暴言を吐かれる、その日まで。

ひょん。@そこらへんの学生

必死の抵抗

 まぶたの裏に、カーテン越しの淡い光がにじんでいる。

 枕元の時計に目をやると、午前五時半。この時間に起こされるのも、もう慣れてしまった。


「パパ、おはよ!」


 まだ夜の帳が完全に明けていない、ひんやりとした静寂を切り裂くように、凪が僕の上にダイブしてきた。

 突然の重みに呻き声を上げそうになったが、間一髪で飲み込む。


 どうしてこうも元気いっぱいなのかと、いつも不思議に思う。最初のうちは僕のほうが起こしにいっていたのに、今では形勢逆転だ。

 そうして毎朝凪は小さな得意顔をする。勝負のつもりらしい。


 彼女の体が、背中にぴったりくっついてる。毛布が一枚あるだけで、ほとんど密着状態。ちょっと苦しい。でも、振り払うわけにもいかない。


「なあ、乗っかってたら起きれないだろ。どいてくれないか」


「うん、わかった。けど、よしよししてね?」


 取引を持ちかけてくる彼女に、少し眉をひそめた。僕が起きなかったら朝食の準備にも学校に行くのにも、困るのはこいつなのに。


 しかし、にこやかな笑顔を見て、反論の言葉は消えてしまう。ちょっとした不満なんて、いちころだ。

 結局、僕はずっと前からこの笑顔に弱い。


 ベッドにちょこんと座りながらじっと見つめてくる凪の頭に手を置いて、ゆっくりスライドさせた。


 やっぱりまだ、現実っぽくない。

 凪の「父親」になったのは、半年前だ。少なくとも、そう呼ばれるようになったのは。


 最初は、喧嘩ばかりだったはず。なのに、いきなりべったりになった。……僕のせいで。

 彼女に、一番言ってはいけない言葉。かっとなって、それを言ってしまった。あの瞬間の目は、きっと忘れられない。


 口から出た瞬間、自分でも後戻りできないとわかっていた。その言葉が、彼女の何を壊したのか、想像すらできない。

 それから毎朝、僕のベッドの、僕の隣を占領している。たまに落ちてしまいそうになるが、彼女の安心を勝ち取るためならまだ割り切れることだ。


「ねむい……」

 考え事をしていると、抱き着かれてしまった。顎が当たるから確かめることはできないが、僕の胸の中でうつらうつらとしていることだろう。

「まったく」

 深く息を吐きながら、僕から彼女の体を優しく離して、ベッドに寝かせた。


 愛しい「家族」の寝顔を少しの間眺めながら、口元が緩んだ。

 口から、寝息が漏れていた。空気の振動がカーテンを揺らすように、微かに僕の時間をずらしてくる。


 もちろん、部屋を出てドアを閉めるときは細心の注意を払って。

 この作業も、手慣れたものだ。そうなるくらいに、僕の生活の中心は凪にある。それが、僕の役目。


 早起きも、献立の組み立ても、日用品の買い出しも――すべてが彼女ありきだ。

 キッチンに向かう。まずやるべきは朝食の準備だ。

 いざ取りかかろうと見てみると、マグカップとトースト皿が二つ並んでいる。パン焼き器には食パンがセットされ、コーヒーメーカーからは微かに豆の香りが漂っていた。


 僕を起こす前に、準備してくれたのかもしれない。。最近、気が利くようになった気がする。

 卵がじゅわっと音を立てて、朝の空気をくすぐった。コーヒーの抽出音と重なって、小さな音楽みたいだ。


 意図せず作られたこの日常に、僕はまだ慣れていない。


「ごめん、二度寝しちゃった! 朝ごはんくらい自分で作ろうと思ったのに……」

 しょぼくれた顔でキッチンに現れた凪を見て、思わず目を細める。

 目の端が少し赤い。慌てて起きてきたのか、寝起きの気配がまだ残っていた。


「その割にはぐっすりだったじゃないか」


 コーヒーを一口飲みながらからかうと、ぷくっと頬をふくらませた。


「責めないでよぉ……パパがあったかすぎたんだもん」

 言い訳にならない言い訳をして、こちらを睨んでくる。頑張って力を入れているのか、眉間の辺りがピクピクしていた。


 しょぼくれた顔は面影もなく、ふてくされた顔に変わっている。移り変わりがいかにも子どもらしくて、思わず笑みがこぼれそうになる。


 僕は布団じゃないんだけどな。


 まあ、僕に甘えるのが彼女にとっての「朝のスタート」になっているのだとしたら――それも悪くないか。


「そんなことより早く食え。冷めるぞ」


 熱いコーヒーを一口含む。朝のひだまりの中、食器とフォークが触れ合う音と、僕らの咀嚼音が響く。


 本当に、静かだ。


 こんなにも平和で、穏やかで、温かい時間が僕に与えられていいのだろうかまだ、どこか信じられない。


 パンくずをぼろぼろとこぼす少女を見ながら、天を仰ぐ。

 こんな朝が繰り返されたらな。そんな風に、つい思ってしまう。


「ごちそうさま」


 一緒に手を合わせて、皿を回収する。流しに置いた後、熱が冷めたマグカップをゆっくりとすすぐ。

 コーヒーの香りが少しだけ残っていた。


 振り返ると、凪が制服姿で部屋から出てくるところだった。

 いつものスカート。カーディガンのボタンが一つずれている。


「ボタン、反対」


「あっ……またやっちゃった」


 マグカップを置いた。

 苦笑いを浮かべる彼女に近づいて、手早く留め直してやる。

 制服を着ていると、僕と凪で身長がほとんど変わらないことを実感する。

 振る舞いと、体が噛み合っているからだろう。


 鞄を背負い、靴を履き、準備万端になった凪が玄関でくるりと振り返る。

 リビングから少し距離があるぶん、その笑顔が少しぼやけて見えた。


「ねえ、今日はバイト?」

「そうだな。明日は学校行けると思うけど」


 叔母から生活費はもらっている。それでも、頼り切りになるわけにはいかない。少しでも、返せるように。

 いってらっしゃい、と口にするより前に、彼女が言葉を発した。


「学校行く気失せちゃった」

 さっきまでの子供っぽさが嘘みたいに、落ち着いていた。けれど、その声にはどこか遠くを見るような影があった。


 彼女は、一度も高校に行っていない。制服に着替えることはあっても、その先はない。今日初めて、家を出る寸前まで動けたくらいだ。


 返事をしようとして、喉が詰まる。何も出てこなかった。

 言葉の代わりに、微笑む。

 凪はそれを見て、部屋に戻っていった。


 まだ開いている玄関だけが、彼女の決心を覚えてくれているような気がした。

 ドアを閉めながら、ため息を吐く。今さっき凪に向けた微笑みは、本物ではない。場をやり過ごすためだけの表情だった。


――あのころは、本物だったのにな。

 小学校の低学年。

 凪は繊細なくせに、誰よりも先に言葉が口に出るタイプだった。


「お兄ちゃん、宿題まちがってる! ばーか!」

 そう言って僕のプリントを奪い、赤ペンででたらめな丸を書きまくる。

 宿題を終えるのは、僕にとって一番に優先すべきことだった。当然、黙っていられるわけがなくて僕も言い返す。


「返せよ! お前だって、漢字間違ってたくせに!」

 毎日のように言い合って、軽い取っ組み合いになって、結局は両親に見つかった。もちろん、僕が怒られる。


 当時は不満に思った。どうして僕ばかりが怒られて、凪はなんの罰もないのか。僕から突っかかったことなんて一度もないのに。


次の日には何事もなかったかのようにランドセルを背負って二人で歩いた。クラスメイトといるよりも気が楽で、楽しいこともあったから。


「兄妹」とは、そういうものだった。喧嘩はしても、互いを傷つけることはない。その境は、きちんと見極められていたはずだ。

 だが、許せる行動とそうでない行動の境目は人によって違う。家族と他人を比べるなら、なおさら。


 凪は、いつの間にか教室で一人になっていた。


 誰かに何かされたわけじゃない。僕を相手にするように暴言を口にし、相手にぐいっと距離を詰めた――その結果、引かれてしまう。


「それじゃ、嫌われるよ」

  何度もそう思った。だが、言えなかった。


 凪は、昔からああいう子だ。人の輪に入るのが得意じゃないからこそ、躍起になって距離感を間違える。双子の僕が一番よく知っていた。だが、どうすれば止められるのか、分からなかった。


 放課後、靴箱で下を向いたまま立ち尽くしている彼女を見かけたことがある。

 ただ立っているだけ。しかし、僕でも初めて見るような背中だった。細くて、小さくて、少しつつけば崩れ落ちてしまいそうな気がした。


 僕は見ないふりをすることにした。玄関口で僕に手招きする友達と一緒に帰り、もう凪と一緒に帰ることはしなかった。


 喧嘩をすることもなくなっていた。凪は僕を煽らなくなり、僕も凪に何も言わなくなった。


 ある日、彼女が限界を迎えた。父に泣きつき、まとまりのない言葉を吐露した。

 それを見て僕は、やっと自分の失敗に気づいた。


 正直なところ、助けられることを彼女は嫌がると思っていた。プライドが邪魔して、助けが必要な状態に陥っているのを認めたくないだろうと。

 実際、そう思ってはいたはずだ。しかし僕が迷っている間に凪の中では、何かが静かに壊れ始めていたのかもしれない。


 その日から、父が彼女に付き添う時間が増えていった。

 塾の迎え、買い物に休日のドライブ。父が凪を救って初めて、凪の笑顔を見たのが久しぶりだと実感した。もっとも父に向ける笑顔と、僕に向けていた笑顔は違うものだったが。


 自然と、僕は母と一緒にいることが増えた。彼女はよく相談に乗ってくれて、僕は家事の手伝いをした。それが、対価だと思ったりもしていた。実際は、見合った行動になっていないのに。


 母は色々な家事のやり方を教えてくれて、それができれば褒めてくれた。今思えば僕は、与えられてばかりだったのだ。満たされていたと思うべきだっただろう。

 しかし、食卓で凪が父の隣に座って笑うのを見て、ふと思った。


――もう、僕は”お兄ちゃん”じゃなくなったんだ。


 いつからだったか、凪は一人だと自発的に外へ出ることができなくなっていた。彼女が日の光を浴びるときには、必ず父が付き添う。


 そのころにはもう、僕は彼女に対して全く口を開かなかった。凪が必要としているのは、僕ではないから。

 話しかけられるようなことがあれば、付き合うつもりではいたが。


 そんなある日。

 学校から帰ってくると、誰もいない。

 慌てて電気をつけると、リビングテーブルに書き置きが残されているのが視界に入った。


「三人で買い物に行ってくるから、留守番お願い」

 読んですぐに、付箋を地面に投げつけた。思ったように力が伝わらず、ひらひらと地面に落ちた。


 涙が頬を伝っていた。僕だけが、家族から外れたような疎外感が心を支配した。

 顔を伏せてうずくまっていると、電話が鳴った。知らない電話番号。無視しようと電話の近くを離れようとしたとき、留守番電話に切り替わった。


 声が流れ出した瞬間、へたり込んでしまった。背筋をなぞるように、冷たいものが這い上がってくる。


 それは、両親が交通事故に遭ったことを知らせるものだった。


僕らは叔母に引き取られた。その途端、凪はあの頃と同じように突っかかってきた。変わらない熱量でケンカをふっかけてくる彼女に、心のどこかでほっとしたのも事実だ。


  さすがに手は出ない。ただ暴言を吐き合うだけで、咎められることもなかった。

 しかし、良いことばかりでもなかった。なぜだか彼女は、叔母の言うことに聞く耳もたず、端から馴染もうとしなかった。


 理由を訊いても返ってくるのは愚痴だけ。このままでは、凪の性格に悪影響が出てしまうような気がした。


「――だから、高校生になったら凪と二人暮らししたいんだ。だから、そのためのお金を出してほしくて」

 叔母の目が、一瞬揺れた。それでも、すぐに小さくうなずいてくれた。それだけで、僕の胸は少しだけ軽くなった。


 1ヶ月後。僕らは高校に進学し、二人暮らしを始めた。


 叔母が用意してくれたのは、小さなアパートの二階で、間取りは3K。話によると、相続したものらしい。

  新しくはないけど日当たりがよく、周囲も静かで必要なものは全てそろっていた。


 凪は、自分の部屋が与えられたことに最初こそはしゃいでいたが、3日もすると、リビングで過ごす時間のほうが長くなっていた。


「ひとりで寝るのって、結構怖いね」

 笑ってそう言ったときの声は、どこか探るような響きがあった。

 一緒に寝ようか、なんて言えたらよかったのかもしれない。だが、僕はそれに何も答えられなかった。


 家事は、ほとんど僕がやっていた。

 母が教えてくれたご飯の炊き方、洗濯のコツ、風呂掃除の順番。覚えていることを一つずつ繰り返していくうちに、少しずつ「家の形」ができていった。

 双子の妹は、基本的に何も手伝わなかった。頼めば動くものの、言わなければそのままだ。


 それでも、たまにこんなことを言っていた。


「なんでお兄ちゃんがこんな苦労しなきゃいけないのかなあ……お母さんが事故に遭わなかったよかったのにね」


 その言葉に、胸の中で鈍い音が響いた。

似たような言葉を、何度も聞いた。


「お母さん、いつもボーッとしてたからね」


 なんとか、笑顔を貼り付けた。


「信号も見てなかったんだよ」


 そんなわけ、ない。


 あの人は、どんなに忙しくても、家族の顔だけはいつも見ていたんだから。


「ちゃんとしてれば……」


 耳をふさいだ。


 母のことを、侮辱なんてされたくなかった。僕に、凪に、父に、母。四人の生活で必要な家事を、1人でこなしていた人だから。


 そう思えば、僕が二人分の家事をする苦労なんて、あってないようなものだ。凪は母とほとんど関わっていなかったから、実感する機会もなかったのだろう。


 ある日、凪は一線を越えた。

「お母さん、本当に最後まで迷惑な人だったよね。全部置いて、自分だけいなくなってさ」 箸の音が止まる。 僕は手の中の茶碗を、固く握りしめていた。


「……もう、やめろよ」


「……え?」

「それ、全部違うだろ」


  声が震えた。自分でもはっきりと分かるほどに。


「お前が飛び出したからだろうが!二人は、それを追いかけて……」

 目の前の少女が、固まった。

 箸を持つ手が止まり、目を見開いたまま、何も言わない。視線の先が、明後日の方向を向いていた。


 僕も、それ以上の言葉は出さなかった。口の中が乾いて、喉が焼けるようだった。

 あの夜、凪は言葉をなくした。そして今、彼女は僕を「パパ」と呼ぶ。


 ”兄”としての僕の否定だった。このままでは、もう守れない。支えになれない。

 凪はそうやって、僕という一人の存在に、新しいラベルを貼った。壊れかけた関係を、せめて形だけでもつなぎとめるために。


 その行動の裏にある痛みに、僕は気づいていた。気付いた上で、ずっと――見ないふりをしていた。

 

 強い日差しに、汗がしたたる。

 目の前にあるのは、通い慣れた路地。バイトへ向かうまでの通り道だった。

 自分の状況を整理しながら、勝手に動いていく足に従って進んでいく。


 少し歩くと、いつものモールの入口が見える。

 数秒だけ、空を見上げた。この猛暑の中、青はみているだけで涼しくなる。

 小さな鼓動を刻むようなエスカレーターに乗って、いくつも並んだ店の中のあるカフェに入る。


「おはようございます」

 ロッカー前にはすでに篠原さんがいて、軽く会釈する。最近、よく一緒になっている気がする。


 彼は大学生で、バイトは少しでも母親の負担を減らすためだと聞いたことがある。片親家庭らしい。


「ああ、おはよう。……あ、そういえばさ」

 エプロンの紐を結びながら続ける。

「妹さん、元気? ほら、お前、こんな時間にいるってことは高校休んだんだろ」

 一瞬、どうして彼女のことを聞かれたのか分からなかった。


 確か、平日でも午前からバイトする言い訳として、凪を使ったんだったか。

 高校生がこんな時間に働いていたら、怪しむ人はいる。

 妹の影響で、学校に行けない日がある。

 それだけを言えば詮索されることはなかった。


「……まあ、悪くはないですよ」

 僕の声が落ちる。制服に着替え終わった篠原さんはすぐ察するように、言葉を選ぶ。


「……大変だな。しかも、高校は毎日午前から授業があるもんなあ」


「そうですね……最低限しか行けてないです」

 最初は学校に事情を説明しようとも思ったが、叔母に知られたくはなかった。

 そうなれば、絶対に二人暮らしはやめさせられる。


「妹思いだよな。俺には真似できそうにねえ」


 少しだけ間を置いて発された言葉に、思わず目を伏せた。

 妹思い。

 本当のところ、そうなのだろうか。僕は、凪のために動いているつもりだ。でもそれは、本当に思いやりと呼べるものなのか。


 後悔の裏返しではなく。罪悪感の逃げ場でもなく。


 「……ありがとうございます」

 形だけの感謝をして、ロッカーの扉を閉めた。自分の声が、どこか遠くから聞こえるような気がした。


「よし、今日も頑張るぞ」

 篠原さんが、僕の肩を後ろから軽く叩く。

 ロッカールームを出ると、カフェの照明が見えてくる。


 ふと、朝のダイニングでパンくずをこぼしていた凪の姿が頭に浮かぶ。二度寝を必死に言い訳したりもしていて。

 その顔を思い出すだけで、胸の奥がきゅっと締め付けられる。


 彼女にとって、僕は「父親」だ。パパと呼んでくるんだから、きっとそうだ。

 しかし、僕にとって彼女はなんだ? 少なくとも、「娘」ではない。


 ただひとつ。


 あの子の隣に、自分がいなければいけない。それだけは、確かだった。


 バイトを終えて、店内の時計を見ると、もう6時にさしかかろうとしていた。

 ここから家まで、徒歩30分。もったいないが、バスを使うことにした。

 車窓の外の暗がりが、胸の奥の感情を静かに掻き立てる。さまざまな場面がよぎる中、ふと気になった。


 僕がいないとき、凪はどういう風に過ごしているんだろう。

 あれは幼児退行と言うのだろうか。確かに言動が幼くなってしまった彼女だが、一人でいるときは案外普通に過ごしているのかもしれない。


……実際のところは、分からない。


 それでも頭に浮かんでくるのは、玄関のドアの前でじっと待つ、少女の姿。

 それはきっと、僕の願望だった。

 見覚えのある景色が目に飛び込んできて、慌てて降車ボタンを押す。バス停がある場所は知っていたものの、名前までは知らなかった。


 エアブレーキがかかる音とともに、前に引っ張られた。最近は運動していないからか、体幹が弱くなった気がする。


 バス停から歩いて三分。アパートの2階に続く外階段を上りながら、鍵を取り出す。

 鍵穴に差し込む音がやけに大きく感じられた。


 扉を開けると、部屋の中は静かだった。電気は点いている。凪は、リビングのソファに座っていた。


 テレビを観ているわけでも、スマホを手にしているわけでもない。ただ、膝を抱えている。


 口元がにやけるのを隠しながら、こっそりと近づいていく。しかし、残り5メートルといったところで彼女は顔を上げた。


「ただいま」

 驚かすのに失敗して、若干気まずい。少しわざとらしい言葉になってしまった。


「遅いよ」


 ソファにうつぶせになって、そう言われた。くぐもった声だからか、余計寂しく響いて聞こえる。


 「ごめん」とは言わなかった。それじゃあ、中途半端になってしまうから。言葉よりも、態度のほうが伝わると思った。


 すぐ、夕食の支度にとりかかる。冷蔵庫で目についたのは、卵にベーコン。シンプルな炒め物を作ることにした。


 できるだけ手際よく、かつ失敗はしないように手を動かす。やがて、ベーコンを焼く音と、いい匂いがキッチンに広がった。


 ソファから動く気配がなかった凪も、それらに釣られてテーブルについた。普段より一時間以上遅くなってしまったのだから、当然だろう。


「いただきます」

 最初言葉にしたのは、僕だけだった。しかし、食べないで待っていると彼女も口にした。


 二人で並んで食べる食卓は、ひどく静かだった。なんとなく、凪が父にべったりだったあの時期を思い出す。


 べったりとは言っても、今の彼女に比べたら塩対応に見える。本来、家族に抱きついたりする生活ではないのだ。


 食器が触れる音と、時折凪の箸が皿をつつく音だけが響いていた。

 食器を片付け終えるころには、すっかり夜も更けていた。夏の一日というのは、どうも短く感じられる。


 凪が時計を気にしているのを見て、声をかける。


「お風呂、入るか?」


 返ってきたのは、ほんの少しだけ浮かんだ笑顔とうなずき。言葉はなくとも、それで充分だった。

 湯船にお湯を張りながら、必要なタオルやらパジャマやらを準備する。


 最初は別々に入っていたのに、今ではもう一緒なのがあたりまえになってしまっていた。

 もちろん、高校生二人が同時に湯船に浸かればお湯が溢れ出す。だから、交互に洗い合うようにしている。


「入るよ」


 凪が脱衣所に現れたとき、僕は湯船に浸かっていた。

 服を脱ぐ音。シャワーカーテンが揺れる気配。そして、背中越しに近づいてくる。

 入ってきた妹に背を向けて、壁と向き合った。この状況を、どう対応すればいいのかわからない。彼女の裸体を見てどきどきするわけではなくとも、困惑はある。


 壁を見続けてから、ずっと鳴っていたシャワーの音が途切れた。かといって、頭を手で擦る音も聞こえてこない。


「パパに、髪洗ってほしいな」


 反響しながら聞こえてくる声に、耳を疑った。だが、彼女が望むなら仕方がない。

 湯船から出て、風呂椅子に座る凪の後ろにしゃがんだ。横に置いてあるシャンプーの容器のポンプを押し出す。


 少しねばっとした透明な液体を手で泡立てた後、指の腹で優しく頭皮を撫でた。細くて、柔らかくて、まるでシルクのような髪だ。

 こうして触れていると、彼女がどれだけ手入れをしているかがよく分かる。 


 それと同時に知らなくていいことまで、手のひらに伝わってくる気がした。

 例えば、今どんな顔をしているのか。目を閉じているのか、開けているのか。笑っているのか、それとも――。


「なあ。安心、するか?」

 口から出た言葉があまりに唐突で、自分でも驚いた。しばらく沈黙が続いたが、しばらくして「うん」と短い返事が聞こえた。


 その声に、ほっとしてしまう自分がいる。まるで、自分が肯定されているような感覚だった。

 泡を丁寧に流しながら、思う。これはただのシャンプーの時間ではないと。

 彼女にとっての安心の証であり、僕にとっての贖罪の儀式だ。


 でも、これを続けていくことで本当に彼女は救われるのか。僕は、前進できているのだろうか。

 最後にそっと、髪の毛を手ぐしでとかす。甘くて、どこか懐かしいシャンプーの匂い。 湯気とともに立ちのぼるそれは、もう帰れない夕暮れの匂いにも似ていた。

 少しの間、彼女は僕に体重をあずけた。体温が、湯の温度よりも熱く感じられる。


「ありがと」


 彼女が呟いて、僕は解放された。すぐさま風呂場から立ち去り、体を拭く。パジャマの袖を通す手が、少しだけ震えた。


 僕の周りから霧散していく湯気とは反対に、気配はまだここに感じた。微かに寄せられた体温に、優しい声。焼き付いた光景は、離れそうもなかった。


 あれは、彼女にとっての安心だ。それと同時に、僕にとってはどこかで「逃げ」になっている気がする。

 父親のふりをすることで本来の兄という立場を捨て、何かを保っているだけだ。

 けれど、そんな逃げ道で築かれた関係は、きっと長くは保てない。


(このままじゃ、いけない)


 声に出すわけではなかったが、心の底でそれだけ心の中で呟いた。

 僕たちは、どこかで関係を間違えてしまった。それは、僕が「見ないふり」をしたときかもしれないし、暴言を浴びせたときかもしれない。


 でも。それでも、まだ……

 まだ間に合うのだと――信じたい。


 寝室の入り口の辺りを見ていると、凪が視界に入った。黒い長髪は乾ききっていて、ピンク単色のパジャマを着ている。


 明るすぎて、どこか浮いていた。それに、少し小さい。やっぱり中学生と高校生じゃ、違うんだな。


 隣のベッドがきしむ。視線を向けると、凪が毛布を軽く蹴飛ばして隅に追いやっていた。


 結局朝になればこっちのベッドに来るのだから、わざわざ別ける必要もない気がする。同じように、今更そうする必要もないか。


 視界の隅に、凪がいる。まぶたは半開き。猫みたいに、ぼんやりとした目だ。


「おやすみ」

 あくび混じりの声が、胸の奥をかすかに締めつけた。


 毛布を引き寄せ、一つ息を吐いた。このまま終えれば、明日もまた同じような一日が続く。


 それでいいのか。


「……明日は、一緒に学校行こうな」

 僕から促したのは、初めてかもしれない。


 彼女が学校に行くこと――というよりも、人目のある場所に行くことに少し不安があった。高校生が高校生を「パパ」なんて呼んだら、絶対に白い目で見られる。


 このままじゃ、僕らは境界線を見失う。そうして、社会から弾き出されるのだ。それよりは、白い目を向けられた方がまだいい。


 うんともすんとも言わない。拒否の言葉もなかった。

 ただ、ゆったりと寝返って、僕に背を向けた。その肩がほんの少し揺れているのを見て、僕はそれを答えとして受け取ることにした。


 凪も、変わろうとしてくれている。ずっと学校に行っていない彼女からすれば、つらいだろうに。


 あとは、僕がその気持ちを結果にする手伝いをするだけだ。

 今週はまだ一回も使っていない道に、電車。学校までの道のりを頭の中で確認する。目を閉じると、明日の音が少しだけ遠くから聞こえてくるような気がした。

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