許しアイ

「湊、早く! 言い出したのそっちなんだからさ」


 久しぶりに、名前で呼ばれた。


「あ、あぁ……」


 三ヶ月。具体的な日数で表すとそこまででもないが、彼女の言葉にあっけにとられた。


「私なんもわからないから、よろしくね。……うっ、湊に主導を握られてると思うと気分が悪くなってきた」


 えずく真似をしながらも歩みを止めない彼女に、懐かしさが込み上げてくる。

 こらえきれずに、にやけてしまった。


「きもっ。妹が吐きそうにしてて、どうして笑ってるわけ? 心配しなさいよ

「心配してもシスコンだとか言ってくるだろうが」


 頭を小突くと、棒読みで「兄さんひどーい」と言われた。

 流石に、高校じゃこんなノリにはならないよな? 一度痛い目を見たから、大丈夫だと信じたいが。


「そういや、最近は『お兄ちゃん』って呼んでくれなくなったよな」


「同い年だし、高校生がそんな風に言ってたらおかしいでしょ? シスコン湊」


 結局、回避できなかったか。まあいい、自覚はしているからな。


 というか、家の中でその同い年の人を「パパ」だとか呼んでいた奴が言えることじゃなくないか? 


 今の彼女は、どういう状態なんだろう。二重人格かなにかなんだろうか。


「お前もファザコンだろ」


 とにかく会話を繋げようと、思いついた返しを口にした。


「いや……いつの話?」


 話逸らさないで、とか言うと思ったが、全然違った。横を向いて、表情を確認する。困り顔だ。本気で困惑しているらしい。


「今じゃ、父さんのことそんなに好きじゃないのか?」


「湊って、お父さんに対抗しようとするとこあるよね。言い方に棘があるからすぐ分かる」


「かもな。で、僕は父さんの代わりになれてると思う?」


 隣にあった彼女の顔が、後ろにある。僕が一歩進む間、止まっていたからだ。


「……うん。なれてるよ」


 言葉を聞いて、後ろの方に手を伸ばす。伸ばした手に重ねられた細い手は、震えていた。


 学校に着いて、廊下で別れる。クラスが違うのが心惜しい。一緒だったら、フォローもしやすかったのに。


 教室に入って席につくと、早々に細井が近づいてきた。


「あれ、誰だよ。いつの間に彼女なんてつくったんだ?」


「うちの妹をあれ扱いしないでくれ」


「ああ、お前妹いたのか……なるほどな」


 細井は中学生時代からの友人で、あまり学校に来ていない僕とまともに話してくれる唯一のクラスメイトだ。一応、バイトで学校を休んでいることも伝えている。


「意外か?」


「いや。むしろ、納得がいったよ。お前、妙に面倒見がいいからさ」


 そんなことはないと思う。わざわざ他人を助けようとも思えないし、配慮できているかも怪しい。凪にはできるだけそうするように、心がけてはいるが。


「ていうか、なんで俺に言わなかった? 3年一緒でそんなことも知らなかったの、悲しいわ」


 そういえば、こいつはどうして僕と仲良くしてくれたんだろう。中学のころだって、一緒に遊ぶことはほとんどなかった。僕は、ほとんど母と関わっていたから。


 凪は、本当にファザコンだった。あれは一種の――。


「おい。聞いてるか?」


「ああ……あいつは、全然学校に行けてなかったんだよ。中学を含めても今日が初めてだな」

「悪い、そりゃあ言いづらいか」


 彼は時計をちらっと見ると、僕に向かって手を向けた。

 もうすぐ、ホームルームが始まる時間だった。




 チャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気に緩む。先生が教科書を閉じるよりも早く、僕は席を立った。


 すぐに凪がいるクラスへと向かう。自分の教室と並ぶほど、あの教室は行き慣れている。いつ席が変わってもいいように、毎日確認していたからだ。


 廊下の向こうから、凪の笑い声が聞こえる。少し早歩きになる。

 ドアから覗くと、彼女は3人の女子と談笑していた。何を話しているのかは聞き取れないが、置いてけぼりにはされていなそうだ。


(……ちゃんと馴染めてる)


 安堵が、胸を撫でて通り過ぎた。無理やり連れてきたわけじゃないが、どこかで「責任」を感じていたことに気づく。


 けれど、その安堵は長く続かなかった。


 指先がわずかに揺れているのに気づいた。笑ってはいる。でも――その笑顔は、口元だけで作られている気がした。 


 さっきまでは自分から話していたのに、彼女は黙って頷き続けていた。頷きの角度は浅く、一定。笑顔も口角が張り付いたようで、どこかぎこちない。


 そこにいたのは、僕の知らない凪だった。でも、きっとこれも彼女なんだろう。家で見せる顔も、ここでつくっている顔も、どっちも――生きるために選んでる“役”。


 きっと、今も彼女の心には傷が残っている。僕がえぐってしまった傷が。


 そう考えると、家の中での彼女も。子供のように甘えてくる彼女も、僕の知っている凪とは言えないのかもしれない。


 名前で呼ばれた瞬間、僕の中で凪は「家の中の子」と「外の子」に分かれていた。けれど、それは違う、どちらも、彼女が生きるために選んだ「顔」なんだ。


 しかし、僕の中では明確な差が芽生えた。


 家では、疲れている様子なんてない。あれは、わざと甘えることで癒されようとしているんだ。僕と一緒のときだけ、彼女は力を抜くことができる。


 もし、あの顔が――僕以外の誰かに向けられたとしたら。


 その光景を僕はきっと、受け止めきれない。

 目の前の教室に入って、一直線に凪の方へ歩いた。周りの視線が少しずつ集まってくる。


 僕に気づいた彼女が、ぽかんとしていた。


「帰ろう」


 左手で荷物を持って、右手で半ば強引に腕を引っ張る。抵抗はされなかった。




 ある土曜日。僕を「パパ」と呼ぶ凪に、少し出かけてくるとだけ告げて封筒をポケットにいれる。


 近所の公園。目的の人物は、いつものベンチに座っていた。

 還暦間近の女性。母に似た顔が僕の視界に映る。


 僕が近寄ると、叔母は立ち上がって会釈をした。


「はい、今月分」


 手渡した封筒を、彼女は少し困ったような顔で受け取る。これで何度目だろう。毎月、同じやりとり。意味はわかっているのに、形だけが繰り返される。


 一ヶ月の最後の週に、バイトで稼いだ金は全て渡すことに決めていた。仕送りの額と釣り合ってはいないが、決して少ないわけでもない。


「……本当に、いいの? 無理しなくていいのよ」


 その言葉も、何度目だろう。僕も同じように返す。

「あんまり、頼りたくないから。自立したいんだよ」


 口ではそう言うが、正直、自分でも分からなくなっていた。これは本当に自立なんだろうか。


「でも、困ってることとかあったら――」


「結構です」


 語尾が少し強くなった。声の調子に、自分の苛立ちが混じっているのが分かった。

 背を向けて歩き出す。背後で叔母が何か言いかけた気がしたが、聞き取れなかった。


 凪を助けられるのは僕だけなんだ。そう思わなければ、この役割は続けられない。僕はもう、“家族”ではなくなってしまう。


 だというのに――。


「おかえり、兄さん」


 帰ってきたとき、妹は僕をそう呼んだ。


 完全に元に戻ったわけではない。軽口を言うわけでも、甘えるのをやめるわけでもなかった。外での凪と、家での凪。その間を揺れている。


 明日になれば、またべたべたしてくると思った。きっと、一日限りの我慢だろうと。


 しかし、彼女はもう僕のベッドにダイブしてこない。わざとパンくずをこぼすことも。


 喜ぶべきことだ。一歩前進。時間が経てば元の関係に戻れるだろう。

 なのに、僕はこの現実を受け入れられない。甘えてくることがなくなるのが、寂しいのかもしれない。


 月曜日。学校に行く支度を終えた凪が、玄関の前で振り向いた。


「ごめんね、困らせちゃって」


 らしくないことを言われた。素直に謝られたことなんて、一度もない。


「困らせるってなんだよ……家族なんだから、気にすんな」


 言いながら、出てくる言葉に抵抗感を感じた。

 間を置いて、凪はうなずいた。顔は笑っていたけれど、その目の奥には何かが沈んでいた。


「ほんと、自分のペースでいいからさ。……僕は、大丈夫」


 嘘じゃない。本音でもない。

 凪が胸に顔を寄せてくる。あたたかくて、でもどこか遠い。


「ほんと、自分のペースでいいから! 僕はなんも困ってないよ」


「ありがとう」


 そう言って、顔を僕の胸にうずめる。

 今、僕はちゃんと笑えているだろうか。


 学校で見る凪は、またもや無理をしていた。前は疲れている表情が浮かんで初めて気づいていたが、今は声を聞くだけで分かる。


 あのときは、凪の成長を望めていたのかもしれない。


「なあ、無理してるだろ」


 ソファでくつろいでいたのに、突然キッチンへ向かおうとする彼女に言った。


「そりゃあ……してるけど」


「そんな簡単に、認めないでくれよ……らしくないじゃないか」


 何を感じ取ったのか、「ありがとう」と感謝してから凪は言葉を続けた。


「でもさ、私もそろそろ大人にならなきゃ」


 一瞬だけ目を伏せた。口の中に、苦いものが広がっていく。


 何か言おうとして、でも言葉が見つからなかった。ほんの数秒の沈黙が、永遠のように感じられる。


「……やだ」


 一度吐き出すと、止まらなかった。


「僕に頼っててくれよ。もっと……甘えてて、くれ」


 肩が小さく揺れる。弱音がすぐそこに、迫っていた。


「置いていかれたくなんて、ないんだ」


 言い切ったとき、凪は目を見開いていた。当たり前か。こんな、みっともない姿見せて。


「置いていくわけじゃないよ。私たち、双子でしょ? 同じ日に、同じ病院で生まれた。なのに、私だけが支えられてるなんて、耐えられないから」


 焦りで満ちていた胸が、いきなり空っぽになった。ただ、妹を見つめる。


「だから――私にも、頑張らせて」


 言葉がつかえたまま、動いたのは体だった。


 気がつけば、凪の肩を掴んでいた。止める間もなく、体が前へと傾く。ゆっくりと、重心がずれていく。凪が、受け止める間もなく倒れこむ。


 時間が引き延ばされたようだった。ソファのクッションが凪の背中を受け止めるまでの間に、僕の心は何度も何度も警鐘を鳴らしていた。


(やめろ、離せ、そんなつもりじゃない)


 けれど、もう遅かった。


 凪の髪が宙を舞い、うつ伏せに沈んだ僕の腕の中で、細い首がたわむように動いた。

「……っ!」


 その瞬間、全身の血が逆流したかのような感覚に襲われる。呼吸が詰まり、頭が真っ白になる。

 凪の顔が、うっすらと苦悶に歪んでいた。身体がかすかに震えている。


――これが、僕の本音なのか?


 兄でもなく、父でもなく。凪を“従わせたい”という、ただの衝動。それがこの手にあった。


 急いで、手を放した。


「っ、ごめ……!」


 凪が目を見開いたまま、動かなくなる。


 震える手で携帯を掴み、番号を押す。救急車を呼んで、全身の力が抜けた。

 目の前には、凪が倒れている。その現実しか残されていなくて、衝動的に包丁を取った。


 死ぬのは、だめだ。迷惑をかける。でも、痛みに逃げるくらいなら。


 ほとんど力が入らない体でなんとか刃物を振り下ろす。

 しかし、僕の太ももについたのはほんの小さな傷だった。絆創膏を貼るだけでいいような傷。


 手を、床に叩きつける。手のひらのじんわりとした痛みが唯一の頼りだった。

 そこからのことは、よく覚えていない。


 気づいたら、僕は病院にいて。そして、叔母に問いただされていた。


「なんで、こんなこと……」


 ベッドで意識を取り戻さない凪をちらっと見てから、彼女の目は僕を真っ直ぐ見つめた。


 突き飛ばそうとしたのは、自分の意思だった。けれど、押し倒せるとは思っていなかった。


 押し倒せた瞬間、思ってしまったんだ。

 僕は、こいつより強い。

 兄としてでも、父親としてでもなく。ただ、力で支配できる存在として。

 気づいたとき、手が動いた。動いてしまった。


「怒鳴ってよ」


「え?」


「僕が悪いんだよ! それくらい、分かってるだろ? なのに、なんで怒らないんだよ!」


 ただ、怒られて償った気分になりたいだけだ。それを、どうしてこんなに怒鳴ってしまうんだろう。


「察しはつくわ。アルバイトとか、学校生活とか。けど、湊の口から何も聞いてないでしょう」


「僕が言わないのが悪いんだから、予想で叱ってくれてもいいじゃないか。それに、僕が嘘つく可能性だって――」


「信じてる。私はあなたを信じてるの。関わりが多かったわけじゃないけどね。それでも、私からすれば大切な家族なの」


 叔母は、僕を抱きしめた。温かくて、優しく包み込んでくれる体温。

……こんな感触、最後に感じたのはいつだったろう。


 思い出せたのは、泣きじゃくっていた僕を、母が黙って抱きしめてくれた夜のことだった。そのときと同じ匂いがした。


 彼女の胸の中で僕は、全てを話した。

 それから、警察の人が来た。口論になったとだけ言って、深く状況説明をしなかった。


 叔母が庇ってくれたおかげか、僕の処罰は凪が目覚めるまで先延ばしにされたらしい。


 毎日、見舞いに来ることにした。最初は、学校に行ったほうがいいと反対された。しかし、今日まで引き止められたことはない。


「なあ、どうしてあのままの関係でいようとしたのか、やっと分かったよ」


 まだ目覚めない妹に、話しかける。もう、一週間が経ちそうだ。


「僕さ、お前が父さんにべったりになったとき、怖かったんだ。ケンカする時間もとられて。そんなわけないのに、もう僕は家族じゃなくなっちゃったんじゃないかって」

 カーテンの向こうから、朝の光がぼんやりと差し込んでいた。それでも、病室の空気は重く沈んでいる。


 いつもは寝息に耳を澄ませていると、すぐに日が暮れる。でも、今日は違った。胸の中に、疑念が湧いてくる。


 僕は、嫌われてしまったんじゃないか。だから、凪は目を覚まそうとしないんじゃないか、と。


 叔母と話していて、克服したはずの疎外感。まだ心の底から、自分を凪の兄だと思えていないような気がした。


「……いたの?」


 かすれた声が、鼓膜を揺らした。

 凪の声だ。

 僕の体が勝手に動いて、手が彼女の頭に向かっていった。


 けれど――たどり着く直前で止まる。


 彼女の顔が、怯えるようにゆらぐ。大きく動いたことで、首までかかっていた毛布が下がった。そこには、紫色の跡がくっきりと残っている。僕が、彼女を傷つけた証。


「……」


 言葉が出ない。謝罪なんて、求められていないと思った。


「看護師さん、呼んでくるからな」


 立ち去ろうとしたとき、凪が僕の手を掴んだ。

 その手は冷たくて、小刻みに震えていた。それでも、離れようとする僕の手を、彼女はもう一度引き寄せた。


 やがて彼女の手が、僕の手を自分の頭の上に乗せる。

 恐る恐る、髪を撫でた。


 瞬間、目の前の顔に苦悶の表情が浮かんだ。顔をしかめ、息を止めたような表情。明らかに、体も震えている。


 それでも、僕の手を握り続け、頭から離すことを認めなかった。

 この瞬間、多分僕は許されたのだろう。全てを水に流されたわけではない。ここから、再出発のための一歩。


「ごめん」


 凪がもう一度呟いた。

 何に大しての謝罪なのかは分からなかったけれど。それでも僕は、静かにうなずいた。


 この瞬間、僕も――許した。


 いつか、”兄妹”に戻るために。 

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暴言を吐かれる、その日まで。 ひょん。@そこらへんの学生 @sokorahenn

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