第2話 お父さんはお父さんをめぐる刃傷沙汰も経験してるから

 今回のトラブルは蓮と水嶋の間で起こったことである。原因はあの時空き教室で弁当を食べていた全員が知っているが、表面的には暴力におびえて泣いていただけになっている祥子は、罪には問われなかった。水嶋は停学措置が取られるらしいが、被害者の蓮におとがめはなく、祥子は第三者として扱われることが決まった。職員室も事を荒立てたくはないのだろうし、周囲で見ていた生徒たちが蓮と祥子をかばってくれたらしいので、一応これで一件落着、ということになっている。


 しかし、祥子の心が安らぐことはなかった。自分自身が暴力にさらされたことがない祥子は、目の前で暴力沙汰が起こるというだけでも恐ろしく感じる気質である。しかもそれが自分のせいで発生したのだからなおさらだ。その上、知らないところで、自分が男子たちの好奇の目にさらされていたことが発覚した。もう冷静な気持ちで学校に行けないような気がした。


 あの時誰かが呟いた言葉が、耳に残って消えない。


 ――こういうおとなしそうな黒髪ストレートの女のほうがビッチだったりするよね。


 蓮とLINEで一往復するだけでも心臓が爆発しそうになっているぐらいだ。当然、祥子に性交渉の経験はない。男子と手をつないだことすら、保育園のお遊戯会以来である。


 ビッチ、ビッチ、ビッチ――なんとみにくい言葉だろう。そんなものを人間に、それも十六歳の少女に投げつけていいものだろうか。


 晃は何も言わなかった。いつもどおりに一緒に夕飯を食べ、入浴の前後に事務的な会話をして、就寝前におやすみと言ったきりだった。普段と変わらぬ日常だ。夕飯の時も、祥子はできる限り平静を装った。けれど、彼はきっと祥子が落ち込んでいることなどお見通しだろう。むしろ、何も聞いてこないところが、祥子にとっては疑わしかった。彼は何かを感じている。でも、祥子が自分から言い出すことを待っている。


 一度すでにおやすみを言った後だが、一人で子供部屋のベッドにいると不安が倍増してきたので、祥子は思い切って晃の寝室に向かった。ドアをノックする。


「お父さん、今、何してる?」


 ドアの向こう側から「何も」と返ってくる。


「いつもどおり、寝る前に動画見ながらストレッチしてるけど、祥子の用事があるならどうでもいい」


 祥子はほっと息を吐いた。


「入ってもいい?」

「いいよ」


 ドアを開けると、Tシャツにスウェットの晃が、片手にタブレットを持った状態で待っていた。タブレットの電源を落として、ベッドサイドテーブルの上に置く。


「どうした?」


 優しい声を聞き、優しい笑顔を見ていると、祥子の中で何かが決壊した。


「お父さあん」


 腕を伸ばして、晃にしがみついた。晃は穏やかに微笑んだまま祥子の頭を撫でた。




 祥子は、晃のベッドに座り込んで、すぐ隣に腰をおろした晃に事のあらましを洗いざらいしゃべった。祥子はなんにもしていないし、正面切って誰かに咎められてもいないのだが、罪の意識が大きくて、涙が止まらなかった。そんな祥子の話を、晃は急かすことなく、たまに相槌を打ちながら静かに聞いていた。


 ひととおり話し終わると、晃が言った。


「お父さんも子供の頃はいろんな人の人生を狂わせてきたのでちょっとわかる」


 遺伝だったらしい。確かに祥子と晃はよく似た顔立ちをしているので、そういうこともあるのだろう。


「お父さんは気が強かったし男だから、乱暴な手段で解決してきたけど……。祥子はおとなしいから、そういうわけにはいかないよな」

「お父さんも困ったことがあった?」

「お父さんはお父さんをめぐる刃傷沙汰も経験してるから……登場人物全員男で……」


 想像以上にBLの世界だった。


「怖かったよな。よしよし。祥子はなんにも悪くない」


 頭を撫でられた。祥子はまたすすり上げながら晃の肩に頬を寄せた。


「明日からどんな顔して学校に行けばいいんだろう……。午後の授業も気が気じゃなかったよ。休み時間はトイレに逃げて、放課後も文芸部の友達に何も言わずに帰ってきちゃった」

「ショックだったな。でも堂々としていなさい。祥子はなんにも悪くないから。おかしいのは周りの男子たちでしょう」


 祥子にビッチと投げ掛けた声は女子のものだった。声の主が誰かはわからなかったが、彼女も男子に奪い合われる祥子をおもしろくないと思ってそういう言葉を発したのだろうか。


「こればっかりは学校に親が乗り込んでいける話じゃないからな……。怖かったら登下校についていってあげてもいいけど」


 確かに、晃が出ていったら話が余計に混乱しそうである。親が過保護すぎるというのは、高校生にとっていいことではない。


「また何かあったら聞くから。授業中でもいいから、LINEしておいで」

「そんなの、親が勧めていいことじゃないでしょうよ……」


 そう言いながら、祥子は晃の胸にすがりついた。晃の大きな手が祥子の背中を撫でる。


「満足するまで泣いたら、静かに寝なさい。泣いても解決はしないけど、少しは心が落ち着くでしょう」


 晃の言葉に、祥子はひとつ頷いた。


 晃から離れる。


 そして、ベッドの上に横向き姿勢で転がる。


「寝る」

「えっ、ここで?」

「うん。今日はここでお父さんと寝る」


 晃が「ええっ」と声を上げた。


「祥子はもう大きいから自分の部屋のベッドで寝なさい、お父さんのシングルベッドじゃ狭いでしょ」

「だいじょうぶ」

「それは祥子が言う台詞じゃないんだよ」

「だいじょうぶだもん。お父さんと寝る……」


 晃はしばらく黙っていた。祥子は晃のほうに背中を向けて転がっているので、晃がどんな表情で自分の背中を見ているのかわからなかった。でも決して冷たい目ではないという確信があった。


 ややあって、ベッドがぎしりと動いた。マットが沈む。晃が祥子の隣で寝たのだ。


 ベッドサイドテーブルの上にあったリモコンで、晃はライトのスイッチを操作した。明かりが消える。部屋の中が夜の闇に包まれる。


 背後から抱き寄せられた。祥子の背中が晃の胸につく。


「いつまでも甘えん坊で、可愛い。ずっとこうでもいいからな」


 耳元でそうささやかれた。祥子の口元が少し緩んだ。


「お父さん、いい匂いがする」


 ぽつりと言うと、晃が「そう」と答えた。


「毎日この部屋でお香を焚いてるからかな。いい匂いのものは悪いものを遠ざける効果があるから」


 思っていたより実用的な意味があったらしい。単なる趣味だと思っていたが、職業柄必要なのだろう。


「祥子の部屋でも焚こうか。祥子、最近呼び寄せがちみたいだもんな」


 少し背中が寒くなるのを感じた。


「祥子から糸織さんの甘い匂いがするから……少しでもごまかしたほうがいいかもしれない」

「それって、わたしに悪いものが寄ってきている、ってこと?」

「そう。変な揉め事が起こるのも、そういうのに影響されて周りの人間の心が毛羽立っているせいもあるかもしれないから。念のため、な」


 もう少しだけ、晃のほうに寄った。彼に守っていてほしかった。けれど封印を解くと決めたのは祥子自身だ。祥子の責任なのだ。


「祥子、糸織さんと同じ、いい匂いがする……」


 晃が耳元でささやく。


「封印できる呪術師をすぐに見つけられなくてごめんな。事が大きくなる前に、なんとかしないと」

「……うん……」

「とりあえず、対症療法でなんとかしよう。一時しのぎかもしれないけど、明日の放課後、そういう霊力の高そうなグッズを見に行こうか」

「お願い……」


 祥子は、自分の二の腕を優しくぽんぽんと叩く晃の手をつかんで、強く握り締めた。そして、そっと目を閉じた。



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