旅館『宵待』にて その七

 淡墨は、髪と同じく本来の色を取り戻した金瞳で、俺を見つめ一つ問う。


「どうした、またあの男が恋しいのか」


 俺は無言のまま首を振った。そしてへらりと笑う。

 はは、まさか。そんなことあるわけがない。お会いしたいとは思ってもそれは慕わしい気持ちであって、けして恋慕の情ではない。


「お前はいつもあの男に魅入られているな」


 淡墨の声も表情も、呆れているというより仕方がないなと僅かに笑っているようだった。たぶん、諦観に近い。


「魅入られてるって、そういうんじゃないよ」

「気がついていないのか?」


 淡墨は少し呆れつつ訝しげに俺を見る。

 それから柔く拳を作ると、俺の口元へ寄せた。ちょうど中指の指の背が、俺の唇と触れ合う。

 そうして、その拳を天へと優しく広げてみせた。さながら手の中に閉じ込めていた蛍を放つようだった。


 ふわりと飛び立ったのは蛍ではなく、一つの光球。


 その光の色は――


「見事な月白だ」


 淡墨は言い聞かせるように言った。なんと答えたらいいか分からなくて、俺は口を噤んだ。


 月白とは、つまりは月の色。

 それが何を表すのか、俺だって分かっている。

 でも、淡墨が思っていることとはちょっと違うのだ。

 ただうまく説明ができない。


 互いの無言がしばし続く中、淡墨が放った光の玉は、お猫さんたちから飛び立つ光と混ざって、夜空へと静かに上っていった。


 淡墨は、俺に覆いかぶさるように縁側に両手を突いた。

 思わず仰け反ったところに無骨な手が伸びてきて、俺の涅色くりいろの髪を指で梳った。前髪を優しく指先ですくい上げる。


「この印が口惜しいと思ったことがある」


 そう言って、一房だけある白髪をするりと撫でた。


「この印をつけたのがおれであれば、どれほどよかったか」


 眉根を寄せて目を細め、じいと俺の髪を見つめている。そんな淡墨を眺めて、男前だなぁなんて思っていた俺だったが、ばちりと目が合った。ぱちりと瞬き合った後、ずいと淡墨が顔を近づけてくる。

 押し倒さんばかりに体を寄せる淡墨から逃れようと、俺は縁側に半ば倒れ込むように後ろ手に肘をついた。

 その腕が当たって、お猪口が倒れたのが分かった。入っていた日本酒が縁側に広がる。その向こう側へ肘をついたところに、じわじわと温かい酒が染みている。


「こーら、零れちゃったでしょうが」


 俺が窘めるように言っても、淡墨は気にした様子もない。


「どうしちゃったの、俺の稀人さま」


 耳元から顎にかけて、俺は淡墨の頬を優しく撫でた。

 俺よりも淡墨は心身ともに逞しいし、しっかりしている。そんな風に俺は思っているけれど、こういう時は会った時と同じ、まるで子供のように思えてくる。


「いつまでもおれを稀人扱いするな」


 淡墨は、更にずいと身を乗り出してくる。合わせて俺も身を反らすが、限界があって額同士がこつんと触れた。すっかり金色に変わってしまった煌めく瞳と視線が交差する。


「己はあの男の眷属になった。もう稀人ではない」

「ち、違うの、この旅館にいる徒人でない方を稀人さまとお呼びするのは、俺の方針なんだってば」

「なら、猫らとて徒人ではないだろう」

「もー、お猫さんたちは、人じゃないでしょ、だからお猫さんなんだってば」

「己と猫たちに差などない」


 俺は淡墨に伝わるよう話しているはずなのに、淡墨は一向に理解しようとしてくれない。


「理由はなんだ。己が此処ではない理で生まれたからか? それとも、今の己では格が足らないからか? 己があの男の代替品でしかないからか」


 いつもより饒舌な淡墨は、じいっと俺を見つめた。

 金色に輝くその瞳に、俺は心から魅入られる。黄玉のようにも琥珀のようにも見える美しい玉眼に惚れ惚れしてしまう。さらりと落ちる髪も、月光の中、絹糸のように透ける、銀糸のように輝くそれで、神々しさに拍車を掛けていた。

 人ならざるものであるという事実を再確認し、俺は怖気を震う。それはけして恐ろしい悍ましいといった感情ではなく、矮小な俺が崇高な存在を前にしたことの表れだった。

 とうとう最後の力が抜けて、ぽてっと縁側に寝そべった。


 瑩然でとても眩しい。


 そう感じる対象は、この白髪金眼の稀人なのか、それとも彼の向こうから見下ろす月輪なのか――。俺には一切分からなかった。


「淡墨は、淡墨だよ」


 俺はそろりと手を伸ばし、俺の稀人さまの名を呼び、もう一度頬を優しく撫でた。


 俺が「俺の」と称する稀人さまは、お前だけなんだけどなぁ。


 淡墨は、顔をくしゃっと歪めた後、俺を片腕でぐいと抱え起こして、俺の首元に顔を埋めた。そうして、はあぁと大きくため息をつく。触れる体温も呼気も温かい。


「今この『宵待』のあるじが誰なのか、お前には分からせる必要がある」


 淡墨の声が、俺の耳をくすぐりながら溶けていく。

 随分と近くて、たっぷりと響く、とても甘い声。

 俺の首元に触れる心地よい温かさ。

 じわりと滲む酒のぬるさに、ふわりと漂う甘口の香り。


 いろんなものが混ざりあって溶け合って、淡墨との距離感が曖昧になっていく。ぼんやりと境界線が消えていくようだ。

 温かな感覚が心地よくて、ついうっとりとさせられる。

 このまま溶け合って――


 酔いもあって淡墨の体の温かさに微睡みそうになった俺だったが、はたと思い出して目を開いた。そうして声を上げる。


「ま、待って、まだ神事の途中だから!」


 そうだ、まだお猫さんが供物を捧げる儀式をしているのだ。立会人の俺が抜けるわけにはいかない。


「あれは猫たちに任せておけばいい。そうだろう、下弦」


 俺たちの横でくつろいでいる下弦さんが、こちらをちらりとも見ずに、にゃーんと答えた。


「ええぇ、下弦さんは淡墨の味方なの? 薄情な……」


 俺の嘆きは、そのまま無視される。

 そりゃあ、俺は旅館の主人が本業だし、こういう時も立ち会うだけしかすることがない身なんだけど。それでも最後まで皆と一緒にいたいんだけどなぁ。

 そんなことを考えている間にも、事も無げに担がれてしまう俺。


 淡墨は、庭へと振り返りながら、少し声を張った。


「上弦、委細任せられるな。己と宵月は終夜、白月はくげつに籠る」


 ゆるゆると行進を続けていた上弦さんは、こちらを見つつにゃーと鳴いた。


 光が上る中、佇む長毛純白のお猫さん。

 強い月の逆光にも金の瞳は輝きを失わない。

 とても美しいし、凛然という言葉は、今使うべきなのだろう。

 月輪の下、まさに月に仕えるもの斯くやという姿だ。


 なのに、当の本人は、まるでからかうように楽しそうに、ふわふわ尻尾をゆったりたっぷり振っている。ああいう時は大体機嫌がいい。つまり、好きにすればという気ままな様子でも、其の実、本心は同意を表している。


「上弦さん、楽しんでるでしょ! あと、淡墨、夜すがらはだめだって」


 俺は情けない声を上げる。

 ここの片付けはしなくちゃいけないし、戸締まりだってしなくちゃならない。来てくれたお猫さんたちにお礼のご馳走をしてからきちんとお見送りして、うちのお猫さんたちは家に入れなくちゃ。それに、せっかくの団子も食べてないんだぞ。作った餡だって、俺は食べたいの。


 俺はじたばたと足掻くのだけれど、淡墨の鍛えられた体躯に勝てるわけがなかった。このままだと俺は片側の肩に担がれて、母屋へと運ばれそうだ。

 俺を様子を見て、淡墨は小さく笑った。


「安心しろ、猫たちが朝までここで見張ってくれる。それに明日は満月だ。そこら辺のなにがしくれがしに負けるようなものは、このやしろにはいない」


 そう言って、淡墨はサンダルを脱いで縁側に上がる。

 俺も淡墨に担がれたまま、サンダルが脱げ落ちた。一つはそのまま地面に落ちて、もう一つは一度だけ縁側を跳ねた。

 下弦さんが気にするなと一度だけにゃんと鳴いた。俺が気にするのは、サンダルそれじゃないよぉ。情けなくて泣きそうだ。



「ああそれと――」


 俺を肩に担いで奥の部屋へと歩き始めた淡墨だったが、思い出したように足を止める。


「それは逃がすな」


 淡墨が一瞥もせずにそう言い放つと、お猫さんたちは一斉に一箇所を見つめた。


 その中心には、皆の様子の変化と鋭い視線にすっかり怯えてしまったサバ白の子猫さんが、腰を抜かすように座っていた。

 はは、さっきまで楽しそうにみんなについて回っていたのにね。かわいそうに。


「にゃ、にゃーん」


 子猫さんは、か細い、庇護欲を掻き立てるような声で鳴く。


 その様子を見ながら俺は、相変わらず猫の鳴き声を真似るのが下手な子だなぁと、ちょっと間抜けなことを考えていた。

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