『リリアーナの知らなかった一日』

朝の光が差し込む回廊。

金の飾り縁が施された窓が、まるで宝石のように輝いていた。


「おっはよー、ローレンハルト様♡」


軽やかな声とともに、足音が跳ねる。

リリアーナは青いドレスの裾を翻しながら、小走りに近づいてくる。


わざと“様”をつけて呼ぶ声に、青年は振り返る。

その顔を見るなり、リリアはにかっと笑った。


「ふふっ、おたがい様ってことで、ね?」


レンは苦笑して、ほんの少しだけ肩をすくめた。


「おはようございます、リリアーナ様」


「はいはい、“様”ね。まじめ〜」


そんな軽口も、もう毎朝の習慣になっていた。


「ねぇ、今日さ。お昼まで付き合いとか会議でしょ?

終わったら抜け出そ。昨日の続き、行こうよ。ね?」


リリアは腕を組みながら、子どもみたいににじり寄る。

レンは目線を合わせて、やわらかく言った。


「……あとで、ですね」


それだけ言って、彼は一礼し、廊下の奥へと歩き出した。


「……ぜったい、あとでだからねー!」


リリアの声が、天井に高く響いた。



午後の謁見の間。

貴族たちが並び、リリアーナは父の隣で頷きを繰り返していた。


頭には飾り付きの冠、肩には重たくも優雅なマント。

きらびやかなドレスの下で、彼女は何度も体重を左右に移し替えた。


「退屈すぎる……」


誰にも聞こえないよう、小さく口を動かす。

隣の父王は笑いもせず、視線を前に向けたままだ。


そんな中、ひとつだけ、彼女の気がかりなことがあった。


(レン……遅いな)


さっきの「あとでね」が、ほんの少し気になっていた。

いつもなら、こういう式の途中でも、どこかで目が合ったりするのに。


でも今は、どこにもいない。

視線を送っても、返ってこない。


「姫様」


耳元で、側近の一人がささやいた。


「少し席を外されますか?お疲れのようです」


「……うん」


椅子を立ち、部屋の外に出る。

控えの間でカップを受け取った直後――


「――リリアーナ様ッ!!」


大広間の扉が勢いよく開かれた。

走り込んできたのは、別棟で勤務していた兵士だった。


「ローレンハルト様が……っ、高所から転落されました!」


その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの指からカップが滑り落ちた。


ガシャン、という音がやけに遠くに聞こえる。


「どこっ!?レン、どこにいるの!?」


息を呑む側近たちを押しのけ、彼女は走り出していた。

ドレスの裾も、靴も気にせずに。


まだ信じていた。

会いに行けば、きっと「遅くなりました」って、

あの人は笑ってくれると思っていた。


……このときの彼女は、まだ何も知らなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る