがはっきりしていく。蓮だ。


「お前、何やってんだよ」


 恵茉が祥子から離れた。祥子は全身から力が抜けていくのを感じた。


 助かった。


 蟻型の妖魔たちが、わー、わー、と悲鳴を上げて蓮を取り巻いている。けれど蓮は動じない。ああいう悪いものは強くて健全なものが苦手なので、明るく爽やかなスポーツ少年である蓮たちサッカー部の男子には取りつきにくいのだろう。


 蓮が床に落ちていた眼鏡を拾ってくれた。少しの間レンズを見つめてから、「割れたりはしてなさそう」と言いながら祥子に差し出した。祥子は安心のあまり涙があふれてくるのを感じつつ受け取った。眼鏡をかける。周りの景色や人間の様子がはっきりと見えてくる。


「あたしの邪魔をするの」


 恵茉はまだ強気だった。ひと回り大きくなった妖魔たちが肩の上に並んでぎゃあぎゃあと騒いでいる。この妖魔たちが強気である限り恵茉も強気に出られるのではないか、と祥子は推測した。この妖魔たちを黙らせられれば恵茉を黙らせることもできるのではないか。しかしやはり方法は思いつかない。とにかく、サッカー部の男子たちには見えておらず聞こえていないことだけはわかる。


「蓮マジむかつく。あんたちょっとスペックいいからって藤牙さんになれなれしくしても許されると思わないでよね」

「俺のスペックは関係ねえし。ていうか今なら藤牙さんはお前よりかは俺のほうが好きに決まってるだろ、俺藤牙さんの髪勝手に切ったりしねえもん」

「男子ばっかり団体で囲んであたしを責めようっていうの」

「裁ちばさみで他人の髪を切るあぶねえ女と一対一なんて怖すぎるだろうがよ」


 恵茉が、蓮の台詞の中にある女という言葉に反応した。


「あたしが女だからって何なの」


 恵茉の周りの黒いオーラが増幅する。


「女だから女を好きになっちゃいけないの」


 蓮が「えっ」と眉根を寄せた。


「なに、え、それとひとの髪の毛を切る話とはちがくない?」


 恵茉が腕を伸ばして蓮につかみかかった。蓮は抵抗することなく慌てた様子で「そうじゃなくて」と何かを言い掛けたが、周りの男子たちが蓮から恵茉を引き剥がしにかかった。恵茉の関心が自分から逸れて少し冷静になった祥子は、自分のポケットからスマホを取り出した。


 メッセージを三通受信していた。一通目は祥子が送信したすぐ後で「今上野の公園にいる。すぐ行く」、二通目は五分前の「今ついた」、そして三通目は一分前の「どこ?」だった。しまった。







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