旅館『宵待』にて その六
俺はコンポートを平らげると、熱燗をあちちと飲んだ。梨の残り香が意外と甘口と喧嘩しない。
そのまま他の皿にも手を付けた。
他の摘みも全部美味しくて、晩酌だけじゃなくてごはんに食べても良さそうなものばかりだった。
箸休めにも良さそうだし、摘みに合うものだからとご飯と合わせて食べないのはもったいないな。さっと作れて一品足せるなら小皿としてお出ししてもいいかも。食事中にお酒を嗜むお客様も多いので、こういう路線の一品も喜ばれるだろう。
まあ、コンビーフは俺の肴だけどね。
そんなことを考えながら、コンビーフの中央に載っかった卵黄を潰す。橙みの強いとろりとした黄身が絡んだ部分を、箸ですくい上げて口に運んだ。
コンビーフは缶から出した後に、ごま油を入れて混ぜてあった。ごま油の風味とコンビーフ自身の脂と旨味、そういうもの全部を卵がまとめてまろやかに、コク深くしてくれている。
コンビーフ、うまいな。昔から不定期に食べるので買い置きしてある。枕缶を開けるのも楽しかったけど、もう機会は減っちゃっていずれなくなっていくんだろうなぁ。
添えられた千切りきゅうりを食べれば、口の中もさっぱりする。歯ごたえもいい。
俺が機嫌よく食べていると、また淡墨と視線が絡む。なんだ、これも食べたいのかな。
一口分をほらとばかりに箸で摘んで持っていけば、淡墨はぱくりと食べた。もう一口と差し出せば、また食べる。もう一口とすくったところで、片手で制された。
「お前の分がなくなる」
「確かに」
淡墨の尤もな言い分に、俺は、はははと笑う。行く予定のなくなったコンビーフは俺の口の中へと消えていった。
俺が味噌マヨをたっぷり絡めたネギ――火を通し切っていないから少し辛くてシャキシャキうまい――を頬張っていると、上弦さんがこちらに向かってにゃーにゃー鳴いていた。
「淡墨、上弦さんが呼んでるよ」
塩辛を肴に日本酒を舐めるように嗜んでいた淡墨は、ちらりとあちらに視線を送るが、何もなかったように瞳を閉じた。聞こえていないふりをしているようで、じっと息を潜めている。
その様を見た上弦さんは、更に声を張ってにゃーおと鳴いた。あちらは催促してるようだ。
「ほーら、淡墨?」
俺が淡墨の顔を覗き込めば、僅かに薄目を開けた瞳と視線が交わった。墨色の瞳は俺を見た後、一度瞑目して立ち上がった。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
面倒くささを隠しもせず、心底嫌なんだろうなぁと言う声でそう言った淡墨は、のそりと歩き始める。またざりざりと音を立てながら、庭へと出た。
その子供っぽい様子がなんとも可愛らしくて、俺は微笑みながら見送った。
お猫さんたちのゆったりとした行進の中へ、淡墨も混ざっていく。今まではお猫さんの鳴き声と微かな足音――というよりも踏まれた砂や石同士が起こす音――だったけれど、その中に一つだけ、ざりざりざっざと地面を踏んで進む音が加えられた。
お猫さんたちは、参加してきた淡墨を歓迎するかのようににゃーにゃー鳴いた。まるで歌を歌っているようだ。それになんだか、淡墨が加わることで、何となくだけど力強さが加わった気がする。
楽しげにじゃれ合いながら、お猫さんたちはくるくる回る。
集めた力をゆっくり混ぜて練り上げるように。
丁寧に丁寧に。
先頭を歩くのはもちろん上弦さんで、少しツンっと顎を上げて歩く姿は、誇らしげだ。さすが今回の主役を務めるだけのことはある。
前の新月から、たっぷりためてきたいろんなものをお届けするお役目だ。
その後ろでお猫さんたちを引率する淡墨の周りにも、お猫さんが戯れる。
淡墨はあまり興味がないような顔をしているが、けして邪険に扱わないし、俺には見えない信頼があるように思っている。それに淡墨は、うちに来て二年。もう新入りという表現は正しくないが、皆の中で一番の新しい仲間になるからね。お猫さんたちに可愛がられているのは分かる。
一度立ち止まった上弦さんが、長い長いひと鳴きをして、更に一歩足を出した。かわいらしい右足をゆっくりと前に出す。その足が地についた時、ふわりと小さな玉のような光が姿を現す。そうして導かれるように空へと浮かび上がった。
上弦さんだけではない。後ろに続くお猫さんたちの足元からも、ふわふわと上り始めた。もちろん、淡墨の足元からも。
子猫さんが驚いて立ち止まっている。子猫さんの足元からは光が出ていないようで、自分の前足を上げて地面と見比べたりしている。後ろからお猫さんたちにつつかれて、不思議そうに歩き始めた。
他のお猫さんたちは順調そうだ。小さな光が飛び立っているのが分かる。
こうして清酒で清められた円の中、お猫さんたちの足元から、ゆっくりと光の玉が溢れ出した。
キラキラと輝きながら上っていくそれは、蛍のようにも小さな灯火のようにも見える。
柔らかな輝きは、すっかりまん丸になった月に向かって夜空を上っていく。
ふわりふわり、ふわりふわりと。
今夜もきっとちゃんと届くだろう。
俺はそう思いながら、空を見上げた。
月に向かって立ち上っていく、たくさんの光球。ほわりとした柔らかな光を月が優しく見守っている。
穏やかでいて静謐な夜に感慨深くなった俺は、少しぬるくなり始めた熱燗をちびと舐めた。
以前とは少し、いやだいぶ形が変わってしまったけれど。
今日もまたこの日が迎えられてよかった。本当によかったよ、じいさん。
熱くなり始めた目頭を押さえながら、淡墨とお猫さんたちを見やると、徐々に淡墨の髪が輝きを得たように変化していくのに気がついた。
墨色だったそれは、立ち上る光に呼応して溢れた光が髪を染めるように、淡い墨色を経て、月のように清らかな白色へと輝きを増していった。
神々しくて、麗しく、清廉で崇高な稀人の姿へと、淡墨の化現が解かれていく。
力を得た淡墨の実化は、言葉では言い表せないほど圧倒的な荘厳の顕現であった。
俺はこの姿を十分に知っているはずなのに。
特に月の下では、崇敬のあまり言葉も出ない。
貴い稀人さまは、ゆるゆると円を描いて練り歩く。
周りにはお猫さんがついて回り、時にじゃれ、時に鳴き、時に甘え、大事な儀式の最中のはずなのに随分と楽しげに見えた。
淡墨は、お猫さんたちを見やるも、邪険にするわけでもなく、好きなようにさせていた。
その姿が、俺に昔を思い出させる。
すらりとした佇まい。
繊細で長い月白の髪。
宵の夜空のように深い色をした瞳。
星のような青の遊色がきらりきらりと舞う虹彩。
斎服のように真白の和装は、神聖で美しく。
月光に照らされる姿は、夜空に大きく浮かぶ月そのもので、その神々しさに思わずひれ伏したくなるほどであった。
そこまで人智を超える崇高さを持ちながら、あの人はいつも穏やかで人懐こく笑っていた。
つうと一雫が頬を伝う。
俺は咄嗟にそれを袖で拭った。
年を取るというのはこういうことだろう。
昔はよかったと思う。
懐かしく恋しく、憧憬が心を支配する。
けれど今だって、いいんだ、よいものなんだと俺は感じているし、今が好きだ。
今が大事だ。
これ以上、昔が零れ落ちないように、ぎゅうと目を閉じ袖で抑えた。
ざりざりと音が近づいてくる。
顔を上げれば、俺の稀人さまが目の前に来ていた。
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