旅館『宵待』にて その五

 十五夜の夜。


 ほぼ満月となった月が、闇夜を照らしている。


 旅館『宵待』の母屋の庭先は、皓々たる月明を受けたお猫さんたちで溢れ返っていた。

 すっかり毛艶のよくなったふわふわの上弦さんが機嫌よく中央に陣取っている。白くてふんわりしたその姿は、まるで満月のように美しい。


 下弦さんはというと、上弦さんにこの場を任せるようで、自身は縁側で丸くなっていた。


 その横には三宝に供えられたお団子。午後に淡墨と俺で作ったやつだ。十五個をきれいに積んである。脇には稲穂を一穂、ススキを数本飾ったので、すっかり秋の十五夜って感じだ。

 この稲穂は、常連客様からいただいたもの。毎年、秋の早い内に送ってくださるのだ。九月の十五夜は稲が実るよりも先なので、代わりにススキを飾るわけなんだけど、今は昔と違って九月に収穫できる品種があるからその稲穂を飾ってもいいだろうと、一昨年から送られてくるようになった。たくさんいただいても勿体ないので、いつも一穂だけお願いしている。

 その横へ、運んできた団子と餡やきな粉を置く。それに、お猫さん用の煮干しも。


「下弦さん、座布団だよ」


 俺は、脇に抱えていた上質な座布団を下弦さんに差し出した。

 のそりと起き上がった下弦さんは、ゆったりと俺からの奉仕を受ける。座布団を整えた処へ再び座るのを見届けると、艷やかな黒毛の体を数回撫で、脇に煮干しを数尾載せた小皿を置いた。


「はあ〜もう満月か。一日早いけど、今日は十五夜だし、晴れてよかったね」


 俺が語りかければ、下弦さんは夜空の月を見上げながらにゃんと鳴いた。

 俺は下弦さんの隣に座布団を二枚並べて、その内の一枚に座る。ざりとサンダルが音を立てて庭の砂を擦った。

 俺はふうと一息つくと、下弦さんと同じように晴れ渡った夜空に大きく輝く月を見上げた。


 青白い姿を晒す月輪は、今日も大層美しい。


 俺の言葉ではけして正しく言い表せない程に。


「もう九月も半ばなのに、まだ暖かいねぇ。俺が子供の頃はもう涼しくなっていたはずなのになぁ」


 確かこの頃は、もう半袖では肌寒くて長袖だったように思う。でも今は暖かさが残るのだろう、まだ長袖でなくても平気だ。

 ふと昔を思い出しながら、下弦さんに話しかけるというよりも独り言くらいの大きさで、ぽつりと呟いた。


 ざりざりと歩く音が聞こえ顔を上げれば、淡墨がお盆片手にこちらへ歩いてきているところだった。今日の淡墨は深縹色の作務衣で、僅かに紫の混じった深い藍色は、まるで夜空のようだ。

 淡墨は庭のお猫さんたちを眺めながら、俺に盆を手渡す。梨のコンポートを一口に切ったものと、つまみが数種、そして熱燗だった。


「熱燗は早くない?」

「宵が過ぎて夜も深まればそれなりに冷える」


 確かにそうかと納得して、受け取ったお盆を縁側に置いた。淡墨はお盆を挟むようにもう一枚の座布団に腰を下ろす。


 つまみに目を向ければ、思った以上に豪勢だった。きゅうりとイカの塩辛和え、ちくわの射込み、ささみとネギの味噌マヨネーズ炒め、ごぼうの金平にコンビーフの卵黄のせ。他には漬物や佃煮なんかもある。


「こんなに用意してくれたの?」


 こくりと頷く淡墨。

 へへへ、嬉しいなぁ。俺の好きなものばかりだ。

 ちなみに俺が先に持ってきていた団子の盆には、こし餡にかぼちゃ餡、さつまいも餡、きな粉と砂糖を合わせたものもある。こちらも楽しみだ。

 庭で月を見ながら団子を食べる予定だったから、夕食はおにぎり一つだけだった。こんなにあるなら、二人とも満足だろう。こういうのも、のんびりできる時ならではだから悪くないな。


 俺は月見酒を楽しみにしながら、居住まいを正す。

 庭はお猫さんの集会場となり、うちのお猫さん以外も集まってきていた。

 板長のところのぶちさん、大工の親方のお孫さんが可愛がってる茶トラさん、仕入れでお世話になってる酒屋の白さん、行きつけの喫茶店のミケさんも来てくれている。みんな、ありがとうねぇ。

 よく見たら、あのサバ白子猫さんも仲間に混ざってる。きっと皆が外に出たからついてきたんだろうな。水色の綺麗な瞳をパチパチさせながら、キョロキョロと興味深そうに周りを見回している。状況が分かっているようには思えないけど、皆にも歓迎されているみたいだから大丈夫だろう。

 そろそろ始まるかな。俺は静かにお猫さんたちを見守った。


 にゃーんと上弦さんが澄んだ声で鳴いた。一際よく通るその声は、山へと広がり天へ届けと昇っていく。


 それに合わせ、淡墨がゆったりと立ち上がった。縁側に並べてあった一升瓶を一つ取り、冠頭を剥がしていく。俺が手を伸ばせば、流れるように手のひらへと渡された。俺は盆の端に剥がされた冠頭を置く。

 淡墨は片手で中栓を開け、後ろに振る動作で俺にそれを投げ渡すと、ざりざりと庭を歩いていった。

 お猫さんたちからある程度離れた位置に立つと、ゆっくり歩き出す。一升瓶を傾け親指で押さえた隙間から、少量ずつ清酒を撒いていく。それは庭全体を囲うように、お猫さんたちを中心に円を描いた。


 満月と同じきれいな円が描かれると、上弦さんを先頭にその円の中でお猫さんたちの行進が始まる。

 とは言っても、人々が行うような整然としたものではなく、ゆったりとのんびりと自由気ままなお猫さんたちらしい行進だ。歩くのを忘れて、戯れているだけの子たちだっている。にゃんにゃんと言葉をかわしながら、マイペースに歩くお猫さんたち。その可愛らしさに思わず笑みが溢れた。


 役目を一つ終えた淡墨が戻って来た。俺が中栓を手渡せば、一升瓶に蓋をする。こきゅっと可愛い音が鳴った。


「しばらくは眺めてるだけだねぇ」

「ああ」


 俺の言葉に、淡墨が頷く。

 俺が立ち会うようになって四年、淡墨が入って二年。早いものだ。お猫さんの数も随分と増えた。


 俺は淡墨にお猪口を渡すと、そこへ熱燗を注いだ。自分のものもと手酌しようとすると、淡墨が徳利に手を伸ばして俺のお猪口にも入れてくれた。


「ありがとう」


 笑ってそう言えば、淡墨も僅かに笑んだ。

 互いに少しだけお猪口を掲げ合って、口をつける。柔らかな口当たりの米の甘い風味が広がる酒だった。俺が甘口を好むから、淡墨が選んでくれたのだろう。心遣いが嬉しくて、淡墨に向かってにへへと笑った。


 それからは、中秋の名月を堪能しながら、お猫さんたちの儀式を見守り、月見酒としゃれ込んだ。


 ぬるくなる前にと、早々に手を付けたのは梨のコンポート。

 この梨のコンポートは、子猫さん用に購入した梨の残りで作ったものだ。上質の梨を使っているし、淡墨の力作。昨晩食後に食べたが、もう少し食べたかったなと夕食で腹が膨れていた俺は悲しんだ。それくらいうまかったので、また食べられるのを俺は楽しみにしていた。

 少しだけ薄く切った梨をワインと砂糖を加えて煮たものだけど、白くて少し透明な果肉は更に透けて宝石みたいに綺麗だ。一口サイズに切ってくれているそれを箸で口に運ぶ。梨の香りと一緒に広がる白ワインの風味、生のまま食べるよりも柔らかさの増した食感や果汁の爽やかさは、上品な瑞々しさを与えてくれる。


「はあ、うまいなぁこれ」


 俺が噛み締めるように味わっていると、熱燗をちびちびと口に運びながらこちらを見ている淡墨と目が合った。


「なぁに、淡墨も食べたいの」


 一欠片を箸で摘んで、淡墨の口元に持っていく。淡墨は少しの間の後、僅かに口端を緩めて梨を口に含んだ。食べ切るのを見届けると、俺は尋ねた。


「おいしい?」

「ああ」


 淡墨も満足そうだ。

 淡墨はうちの料理人だからお客様にお食事をお出しする立場だけど、俺と二人の時は習作も兼ねて色々と作ってくれるし、自分でもちゃんと味わっていく。きちんと味見もするけど、やっぱりちゃんと食べて、味、量、食べ心地、他の料理との兼ね合いなどを理解しないといけないものな。淡墨はそういうことを怠らない。

 梨の時期にお出しするデザートに加えてもいいかもしれないと提案すれば、淡墨も頷いた。

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