第5話 大事なのは、パパのハッピーな姿が見られることだから
翌日、祥子は部活を休んで、ホームルームが終わってすぐ下校した。
文芸部の活動はあってないようなもので、部員各自が好きな小説を読んだり書いたりしているだけなので、好きな時に休んでも支障がない。部活より新しい眼鏡だ、と判断した祥子は、美夜に欠席する旨だけ言づけして、学校を出た。
自宅についたのは午後四時半ごろだったが、リビングのソファで晃が爆睡していた。洗濯物も干しっぱなしで、炊飯器の予約もセットされていない。いつから寝ているのだろう。今朝まではちゃんとしていたような気がするのだが、なぜか徹夜したらしいので、午後に力尽きたのか。これは仕事にも行っていないパターンだ。
昨日は仕事の途中で呼び出してしまったし、病院にも連れていってもらい、小宮山親子とも嫌な空気になったので、疲れたのかもしれない。普段人間を十人も二十人も食っているような妖魔を斬っているというのに、娘がちょっと額を切っただけでこんなパニックを起こすなんて、よくわからないやつだ。
とはいえ、さすがの祥子も高校生にもなって親の苦労を慮れない娘ではない。たまには自分が家事をするか、と思い、洗濯物を取り込んでたたんで各部屋の収納にしまい、米を研いで炊飯予約をした。
本当はすぐにでも眼鏡屋に行きたかったが、アリオの眼鏡市場を検索したところ二十一時まで営業しているとのことで、最悪夕飯の後に行ってもいいだろう。古い眼鏡では学校の黒板は見にくかったが、帰宅した今はそんなに不便ではない。
午後六時、葛飾区の防災無線で毎日流れる夕方のチャイムが鳴った。と同時に、リビングから「うわ!」という叫び声が聞こえてきた。晃がチャイムを聞いて起きたようだ。リビングのドアを開閉する音がする。玄関に行き、廊下を走り、祥子の部屋の扉をノックする。
「祥子、帰ってきてるのか」
「いるよお」
祥子は、pixivを見ていたスマホを閉じ、ドアに向かって移動して、内側から開けた。
すぐに晃に抱き締められた。祥子は「わっ」と呟き、少しよろけながら晃にしがみついた。
「どこか痛いとか、気持ち悪いとかないか」
「ぜんぜんないよ」
「そうか……よかった」
体を離して向き合う。晃の大きな手が祥子の頬を揉む。
「顔色もいいな」
推し絵師のイラストを掘って興奮したからね、と思ったけれどそれは晃にとってはどうでもいい話であろう。
「寝てたの? 疲れてた?」
「とりあえず二十四時間は様子を見たほうがいいだろうと思って、一時くらいまではスマホを握って待機してたんだけど、一時過ぎても連絡がないから、大丈夫なんだろうな、って……洗濯物を取り込む前に仮眠しよう、と思ったら、そのまますとんと四、五時間寝ちゃった……」
「お疲れ様」
今度は祥子のほうから抱きついた。小さい頃、祥子がハグをすると喜んでいたのを思い出したからだ。お礼になるだろうか。祥子はもう高校生で大きくなってしまったが、いくつになっても可愛い、とは晃の談である。
晃はもう一度祥子を強く抱き締めた。晃から彼の自室で魔除けに焚いているお香の爽やかな香りがする。玲奈から、うちのお父さんが加齢臭でくさい、という愚痴をよく聞くが、晃はいつもいい匂いがする。
「もう六時になっちゃったな。夕飯、外に食べに行くか」
「あ、お米、炊飯予約セットしちゃった」
「ああ、そう……ありがとな。せっかくセットしてくれたなら、祥子が炊いてくれた米を食べたいな」
「わたし、今日のうちに眼鏡作ってほしいの。アリオの眼鏡市場で眼鏡作って、フードコートでおかずテイクアウトして帰ってこようよ」
「そうだな、それが一番だな。アリオ行くかあ。ちょっと着替えてくる」
晃が離れていく。その後ろ姿を見て、祥子はほっとした。
二人で夕暮れの街を歩く。四月も下旬になると日が伸びて、六時を回ってもまだほんのり明るい。六月の夏至まであと二ヵ月弱だ。日本の夏至は梅雨の真っただ中なので恩恵はあまり感じられないが、空が明るいとなんとなく気持ちも明るい。
「今日、学校で昨日のこと、話題になった?」
晃の問い掛けに、祥子は「そうだねえ」と答えた。
「朝はクラスの人や他クラスの友達が心配してくれていろいろ聞かれたけど、昼休みの頃にはみんなもう忘れちゃった。わたしもべつに痛くないし、目立ちたくないし、特に不満はない」
一部の心無い男子は、絆創膏に引っ掛かるのが嫌で前髪を上げ、いつもの眼鏡よりフレームが細くて目元がはっきり見える状態の祥子を、可愛いね、コンタクトにしなよ、とからかった。祥子は心底それが嫌だったが、頼りになる陽キャの女子たちが、うぜえ、キショい、と言って追い払ってくれたので、助かった。これをきっかけに一軍の女子たちとも仲良くなれるかも、と思うと、怪我の功名だ。
「それに、小宮山くんもすごく心配してくれて、移動教室の時付き添ってくれたりして」
その名前を聞いた途端、晃の目の色が変わった。
「祥子、小宮山蓮と仲良くなったの?」
祥子はぎょっとして首を横に振った。
「ちょっと話しただけだよ、仲良くなったとか、そこまで行ったわけじゃないよ」
「いいか、男子が女子に優しくするのなんて下心以外ありえないんだ、あんまり近づきすぎたらだめだぞ」
「お父さんの発想、平成すぎる。男子高校生だった頃のお父さんがお母さんに下心ありありで近づいたんでしょ」
図星を指された晃が沈黙した。
「小宮山くんはもっと爽やか好青年だもん」
「あっそう……怪我させられたのに印象いいんだな」
「もう、過去の話。痛みもないし、かゆみもないし、お医者さんだって全治一週間って言ってたじゃん。わたし、ぜんぜん恨んでない」
「そっか……心広いな。お父さん、一生小宮山蓮のこと許せそうにないのに……」
そして、もごもごと続ける。
「小宮山家、ちゃんとしてそうだな。両親が揃ってて、両方とも働いてて。パワーカップルだ、パワーカップル」
祥子は驚いた。晃がそんなことを気にするとは思っていなかったのだ。
「二馬力って、いいよな。うちは今お金に困ってないし、祥子が大学に行ってる間の学費と生活費はもう貯金して、俺の自分の老後のための積立を始めたんだけど、金だけの問題じゃないじゃん。俺に何かあったら、祥子が天涯孤独になっちまう。誰が高校生の祥子のために家事をしてくれるんだ。誰が未成年の祥子の代わりに俺の貯蓄や保険を管理してくれるんだ」
「え……急にめっちゃ重いんだけど……」
というか、老後なのか、と思うと祥子もしんどい。晃はまだ三十二歳だ。ひょっとして、祥子が大学を卒業したあたりから晃の老後は始まってしまうのだろうか。祥子が現役で大学に合格して二十二歳で卒業するとなると、晃はまだ三十八歳のはずだ。
こんなに重いことを言い出すくらい、晃にとっては、小宮山母の言動がショックだったのだろうか。大きな企業に勤め、キャリアを積み、三十二歳で健康な息子を産んで育てる。これはきっと、若い頃から退魔師の仕事しかしたことのない晃にとっては、ものすごい偉業なのだ。
「祥子、お母さん、欲しかった? 俺、糸織さんが死んだ後、誰かと再婚したほうがよかったのかな」
思い切って、晃の手を握った。晃が驚いた顔で振り返った。祥子はめいっぱい笑顔を作って、晃にこう言った。
「わたしはお父さんの思うとおりに生きてくれるのが一番嬉しいよ。大事なのはさ、親がハッピーな大人であるところを見せてくれることだと思っているから、わたしはわたしと一緒に暮らすことが楽しそうなお父さんを見ていられるだけで、幸せな子供時代を送ってきたなって思ってるよ」
晃もちょっと笑った。なんだか泣きそうなゆがんだ笑みだったが、それでも確かに笑ってくれた。
「気を遣わせちゃったかな。ごめん」
「んーん、わたしももう高校生だから、そろそろ家族のためにいろいろ考えなきゃだめなんだと思ってる。そういう年頃になったんだよ。お父さんが大切に育ててくれたおかげでさ」
つないだ手を、晃が強く握り締めた。そして、優しく引っ張って、ゆっくり歩き出した。
「俺、確かに幸せだよ。祥子が健康で真面目で優しい、いい子に育ってくれて。大人になった時俺が必要なくなるようになればいいな、それまで俺の手元で大事に育てなきゃな、って考えてる時が一番幸せ」
「うふふ。それでいいじゃん。将来の難しいことはさー、わたしが大人になった時でいいんだよ」
「そうだな。そうしよう。今はとりあえずアリオで眼鏡と夕飯を調達することだけ考えよう」
「うん!」
夕焼けの中、亀有の商店街を、二人で手をつないで歩く。平和で静かな時間だった。
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